第1話
皆実夜雨は、クラスの中でもあまり目立たない女の子だった。むしろ、自分の存在感を押し殺し、そうあるよう努めてそこにいる――そんな空気さえあった。
艶のある長い黒髪をおさげにし、黒ぶちの眼鏡をかけたその姿は、どこから見ても大人しく真面目な生徒にしか見えない。
実際、彼女が大声を上げてはしゃいでいるのを見たことがない。他の女子のように、男子と悪ふざけをして騒いでいるのも見たことがない。彼女はいつだって皆から一線引いた場所で、騒ぎを見るともなしに無関心そうな顔で本を読んでいる。
だからといって、クラスから仲間はずれにされているわけでもなければ、友達がいないわけでもない。クラスの中心でいつも元気よく騒いでいる真中愛子と話をしている姿をよく見かける。愛子とは別のグループの、割とおっとりした市坂美和ともよく一緒にいる。誰ともつかず離れずの一定距離を保って接しているかのようだ。
彼女はいつもしゃんと背筋を伸ばし、耳のすぐ下で結んだおさげを胸元にたらしている。その横顔は凛としていて綺麗だし、首を少し下げている時に見える白いうなじは石鹸の香りがしてきそうなほど清楚だ。
彼女の頬には、年頃の中学生の女の子によく見られるニキビなんか一つもなく、きゅっと結んだ口元はほんのり赤くて白い顔の中でいっそう引き立ってみえる。もちろん、グロスや口紅をしているわけではない。もともとそういう色素なのだろう。しかしその唇のせいで大人しい優等生の格好をしているにもかかわらず、彼女にはどことなく色香を感じさせるものがあった。もしかしたらその格好もわざとなのかも知れない。
『どう?こんなもので。優等生に見えるでしょ?』
そういう風に彼女は自分を装っているのではないだろうか?
それを仲のいい吉中に言ったら、彼は鼻で笑いながら言ったのだった。
「そんなはずないって。あれはどう見てもただのガリ勉ちゃんだよ。もしかして相楽って皆実に気があるんじゃねえの?」
「そんなんじゃないって」
晴嵐はつまらなそうにそう答えた。どうしてこいつはすぐそういう風に考えるんだ。
吉中はいま隣のクラスの超美少女(学年No.2らしい。No.1が誰で、それをいつどうやって決めたかは知らない)に片思い中らしい。だから、教室の隅で本を読みふけっている地味な皆実に興味などないのだ。
そういう晴嵐も、実はつい最近まで皆実の存在をたいして気にとめていなかった。というより、ほとんど視界に入っていなかった。
それが急に彼女の存在が気になったのは、二学期最初の席替えの直後だった。
このクラスになってから何度か席替えをしたことはあったのだが、なぜか晴嵐はいつも前の方の席で、皆実は後ろの方(と思う。気にしたことはなかったのでよく覚えていないのだ)だったので、授業中に彼女の後姿を見ることもなかった。だが、今回の席替えで何と一番後ろ、それも教室の一番奥という特等席になってしまったのだ。
そして、晴嵐のすぐ前の席になったのが皆実だった。
一日中二メートル以内の距離にいて、常に視界に入ってくる彼女の存在をまったく気にとめないというわけにはいかない。休み時間もしゃんと背筋を伸ばして本を読んでいる皆実のうなじを見ながら、ふと彼女が本当はどういう人間なのか気になってしまった。
吉中が言うみたいに彼女に気があるわけではない。女としてどうというわけでもない。目立たないように、だけど周りの雰囲気に適度になじむように自分の存在感を操っている皆実が、実は腹の中で何を思っているのか、純粋に興味があるだけなのだ。
もっとも他のだれも、彼女のことをそういう風に見る者はいないだろう。
お子様だからな、奴らは。ちょっと憂いた表情で晴嵐はため息をついてみた。
女というのは、自分の印象をどうにでも変えることのできる生き物なのだ。そして場数を踏んでいない男と単純バカな男がそれに見事に騙される。
じゃあお前はどうなんだ、といわれそうだが、あいにく晴嵐の場合は何も知らないウブな中学二年の青少年です、とはいえない程度の経験はとうにすんでいた。
つまり、とっくに女は知っているのだ。相手は近所の大学生のお姉さんだったり、ちょっと夜遊びに出た際に知り合った高校生のお姉さんだったりと時が変われば相手も変わる。
彼女たちは、自分が男にどう見られているのかをよく知っている。どうすれば一番魅力的に映るのか、その計算を腹の内に隠したまま笑ってみせるのだから、大した女優だ。
いつだかその話をよく遊びに行くゲイバーのママに話したら、「いやあね、晴ちゃん。女の子だってみんな必死なのよ。それをそんな風に悪く言っちゃダメじゃない」と、悲しそうな顔をされてしまった。
まあね。
晴嵐は考える。
でもその必死の姿がどうにも媚びを売っているようで好きになれない。その先の目的がみえみえだし、自分がどんなに価値のある女なのかを誇示しているようにも見える。
だけど皆実夜雨の場合、そういった打算とは関係ないところで自分の存在感をわざと薄くしているように感じられるのだ。
そして彼女は今も晴嵐の目の前でしゃんと背筋を伸ばし、洗いたてのような白いうなじを晴嵐に見せて座っている。制服の白いシャツはいつものようにピシッとアイロンがけされていて気持ちがよい。まだセミが鳴いている季節なのに、彼女はいつも涼しげで汗臭さをまったく感じさせない。
彼女のうなじを見ながらぼんやり考え事をしていたので(決して見とれていたわけではない)、二学期に入ってすぐのテストの答案用紙を返却していた教師が、自分の名前を呼んでいることにしばらく気づかなかった。
「相楽?相楽晴嵐。早く取りに来んか!」
「あ、はい。すみません」
晴嵐は椅子をガタつかせながら慌てて立ち上がった。その瞬間、開け放した窓から吹き込む生温い風の奥に、ほんの少しだけ秋の空気を感じた。
もうすぐ夏も終わりか。
晴嵐は目を細めた。
来年の夏休みは受験勉強でそう遊び歩いてもいられまい。季節の節目を何かの拍子に感じる時、今感じているこの季節はこの一瞬だけのものなのだろうなと思ってしまう。
来年また同じ季節がやってきても、それを感じる自分は一年分成長していて、今の自分とはまったく同一ではない。たった一年で人間が大きく変わることもないだろうが、それでも同じではないのだ。
そう考えると、季節を感じさせてくれる大気の流れを愛しくさえ感じてしまう。
「どうした、相楽。夏休みボケか?どうせあちこち遊び歩いていたんだろう」
担任の菊川は答案用紙を渡しながらにやりとした。
「まあ、そんなところです」
大人しくそう答えておく。
彼が言っている遊びとは、おおかた健全な少年らしく海や川や山で日焼けしながら楽しく遊ぶ、もしくはいまどきの子供らしくゲームに熱中するということであろう。晴嵐が実際にはどんな「遊び」をしているのか知ったら、彼はどんな顔をするだろうか。
そんな事を思いながら答案用紙を受け取って席に戻る。途中、皆実と目があったが(実はこれは滅多にないことなのだ)、彼女は興味なさそうに視線を手元の教科書へ戻しただけだった。
自慢ではないが割と勉強はできるほうなので、今回のテストもそこそこ自信はあった。菊川が読み上げている各教科上位五名の点数から考えると、晴嵐は四位か五位あたりだ。
そして、皆実はその少し上あたりにいる。本当はもっとできるんじゃないかと思うのだが、それを本人に聞いてみる勇気もない。




