第4話
そもそも、祖母が死んだ時、晴嵐の身を案じて信頼できる弁護士を紹介してくれたのもママだった。お店の常連客らしいのだが、これがなかなかの男前で、見るからにママ好みだった。――密かに二人はできているに違いないとふんでいる。
その弁護士先生が晴嵐の代理人としてやってきた時、おばの正子は戸棚の奥から滅多に出さない最高級の玉露を、これまた滅多に使わない高級品の茶碗に入れて彼の前に出したのだ。そういうところに彼らのあさましさが見え隠れしていて、晴嵐は気分が悪かった。
――オレは知っているんだ。
白い湯のみ茶碗から立ち上る湯気を見つめながら晴嵐は内心毒づいた。その玉露は、典返しに使うからといってオレから巻き上げたお金で買ったものだ。
反吐が出るって、こういうときに使うものなんだろうな。
弁護士の横で正座をしたまま、晴嵐は黙っていた。どうせ自分が何を言っても「子供のくせに」とか「この恩知らず」とか言われるに決まっている。
だから何も言わない。晴嵐がどうしたいかはすべてこの弁護士に話してあった。
がんじがらめの籠の中で一生空を飛ぶことのできない鳥のように、自由になることを考えながら生きていくのは嫌だった。
義務教育が終わるまであと二年。たった二年だと誰が今の晴嵐に諭すことができようか。十三歳の少年にとって、二年という月日は無期懲役をくらった囚人同様に長く苦しいものなのだ。
おばの正子にどういう説明をしたのか晴嵐にはよく分からなかったが、数度にわたる弁護士先生の訪問のあと、晴嵐は晴れて自由の身となったのだった。
もちろん学校に対する面目上、ママの保護下ということにはなっているが、実際は弱冠十三歳にして一人暮らしなのである。
ママは晴嵐を自分のマンションに引き取りたがったが、さすがにそれは丁重にお断りさせてもらった。寂しくないと言えば嘘になるが、祖母との暮らしの中で、家事全般すべて自分でできるようになっている。
「晴ちゃん、中学生にしてはしっかりしてるものね」とママのお墨付きがある通り、生活していく上で不自由なことは何もなかった。ご近所の目をごまかすことを除いては。
そんなわけで、一年生から二年生にかけて、転校したりまた戻ってきたりと、周りのことに対して余裕がなかったのである。
「誰、それ。クラスの女の子?」
晴嵐の前のカウンターに明太子グラタン(山盛り。そしてそれはいつものノルマなのだ)の皿を置いて、ママはちょっと小首をかしげた。
彼女はスラリとしていてスタイルもよく、手術も済ませているので、どこから見ても女性にしか見えない。
キレると額に青筋を立て、ドスの利いた声音になるので、その時はさすがに怖いが、それ以外は気のいいお姉さんなのだ。
「前の席の女の子」
ママからフォークを受け取りながら晴嵐は答えた。
久しぶりにお店に顔を出したら、ずっと病気でお店を休んでいたミチルが出勤していたので近況報告をしていたところだった。皆実夜雨の話をしていたのをママが耳ざとく聞きつけたのである。
「おさげに黒ぶち眼鏡なんて、今どきずいぶん野暮ったい女の子ね」
「だから、それはたぶんわざとなんだ」
「どうして?」
横からミチルが聞いてきた。
「理由は知らないよ。ただそう思うだけなんだ」
「晴ちゃんの女を見る目は確かだもんね」
からかうようにママが言ったので、晴嵐はちょっと肩をすくめて見せた。
お店はまだオープンしたばかりで、客はほとんどいない。だからママもミチルもカウンターで客でもない晴嵐の相手をしてくれている。
ミチルはこのお店のNo.2なのだが、夏前に身体をこわしてずっと入院していた。母親と四人の弟妹の六人家族のミチルは、家計を助けるためにこの世界に入り、さらにママに内緒で他にもお店を何件か掛け持ちしていたらしい。
「身体が資本なんだから、もっと自分を大切にしなさい!」
ミチルが倒れた時、真っ先に駆けつけたママは病院で人目もはばからずに大声でミチルを叱り飛ばしたらしい。
晴嵐も何度か彼女のお見舞いに行った。六歳離れたミチルは、この店では一番年が近く一番仲がよい。
「わざわざ野暮ったい格好をしているその女の子のことが晴君は気になるんだ」
ミチルが言った。彼女は、女性になるための手術はまだなので、胸には形のよいパットをはめている。そのため、ママのように胸元の大きく開いた服を着ることはないが、そんなことは関係なく、ミチルは本当に素敵な女性だった。
普段、弟妹たちの世話を焼いているせいか、他人に対してこまやかな気遣いが行き届いている。それも決して相手に気がつかせることなく、さりげないのだから本当にすごい。
ママに言わせると、この商売は彼女の天職なのだそうだ。
「普通、気になるでしょ。彼女、すごい美人なんだから」
「晴君のお眼鏡にかなうんだから、本当に美少女なんでしょうね。それってさ、多分ムシよけなんじゃないの?」
「むしよけ?」
「ようするに、ネンネな男子中学生に用はアリマセンてこと」
ミチルは本当に素敵な女性なのだが、いかんせん毒舌なのだ。大切な客とか仲間とかには本当に細やかな気を使うくせに、その反動なのかどうでもよい相手に対しては本当に冷たい。
晴嵐はなかなかなくならないグラタンを口の中でもぐもぐしながら考えた。
「それってさ、彼女はもう大人な女性てこと?」
「そういうこと。晴君だって、学校の女の子には興味ないでしょ?」
「ないけど。でも、オレわざわざ野暮ったい格好をしようとは思わないよ?」
晴嵐がそう言えば、ミチルはふふんと鼻で笑った。
「晴君の場合は、興味はなくても関わってはいたいと思っているでしょ?だけど、その子の場合は、きっとそれすらも面倒なんじゃないの?」
そうかもしれないと晴嵐は思った。そして、会ったこともないのに皆実のことが晴嵐よりも理解できるミチルはすごいとも思った。これが経験の差なのだろうか。それとも、女性のことは女性にしか分からないのだろうか。
「大人な女性ってことは、やっぱりもう男を知っているってことだよね」
「当然」
晴嵐の言葉に、ミチルは煙を吐き出しながらそう答え、ふと気が付いたように「ゴメン」と呟いて慌てて灰皿で火を消した。
ママもミチルも、そしてこのお店のやさしいお姉さんたちみんな、未成年の晴嵐の近くではタバコを吸わないように気を使ってくれる。
そういうとき、みんなが晴嵐のことを家族のように可愛がってくれているのだと実感して嬉しくなってしまう。
「でも、大人の男を知っているからお子様たちには興味がないのか、男で嫌な思いをしたから敬遠しているのかどっちなんだろう」
「晴君って、よくそういう難しいことを思いつくわね」
灰皿をカウンターの向こうのバーテンに手渡しながら、ミチルはあきれた声をもらした。
「どっちかなんてわからない。もしかしたら、そのどちらでもあるのかもね」
「そうかな」
言ってはみたものの、実際は皆実夜雨にしかわからないことだ。
やっと空になったグラタンのお皿を同じくバーテンのお兄さんに渡し、晴嵐はグラスの水をごくりと飲み干した。
ムシよけか。
どちらにしても、皆実夜雨が誰かと付き合っているという話はもちろん、誰かが彼女を好きだという噂すら聞いたことがない。その点では、確かに彼女のムシよけ対策は成功していると言えるだろう。
でもそれって、自分が可愛いって自覚しているということじゃないか?




