第5話
客足が増えてきたので、晴嵐は名残惜しそうなママにご馳走のお礼を言って、店を出た。こんな子供がいつまでも店の中にいたのでは、せっかくのお店の雰囲気を台無しにしてしまう。
ミチルがこっそり注いでくれた晴嵐専用のお酒のおかげで、機嫌なまま家に帰り着いてから、晴嵐は今日の明太子グラタンが中山さんの新作だったのだと気づいた。
「中さんにおいしかったって言ってなかった……」
皆実夜雨のことに気を取られてしまっていたらしい。
以前は一流レストランのコックをしていたという中山は、新作を作るたびに晴嵐に味見をさせてくれる。どうも晴嵐の祖母仕込みの渋い味好みが彼の気に入ったらしい。アイディアに困ったら晴嵐に相談するのである。
こんなお子様の味覚でクラブのメニューが決まっていいのかと、晴嵐はいつも思うのだが、斬新なものに目がない中山は気にしていない。
こういう風変わりなところがきっと普通の料理店ではそりが合わずママに引き抜かれてしまうことになったのだろう。
飛び上がるほど熱いシャワーを浴び、ベッドにもぐり込みながら、ふと晴嵐は思った。皆実のムシよけは、男に対してだけでなく、女の子に対しても効いているのではないか。ようするに、彼女は人との関わりを極力避けているのだろう。
どうしてなんだろう。
他人とは、よく分からなかったり、かと思えば驚くほど分かりやすかったりして面白い。人を観察するということは、どんな哲学の本を読むよりも実践的でためになるものだ。人の振り見て我が振り直せではないが、いろいろなことに応用がきく。
他人に染まる気はないが、こちらに染料が飛んでこない程度には近付いて、人というものを観察するのは面白い。特に身内が少ない場合は。
ミチルに言わせれば、「中学生日記」なのだそうだ。
翌日は大雨でサッカー部は珍しく自主トレだったので、晴嵐はサボって(当然!)図書室に行くことにした。中学校の図書室なんて、たかが知れていると思われるだろうが、ところがどうして、この学校の図書室は、全国でも屈指の書庫量をほこる価値ある場所なのだ。
なぜなら私立だから。書籍の寄付や新書を購入するための寄付も多いのである。毎週土日には一般の開放もされているくらいなのだ。そのおかげで幅広い分野の書籍がそろっている。
暇をつぶすことに余念がない晴嵐にとって、本は日常生活に欠かせない必須アイテムだった。
ぺちゃんこのカバンを斜めがけにして晴嵐がふらふらと図書室に入っていくと、カウンターの向こうに座っている皆実の姿があった。
彼女は下を向いて何か雑務をしているらしく、晴嵐には気づいていない。
「皆実さん」
晴嵐がカウンターまで近付いて声をかけると、ようやく夜雨は目を上げた。雑務に邪魔なのか、いつもは胸元におろしているおさげのシッポが今は後ろに払われている。
「何か面白そうな本入ってない?」
夜雨は少し首をかしげて晴嵐を見た。赤い口元がきりっと結ばれている。
晴嵐は、その唇が開かれるのを辛抱強く待った。
「相楽君の本の趣味って知らないんだけど」
そう来ると思っていた。なかなか愛想がなくてよろしい。
「それもそうだね。じゃあさ、新書一覧ちょうだい。ノンフィクションの部類だけでいいから」
「相楽君って、ノンフィクション派なの?」
おや、珍しい。皆実から何か聞いてくるなんて。彼女が奥の棚から持ってきた一覧表を受け取りながら晴嵐は笑った。
「ちがうよ。オレは濫読派。ノンフィクション、SF、恋愛ものなんでもオーケー」
「それって、ようするにこだわりがないってことじゃない」
「人が書いたものを読むのにこだわりがいるの?」
「そうではなくて、自分の好みの話よ」
「ああ、そういうこだわりはないよ。というか、必要ない」
「……そうみたいね」
