第3話
――ああ、あの時はそれどころじゃなかったっけ。
晴嵐は顔をゆがめるように苦笑した。
今までの人生で、一番余裕のなかった時期だ。まだ十四年しか生きていないけれど。
一年生の終わりを目前にして、それまでずっと一緒に暮らしてきた祖母が死んだ。高齢者によくある心筋梗塞だった。少し高血圧気味だから気をつけるようにと、健康診断でかかりつけの医者から言われたその矢先だった。
両親の代わりに晴嵐を赤ん坊のころから育て上げ、「ひ孫の顔を見るまでは生きているぞ」と笑っていた豪傑な祖母だったのに、最期はひどくあっけなかった。
その日、部活が休みで友達との約束もなかった晴嵐は、珍しくまっすぐ帰宅した。そして家で、祖母が病院に運ばれたという知らせを受けた。
とりあえずスマホと財布をポケットに押し込んで、タクシーで教えられた病院へ駆けつけた。だが、祖母はすでに息を引き取った後で、彼女の顔には白い布がかけてあった。
この布は、毎回洗って使い回しているのだろうか。
真っ白なその布をめくりながら、そんなことを、うっすら考えていたのを今でも覚えている。
突然つき付けられた祖母の死は、それくらい非現実的なものだった。
だが、本当に非現実だったのは、それからだった。
まず、晴嵐には両親がいない。母親は生きてはいるらしいが、その行方を誰も知らない。
祖母は晴嵐の父方の母で、晴嵐の母親についてはただの一度も話してくれた事はなかった。
晴嵐自身、母親の顔を知らなかった。祖母がふっと漏らした話をつなげて考えると、どうやら自分を生み捨てるように父親に押し付けて姿をくらましてしまったらしい。
父親は父親で、妻が失踪したことが堪えたのか、それとも赤子をどう育てればいいのか分からなかったのか、赤子の晴嵐を自分の母親に預けたきり顔も見せなかった。
挙げ句の果てに、晴嵐が十歳になったころには、ひと回り年下の女性と再婚するから引き取る気はない、と言ってきた。
実の息子の横暴にさすがの祖母も激怒した。会社にまで押しかけて話し合いをした結果、彼が持っていた財産のほとんどを晴嵐の名義に変えて親子の縁を切ることで、とりあえずの決着が着いた。
祖母が自分の息子からふんだくったお金は結構な金額だった。当時、父親はかなり高給取りだったし、それで片がつくなら安いと考えていたのかもしれない。
しかし、それに激怒したのは、再婚相手の女だった。
彼女は父親の財産が目当てだったらしく、そのほとんどが正式に晴嵐のものになってしまったと分かったとたん、手のひらを返したように他の男に鞍替えをしてしまったのである。
哀れなのは父親だった。
式を待つばかりで幸福の絶頂にいたはずが、一瞬のうちにどん底に突き落とされてしまった。挙句、式のキャンセルや招待状を送った相手に詫び状を入れたりと大変だったらしい。
――そして、一か月後。父親は自殺した。
一度も会ったことがない父親だった。彼の人柄は祖母の話から推察するしかないが、彼は押しに弱い割と気弱な人だったのだろう。祖母の気の強さからは想像もつかなかった。いや、むしろ女手一つで厳しく育てられたからこそ、父親は自分の意見を表に出せない人間になってしまったのかもしれない。
だけどそれを祖母のせいだとは思わなかった。
同じように祖母一人に育てられた晴嵐は、父親とはまったく違った性格の少年に成長している。
ようするに、物事を見る目や状況を楽しもうという余裕、他人との関わり合い方、そういう自分で身に付けるべき社会性を父親は怠ったということなのだ。
それは周りの誰かのせいではなく、明らかに本人の問題なのである。
だから、晴嵐は息子を亡くした祖母のことを可哀想だとは思っても、死んだ当の本人に対しては自業自得だと思っている。
祖母は、一人息子の死にも毅然としていた。
そして葬儀の後、さらに背筋を伸ばすようにして、晴嵐に言った。
「晴嵐、若い時に色んな経験をしておきなさいね。若いうちに女で失敗してもやり直せるけど、ある程度年をとってからではダメね。ダメージが大きすぎて。仕事も人間関係も同じだよ。」
十歳になったばかりの子供に言う言葉ではないと思う。
けれど、それが祖母なりの精一杯だったのだろう。
――でもね、ばあちゃん。若い時から女遊びをしていても、四十、五十代のいい大人が女で身を滅ぼすこともあるんだよ。
結局、たった一人の身内(母親は論外)である祖母が死んで、晴嵐は自分名義のマンションと多額の預金が入った銀行の通帳を抱えた孤児になってしまったのだ。
そうなると面白いもので――いや、まったく面白くはないのだけれど。今まで一度も連絡してこなかった、親戚を名乗る人たちからの電話が相次ぐようになった。
内容はみな同じで、晴嵐を引き取りたいと言うものだった。うわべでは誰もが晴嵐の境遇を自分のことのように悲しんで同情してくれていたが、その腹のうちは言わずと知れていた。
ようするに、まだ十三歳の中学生で生活能力のない晴嵐の保護者となり、銀行の通帳を養育費として我が手にしようという魂胆なのだ。
毎日かかってくる電話を適当なことを言って切っていたが、このままだと保護者のいない晴嵐は嫌でも児童施設に入らなければならなくなっていた。
それでも、ハイエナのような自称親戚たちの中で蝕まれるように生きていくよりかはましだと思っていた。だが、児童相談所の人と祖母の姪(これがまた怪しい)とか言うおばさんとの間で話し合いが持たれた結果、この親戚のおばさん宅に引き取られることになったのだ。
そこは祖母とずっと二人で暮らしてきた街からずいぶん離れた場所(というか飛行機で1時間半以上かかる)だった。
新たに身を寄せることになった場所は、「新しい家族」という名のオモリを身にまとわなければならない檻の中だった。
しばらくはそこで世話になっていた。愛想よく振る舞う裏で、晴嵐が隠した預金通帳と印鑑を探り当てようとしている彼らと暮らしていると、気がおかしくなりそうだった。
いつまでたっても晴嵐が思い通りにならないと分かると、今度は彼を邪険にしつつ、あからさまに彼の財産を当てにし出したのである。
しかしそこを飛び出しても、まだ子供の晴嵐には社会で生きていく手立てがなかった。
人に借りをつくるのは好きではなかったが、このままでは一生を食い潰されてしまう。晴嵐はたまたま知り合って以来、ずっと可愛がってくれているゲイバーのママに相談することにした。
このゲイバーは表通りから少し裏に入ったところにあるこじんまりとした店だった。質のよいサービスと料理で割と人気があり、男性客よりもむしろ女性客の方が多い。
夏休みに遊びすぎて終電に乗り遅れ、この店の裏でうたた寝をしていたところ、たまたま裏口から顔を出したママに拾われた。たらふく夜食を食べさせてもらった上に、始発の電車が出るまで店の奥のソファで寝かせてもらったのだ。
彼女は、なかなか豪傑な人だった。
寝ぼけている晴嵐をひょいと持ち上げ、店の中へ連れて行き、呆然としている彼の前に特大山盛りのピラフを置いて「男の子はこれくらい食べなきゃね」とにっこり笑って見せたのだ。
顔の広い彼女のおかげで、祖母と住んでいたマンションも、次の借主が契約をする寸前で取り戻すことができた。




