第18話
少し寄り道がしたくて、いつもは通らない公園の前まで来たとき、鞄の中でスマホがしつこく振動しているのに気づいた。晴嵐からだった。
「今どこ?」
「学校の近くの公園」
「公園?」
「ちょっと寄り道。お天気もいいしね」
「わかった。そこで待ってて。すぐ行くから」
夜雨の返事を聞かずに電話は切れてしまった。履歴を見ると、学校を出たあたりから何回か着信があった。
夜雨はマナーモードを解除し、公園のブランコに座って晴嵐を待つことにした。
よく考えてみたら、外で晴嵐を待つのは初めてだった。晴嵐が夜雨を待つことのほうが多いし、夜雨が晴嵐を待つといってもあの部屋の前だ。
夜雨は黒縁のダテ眼鏡を鞄にしまい、ゆるく結んだおさげをほどいた。
十一月半ばのひんやりした風が、頬に心地よかった。夕暮れ時の空の色は少しもの悲しくて、それでいて複雑な彩りを見せてくれる。澄んだ空気の中で見る雲はどこまでも遠く、どこまでもきれいだった。
「おまたせしましたっ」
鞄をリュックのように両肩に背負った晴嵐が、公園のフェンスを飛び越えて夜雨のすぐ後ろに着地した。自称サッカー部のエースらしく、こんなに短時間でやってきた割に息も切れていない。
「吉中くんたちは?」
夜雨がそう聞くと、ズボンの砂埃を払っていた晴嵐はにこりとした。
「遊びに行くのは明日。今日は皆実さん来るような予感がしたんで、誘いは断ったんだ」
見ていないようで、ちゃんと夜雨の様子を見ていたのだ。夜雨は思わず笑ってしまった。本当に彼にはかなわない。
「オレ、この公園に来るのはじめて。寄り道なんて珍しいね」
「たまにはね。せっかく気持ちがいい空模様なのに、まっすぐ家に帰るのはもったいない気がして」
「同感。どうせなら、うまいお茶を飲みながらの方がもっと気持ちいいと思う」
「相楽くんちのベランダで?」
「うん」
「相楽くんが淹れてくれるなら、賛成」
そう言うと、晴嵐は笑った。
「将来カフェでも開こうかな」
「それもいいんじゃない?」
晴嵐のお茶と料理を独り占めできないのはちょっと悔しいが。カフェでも何でも、晴嵐ならそつなく楽しくやってしまうような気がした。
晴嵐が歩き出したので、夜雨もそのあとに続いた。まっすぐ家に向かわないことはわかっている。晴嵐がどんな寄り道をするのか、それすらも楽しみだ。
「そういえば、家庭教師やめて塾に行くことにしたんだって?」
唐突に晴嵐が言ったので、夜雨は思わずその足をとめてしまった。晴嵐の口から家庭教師の話題が出たのは初めてだった。
「真中さんが話してたよ。同じ塾だって」
「うん……来年は受験だし、教科を増やしたかったから」
夜雨の顔がこわばっていることに晴嵐は気づいただろうか。夜雨は晴嵐を追い越して先に歩き出した。
「そっか、来年は受験か。どこ受けるか決めてるの?」
「聖華南高等学校」
「超お嬢様学校だ。ああ、でも皆実さんにはあってるかもね」
「相楽くんは?」
「オレはまだ決めてない。受けるときに受かりそうなところにしようと思ってる」
晴嵐の声は、のんびりとしていた。
「相楽くんならいいところ狙えるでしょう?」
「いいところに行きたいわけじゃないから。オレがオレでいられる場所に行きたいんだ」
夜雨が振り向くと、晴嵐は大人びた表情をしていた。
「それが高校とは限らないけどね」
「それって、進学しないかもしれないってこと?」
「うん。だけどまあ、行くとは思うよ。ママに保護者代わりになってもらうときに約束したから」
それで夜雨はようやく気がついた。
晴嵐が晴嵐でいられる場所というのは、きっとこれから先の彼の人生そのもののありようなのだ。
だが、同時に疑問が浮かぶ。それはいま、彼が自分自身を偽っているということなのだろうか。
どういうことなのだろう、と夜雨が口を開きかけたとき、晴嵐の後ろに見える人影に気づいて、背筋が凍りついた。
