第2話
「相楽ってさ、塾に行ってるっけ?」
放課後、部活に行くために教室で着替えていると、同じく着替えていた吉中が不意に聞いてきた。
「行ってない」
「じゃあ、家庭教師とか?」
「ううん。それもなし」
そう答えると、吉中は体操服を頭から被ろうとした体勢のまま、驚いたようなうらやましいような顔で晴嵐を見た。
「自習であんな点数取ってるのかよ」
「まあね」
晴嵐は学校では割とおちゃらけた元気少年で通っている。吉中にしてみれば、晴嵐が家に戻ってから机に向かって勉強している姿など想像もつかないのだろう。
そして晴嵐とバカコンビを組んでいる吉中は、万年下位争いの常連なのである。
悪いね、吉中。努力は人目につかないところでするものなのさ。
内心ほくそえんでいると、吉中は不意に思い出したように呟いた。
「そういえば皆実さんも家庭教師つけているらしいぜ」
「へえ?」
「この間、真中が言ってた。一年生の時からだって。だから頭いいんだな」
なるほど。確かに彼女の場合、塾でみんなと一緒に授業を受けるというよりも、自分の部屋で家庭教師に勉強を見てもらうというほうがしっくりくる。
それにしても――あの彼女と二人きりで勉強できる家庭教師とは、一体どんな人なのだろうか。かなりできた人間か、それとも鈍感な単純バカか。いや、バカでは勉強は教えられないか。
「相楽、オレ球出し当番だから先行ってるよ」
物思いにふけっている間に着替えを済ませてしまった吉中は、そう言い残してさっさと行ってしまった。
晴嵐はやっと制服のシャツを脱いだところである。他の部活の連中もとっくに着替えて行ってしまい、教室には晴嵐一人だけだった。
子供の頃から着替えるのが遅く、祖母にはよく笑われたものだった。脱ぎながら着替えを一つ一つ取り出したり、脱いだものをわざわざたたんだり、挙句には途中でぼんやり考え事をするものだから、パジャマに着替えるのにも十五分かかってしまう。
だがのんびり屋の祖母はそれをたしなめるわけでもなく、晴嵐がもたもた着替えるのをいつもニコニコして眺めていた。おかげで十四歳になった今でも相変わらず着替えが遅いのだ。
かばんの中からごそごそと体操服を出していると、突然教室の後ろのドアがガラッと開いた。
体操服をつかんだまま顔をあげると、戸口のところに皆実夜雨が立っている。
ちょっと可愛げのある女子ならここで「きゃあ」と声を上げるところだろうが、
「着替え中ごめんなさい」
案の定、彼女は表情一つ変えずにそう言うと、つかつかと晴嵐の前にある自分の席まで歩いてきた。机の横にかけてあったカバンをつかんで机の上にどさっと置く。
皆実さん、いくらオレの貧弱な身体でも、ここまで無反応だとちょっと寂しいぞ。とはさすがに声には出せないので、
「皆実さんも部活に入ってたっけ?」
彼女のうなじに向かってそう聞いてみた。どうせそっけない返事しか返ってこないだろうと思っていたのに、意外にも彼女は振り向いて晴嵐をまっすぐ見上げた。
「委員会だったの」
「ああ、図書委員会ね」
そう言ってもぞもぞと体操服を着込む。ズボンをはき替えるためにカチャカチャとベルトをはずしても皆実はまるで動じない。鈍感なのか馴れているのか、どちらとも判断がつかないところだ。
そしてこれまた意外にも、晴嵐の言葉に夜雨は赤い唇の端に見落としてしまいそうなほど微かな笑みを含ませた。
「知ってたの?」
落ち着いた、心地のよい声音がちょっと意外そうな響きを持っていた。よく考えたら、向かい合って真正面から皆実の声を聞くのは初めてのような気がする。
「オレ、図書室よく行くから。皆実さん、よくカウンターに座ってるだろ?」
「そうだけど。相楽君が本を借りたところなんて見たことないよ?」
「借りて帰ると、返しに来ないといけないでしょ?だから面白そうなのをチェックして本屋で買う。部活少年には帰宅時間の節約になるのさ」
「時間は節約できるけど、お金の節約にはならないわね」
「必要経費は惜しむことなかれ。これ、オレのモットーだから」
そう言うと、夜雨はちょっと笑った。