夜雨はその端整な顔に、やれやれという表情をちらりと見せた。それからカウンター越しに晴嵐が手にしていた一覧表をおもむろに取り上げ、手にしていたマジックでそれにいくつか丸印をつけた。
「図書委員のおすすめ。ちらっと見ただけで私もまだ読んではいないけど」
「おお。どうもありがとう。こんなにあると迷っちゃうな」
夜雨は何も言わずに椅子へ腰掛けると、そのまま仕事の続きを始めた。
晴嵐は四つ丸印がつけられた一覧表を丁寧にカバンにしまうと、そのまま図書室を退散することにした。
読書用の本は、基本的に一冊ずつ買ってそれが読み終わるまで次のを買わないようにしている。晴嵐なりの愛着の証だ。
文字も文章も生きているから大切にしないと。
よく祖母に言われた言葉だ。晴嵐もそう思っている。生きた人間が丹精をこめて書いた文章だからこそ、ストーリーは生きてくるのだし、逆に機械的に書かれた文章はどんなに技術があっても面白みがない。
文章が下手でも、書き手の人間味がにじみ出て見える文章が晴嵐は好きなのだ。文章の向こうに見える書き手がどんな人間なのか想像しながら読むのが面白い。
だからどんなジャンルの本でもこだわりなく読むことができるのかもしれない。
――皆実さんはちがうのかな。
真っ直ぐ家へ戻り、着替えながら晴嵐は思った。
土砂降りの中を歩いて帰ったので、制服のズボンの膝から下がびしょ濡れである。早いうちに乾かしておかないと、明日は湿ったズボンで登校する羽目になる。替えはない。入学式の時に祖母がケチったからだ。どうせ途中で買い換えることになるよ、と祖母は言ったのだ。
確かに、そろそろ換え時だった。何しろ入学してから身長が十五センチほど伸びてしまい、もうこれ以上ズボンの裾を伸ばせないところまできている。しかし、それでも晴嵐の背丈は伸びつづけているのだ。
このままでは寸足らずのズボンをはいていかなければならなくなってしまう。それはちょっと嫌だった。
ちょっと小腹が減ったので、かるくパンをかじってから出かけることにした。目指すのは近所のよく行く本屋である。大手のチェーン店ではなく、こぢんまりとした個人経営の本屋だ。品揃えが晴嵐の好みに合っており、行けば必ず何かを買ってしまう。
レジにはたいてい人のよさそうなおばちゃんがいて、晴嵐が行くといつもニコニコと迎えてくれる。
以前、仕入れはすべておばちゃんの旦那さんがやっているのだと教えてもらった。自分の趣味で本を仕入れているから困っているのよ、とおばちゃんは言っていたが、趣味で大いに結構。そのおかげで晴嵐はいつも面白そうな本を発掘することができるのだ。
今日も本屋のレジにはおばちゃんがおり、晴嵐がドアを開けると、「いらっしゃいませ」とにこやかに迎えてくれた。
「こんにちは。この丸印のついている本、どれかありますか?」
晴嵐は夜雨が丸印をつけた紙をおばちゃんの前に広げた。彼女はそれを手にとって目を細めるように見ながら考え込んでいたが、やがて「ああ」と小さく呟いた。
「これならあるわよ。この一番下の本」
「どこの棚?」
レジを出て本を取りに行こうとしたおばちゃんを止めるように晴嵐は言った。人の多いこの時間帯におばちゃんをレジから離れさせるわけにはいかない。
「左手の一番奥よ。分かる?」
「分かる。ありがとう、おばちゃん」
にこりとおばちゃんにお礼を言ってから、晴嵐は奥の本棚に向かった。
奥にあるということは、新刊じゃないのかな。
新刊はレジの前におかれている。まずそこで面白そうなのをチェックしてから奥から順に本棚を探す、というのが晴嵐のいつもの順路だった。
目指す本棚の手前で、晴嵐は首をかしげた。先客がいる。
艶のある黒髪をおさげにした中学生。
――皆実夜雨だった。




