第19話
「やめて!」
思わず叫んだ夜雨を制し、晴嵐は二宮を見上げていた。静かな表情なのに、そこには確固たる意志があった。
この少年はどれだけ強い心を持っているんだろう。
夜雨はにじむ視界で晴嵐の横顔を見つめた。二宮がやけになれば、二人ともどんな目に遭うかわからない。
自分のことなど放って立ち去ってしまえばいいのに、あえて相手を挑発するようなことを言ってのけるなんて信じられなかった。
「くそっ!」
二宮は投げ捨てるように手を離した。ほとんど足がついていなかった晴嵐は軽く息を吐き、再び二宮を見上げた。
しばらく晴嵐を睨みつけていた二宮が、何かを思い出したように歪んだ笑みを浮かべた。
「お前、こいつがオレと何をしていたか知らないんだろ。こいつは、お前みたいなガキが思っているような、おキレイな女じゃないんだからな」
息が止まった。
言い捨てた二宮はその場から去って行ってしまったが、夜雨は鞄をギュッと抱きしめたまま、身じろぎひとつできないでいた。
晴嵐は二宮と夜雨の関係を理解しただろう。
知られたくはなかった。いつかは話さなければならないと思っていた。
でも、こんな形で知られるのだけは嫌だった。
背中を見せたまま、晴嵐は何も言わない。その沈黙が夜雨には耐えられなかった。
「相楽君、あのね、私……」
すべてを打ち明けようと口を開いた夜雨だったが、振り向いた晴嵐の瞳を見た瞬間、思わず唇を硬く結んでしまった。
ためらったのは、見栄や恥のせいではない。すべてを話してしまったら、この真っ直ぐで聡明な少年はきっと自分のことを軽蔑するだろう。二度とその手で自分に触れてくることはないかもしれない。
それが夜雨には怖かった。
「……あの――」
「言わなくていいよ」
初めて聞く硬い声だった。
夜雨が目を上げると、晴嵐は二宮浩一が去っていた方向を見据えたままだった。
「アイツと何があったのか、言わなくても大体想像がつくから。だから――」
晴嵐が夜雨を見た。
「もっと時間がたって、皆実さんの傷がほんの少しでも癒えて、俺に話しても大丈夫だと思ったら話してよ。それまでは無理に言わなくてもいいから」
「だけど、」
「つらい思いをしたのは皆実さんなんだから。何があったかより、皆実さんが籠の外に出られたかどうかのほうが大事だ」
涙がこぼれた。
もう、自分の感情は凍りついたままだと思っていたのに。
囚われていた籠から夜雨を連れ出そうと、晴嵐がどれだけ手を尽くしてくれていたのか。
今更のようにそれに気づき、涙が止められなかった。
「――ありがとう」
やっとそれだけ声を絞り出すと、晴嵐はちょっと困ったような表情で小さく笑った。とたんに「痛ッ」と顔をしかめて唇の端を押さえた。
夜雨が心配そうにすると、今度は反対側の唇だけでにやりと笑った。
「昨日、ミチルからすごくおいしいトロピカルティーをもらったんだけど、皆実さんもどう?」
「トロピカルティー……」
「南国の香りがするんだ」
そう言って、晴嵐が手を差し出した。
一瞬迷って、それから夜雨はその手を握った。握り返してくる晴嵐の手は、少しだけ夜雨よりも大きくて温かかった。
帰り道、晴嵐は一言も話さなかった。
まだ半分泣いたままの夜雨の手を引いて、自分の部屋まで導いてくれた。
夜雨が自由の空間だと言い、晴嵐が身を守るための籠だと言ったあの部屋は、いつも通り夜雨を受け入れてくれるはずだ。
玄関のドアを開ける手を止め、不意に晴嵐が言った。
「オレだって重石をつけられ、暗い籠の中に入れられてた。そこから出られたのはオレ自身の力じゃない。外の大人に向かって助けを求めたからだ。籠に入れられたのも、そこから出られたのも、すべて大人の手によるものだ」
晴嵐はゆっくりとドアを開け、夜雨の背中をやさしく押して中へ入れてくれた。
だからこそ、ここはこんなにも心地よい籠なのだ。
誰かから奪い取ったものでも、無理やり押し付けられたものでもない。雛のための寝床。晴嵐を温かく見守ろうとしている大人たちが彼に与えた、彼のための優しい空間。
自分も晴嵐も、まだそこから一人で飛び立つことはできないけど、その日が来ることを信じている。
晴嵐がこの部屋のことを、身を守るための籠だといった意味がようやくわかった気がした。
「どうしてあの人が教師志望だと思ったの?」
晴嵐の傷の手当をしながら夜雨が聞くと、晴嵐はいたずらっぽい目つきになった。
「真中さんに教育学部の大学生だって聞いてたんだ。あの大学の教育学部っていったら、まず教師志望だからね」
「何でも真中さんから聞いているのね」
「うん。オレ、人から何か聞きだすのうまいんだ。たぶん、皆実さんが話してくれてるよりも、真中さんから聞いている皆実さんの情報のほうが多いかもしれない」
「なんだかそれって、」
「妬ける?」
「違う。あまり気分よくない」
夜雨がそう言うと、晴嵐はおかしそうに笑った。
「じゃあさ、これからもっと皆実さんのことオレに話してよ。誕生日とか、好きな食べ物とか、好きな芸能人とか、よく聞く音楽とか。オレ知らないことまだいっぱいあるから」
「そんなことでいいの?」
「うん。皆実さんの生態観察は何だかおもしろそうだ」
「何よ、生態観察って」
「皆実さんが何を感じ、何を思い、何が楽しいかっていうこと」
「だったら相楽くんのも教えてよ」
夜雨がそう言うと、晴嵐はおどけたように首をすくめた。
「オレのはまだ秘密」
「どうして?」
「男は謎が多いほうがいいのである」
夜雨は思い切り顔をしかめた。
驚くほどの聡明さを見せるかと思えば、びっくりするほどの戯言を吐いてもみせる。いったいこの少年は、どれだけの一面を隠し持っているのだろう。
得意げになっている晴嵐に向かって、夜雨はこの上なくにっこり笑ってみせた。
「じゃあ、私も秘密。女だって秘密が多いほうがいいんだから」
「よし、じゃあ、お互いに生態観察しあおう」
「……馬鹿じゃないの?」
夜雨の言葉に晴嵐はたまらなそうに笑い声をあげた。
「なんだか皆実さん、ミチルの毒舌がうつったみたいだよ」
「あそこまでひどくない」
「ほら、そういうところが。今度ミチルに話しておくよ」
もう、とふくれる夜雨の頭をくしゃりと撫で、約束のトロピカルティーを用意するために晴嵐は台所に行ってしまった。
今日のことで気持ちのすべてが晴れたわけではない。二宮によって負わされた傷はもしかしたら一生消えないかもしれない。
でも、少なくとも晴嵐と一緒にいるときは、その傷を隠していなくても抉られる心配はない。
それがどれだけ夜雨の心を軽くしているのか、いつか教えてあげたいと思った。
きっと晴嵐は、淹れたてのおいしいお茶をすすりながら瞳を瞬かせ、じっと夜雨の話に耳を傾けてくれるに違いない。
願わくは、どうかその後には、晴嵐が自分の抱える錘について話してくれますように。