こうやって間近で見てみると、皆実夜雨は綺麗な顔立ちをしていることがよく分かる。黒目がちの大きな、少し切れ長の瞳に長いまつげ。きりっとした赤い唇に、形のよい顎。透けるような白い肌。絹のような艶のある黒髪がその白さをいっそう引き立てている。
ベタな黒縁の眼鏡をかけ、おさげにして地味に見せているのに、隠しきれていなかった。
何で誰も気づかないんだろう。
「わたし美少女です」と自分で吹聴している女の子なんかより、彼女のほうがずっと綺麗だ。
そう、うつくしい。
それをわざわざ隠そうとしているには何かわけがあるのだろう。
晴嵐は、彼女も自分と同じように、異性というものを知っているのではないかと思った。だからこそ、クラスのほかの女子たちみたいに何組の誰がかっこいいとか、何とか先輩が好きとか騒がないのかもしれない。
なぜなら、初恋とか憧れとかそういう段階を、すでに通り越したその先を知っているからだ。
「じゃあね相楽君。早く部活に行った方がいいよ」
そう言って、彼女は見るからに重そうなカバンをその細腕でつかみ、ひらりと身をひるがえした。
この暑さの中であんな重たそうなカバンを持ちながら、それでも彼女はやっぱり汗一つかかずに歩いて帰るのだろうか。でもそれって、涼しげというよりもタクマシイっていわないか?脱いだばかりの制服のズボンを綺麗にたたみながら晴嵐はうなる。
いまいち皆実さんの生態は不明だ。どうも他の女の子たちとは違うニオイがする。
だらだら着替えながら更にだらだら考え事をしていたので、気づいたらとっくに部活の集合時間をすぎてしまっていた。
「やばい」
廊下に誰もいないことを確認し、階段を一気に飛び降りて下駄箱までダッシュした。時間にうるさい先輩になんて言い訳しよう。
「同じクラスの皆実さんの生態を考察していました」なんて言ったら、張り飛ばされるかもしれない。
いや、意外に部長は可愛い女の子好きなので、興味をもってくれるかも。
下駄箱から部活用のシューズを取り出して履きこんでいると、晴嵐の背丈よりも高い下駄箱の向こうで女の子たちの話し声が聞こえてきた。
「え~!町田君、彼女と別れちゃったの!?」
「らしいよ」
「彼女ってさ、確かバレー部の部長の生島さんだよね?」
「うん、そう。生島さんてさ、すごく可愛いけど結構気が強いじゃない?町田君もあんな性格だから、二人ともしょっちゅう喧嘩してたみたいだよ」
あらら。晴嵐は苦笑する。
向こう側で大きな声で内緒話をしている二人は、どうも所属しているサッカー部のマネージャーのお姉様たちらしい。そして、町田君こそ知る人ぞ知る、我がサッカー部の鬼部長なのだ。
確かにバレーボール部部長の生島直枝は二重の大きな目をした可愛い系の女の子である。ちょっと長めの前髪をいつもかわいらしいヘアピンで留め、その下のくりっとした大きな目が印象的な愛くるしい女の子だ。
町田先輩もなかなかよい趣味をしている。しかし、あれはどう見ても体育会系の押しの強い部類だろう。大人しい女の子が好みならまず対象から外すべき相手だ。
オレに聞いてくれたらぴったりの女の子を教えてあげるのに……。などと思っていると、マネージャーの二人がもたもたと靴紐を締めている晴嵐に気が付いて声をかけてきた。
「相楽君、まだこんなところにいたの?早く行かないと怒られちゃうよ!いっつも集合に遅れるんだから」
そう言ったのは布川鈴子というちょっとぽっちゃりした三年の先輩で、町田部長に次いでサッカー部で恐れられている姐さん的存在なのだ。
「すみません。オレ、のろまだから」
「のろまな人があんなシュート打てないでしょ。いいから早く行きなよ」
布川鈴子の隣でクスクス笑いながら言ったのは、同じく3年の塚本陽子である。彼女は結構小柄だがなかなかの美人で、一年から三年まで結構幅広くファンの多い人である。
実は二年生にあがってすぐに彼女に告白されたことがあったのだが、その場で断って以来なんとなく気まずい雰囲気が漂っていたりする。
「じゃあ、おさきに」
晴嵐は開けっ放しの昇降口を飛び出す。
すぐ脇にある背の高い木から夏の終わりを告げるように「ツクツクホーシ」の鳴き声があちらこちらから降ってくる。その大合唱音を聞きながら、そういえば何で塚本陽子の告白を断ったのか思い出そうとした。