こちらに向かって来るのは、二宮浩一だった。
夜雨の表情に晴嵐も気づいたのか、後ろを振り向いた。そのときには、二宮は二人のすぐそばまで来ていた。
おそらく彼は、遠くで夜雨の姿を見つけ、わざわざやって来たに違いない。
「やあ、夜雨ちゃん。男の子と一緒なんて珍しいね」
人あたりのいい彼の笑顔が、夜雨には仮面のように見えて怖かった。呼吸がうまく出来ない。足が地面に縫いつけられたみたいに動かなかった。
晴嵐にこの男を会わせたくなかった。と同時に、自分一人だったら、二宮に何をされただろうかと考えて恐ろしくなった。
「……こんにちは、先生。学校帰りなんですか?」
「そうなんだ。午後の授業が休講になったから、散歩していたんだ」
「そう、ですか。じゃあ、私、急ぐんで失礼します」
晴嵐の腕をつかんで夜雨は歩き出そうとしたが、さりげなく二人の前に立った二宮に進路を塞がれてしまった。
「せっかく久しぶりに会ったんだから、お茶でもどう?そろそろ中間テストでしょ?中途半端なところで家庭教師を辞めちゃったから、ちょっと気になってたんだ」
「大丈夫です。ちゃんと塾に行ってるし……」
そう言った夜雨の腕を二宮が掴んだ瞬間、晴嵐がそれを引き剥がした。
「皆実さんの元家庭教師の先生?」
「――そうだよ」
晴嵐の手を振り払って、二宮は答えた。表情はまだ笑顔を取り繕っているが、声が少し荒くなっている。
夜雨は震えた。
大学でスポーツもやっているという二宮と、中学生の晴嵐とでは明らかに体格が違いすぎる。もし二宮がその気になれば、晴嵐がどんな目にあうかわからない。
彼をこんなことに巻き込みたくはなかった。
だが、晴嵐は脅えることも虚勢を張ることもなく、いつもと同じ様子で夜雨と二宮との間に立っている。
二宮は晴嵐の後ろにいる夜雨を見て、それから晴嵐に視線を戻した。
「夜雨ちゃんと話したいことがあるんだけど」
夜雨は二宮の舐めるような視線を避けるように目を伏せた。話だけじゃないのはわかりきっている。もうこの男の言いなりになるのは嫌だった。だけど――
「皆実さんの方は、用はないみたいだよ。元教え子を追い掛け回すのはどうかと思うけど」
晴嵐がそう言うと、二宮の笑顔がわずかに引きつった。
――次の瞬間、晴嵐の体が吹っ飛んで後ろの壁に叩きつけられた。
「相楽くん!」
駆け寄ろうとした夜雨の腕を、二宮が掴んで締め上げた。腕を持ち上げられて爪先立ちになった夜雨は、二宮を振りほどくことができない。
「ガキはひっこんでろよ。次は意識もぶっ飛ばしてやる」
顔面を殴られた晴嵐の口の端から、血が出ていた。
晴嵐はそれをぬぐって唾と一緒に吐き出すと、立ち上がって二宮を見据えたまま、二人のほうへ歩いてきた。
「大の男から見たら、中学生なんて小さなガキなんだろうね……」
普段と変わらない声音、変わらない表情。
「だけどさ、あんたに暴力を振るわれたって、オレが騒いだらどうなると思う? それとも、オレがあんたを刺したら? その時は、未成年な上に正当防衛だってことで、たいした罰にはならないよ?」
「何言ってるんだ、お前……」
「教師を目指している人が、中学生相手に暴力沙汰を起こしたらどうなるかって話。オレの言ってる意味、わかる?」
二宮が息を呑んだ。
「そんなことしたら、お前もこいつもただじゃすまさない」
「オレたちより、あんたのほうが社会的ダメージが大きいよ?傷害事件では、大人と子供、どちらが弱者だと思う?」
二宮の手から力が抜けた。
その手から逃れた夜雨を、晴嵐は自分の後ろに引っ張った。
「あんたの言い分を信じる人もいるかもしれないけど、教員試験ではマイナスだよね。――オレの言ってること理解したんなら、今後いっさい、皆実さんには関わるな。あんたより、オレのほうが打つ手はいくらでもある――」
二宮が晴嵐の胸ぐらをつかんだ。




