第17話
あの日から、約一ヶ月。
「じゃあ、皆実さんは今日からオレの彼女だ」
そう言った晴嵐は、相変わらず夜雨に踏み込んだことを聞いてこない。夜雨が晴嵐の部屋に来る口実を作り、おいしいお茶とお菓子を用意して待っていてくれる。
でも、この部屋に何度も来ているのに、あれ以来、晴嵐が夜雨に手を出してくることは一度もなかった。
学校ではちょっと単純で明るい元気少年の晴嵐が、本当は色々なことを経験し、色々考えていて、自分よりも視野が広いということは夜雨にもわかっている。
その晴嵐が、何も聞かず、何も言ってこないのが逆に不安だった。
「最後に自分を救うことができるのは、結局自分だけなんだ」
晴嵐の言葉は今も夜雨の胸に痕を残している。
だから、自分には手助けしかできないと。
おそらく、それは事実なのだろう。
だけど、そのための一歩を踏み出すにはどうしたらいいのだろう。まず何をやればいいのだろう。
晴嵐なら、それをさらりと話してくれると思っていた。
それなのに、晴嵐は何も聞かない、何も言わない。
晴嵐は小首を傾げ、夜雨をじっと見つめていた。その澄んだ瞳は、夜雨の考えを見透かしているようで、思わず目を伏せてしまった。
「私は、相楽くんの彼女、なんだよね」
「うん」
簡潔な返事が返ってくる。夜雨はチラッと晴嵐を見上げた。
「じゃあなんで、何もしようとしないの?」
夜雨の言葉に、晴嵐は少し驚いた顔になった。だがすぐに、やんわりと表情を緩めた。
「皆実さんは、オレと寝たいんだ?」
「そういうつもりで言っているんじゃ……」
「したいから聞いてるわけではないの?」
夜雨が頷くと、晴嵐は「そう」と小さく呟いた。
「オレは、その気もない人と寝るつもりはないよ?」
「私は、相楽くんとならいいと思ってる。だからあの時――」
「うん、わかってる」
晴嵐はちらりと笑った。
「前に、皆実さんの行動には感情が伴ってないって言ったの覚えてる?」
夜雨は頷いた。
感情が伴っていない、だから自分自身を粗末に扱っている。あの時晴嵐はそう言った。
「それってさ、逆も然りなんだよね」
「逆?」
「感情に行動がついてきてないってことだよ。こうしたほうがいいって頭で思っていても、体がそれに従おうとしない。そういうこと」
「私の気持ちに、私の体がついてきていないってこと?」
「うん」
どういうこと――そう聞き返そうとしたとき、晴嵐が言った。
「だからオレは皆実さんと寝るつもりはない。いくら皆実さんがいいよっていっても、皆実さんの体がいいよって言ってないからね。セックスって、心と体がそろって初めて成り立つものだっていうのが、オレの持論なんだ。とくに大事な相手に対してはね」
「私の体が相楽くんを拒絶しているの?」
「オレにはそう感じ取れる。オレのことが、というより行為に対してね」
やっぱり見透かされていたのだ。
夜雨はそう思った。
セックスという行為に対して自分がどれだけ嫌悪しているのか、晴嵐は気づいていたのだ。
夜雨は指先が冷たくなっていくのを感じた。そこまで気づいているのに、なぜ何も聞いてこないのだろう。
「私のこと、大事だって思ってくれてるの?」
夜雨の言葉に、晴嵐はにっこり笑った。
「当然。なんたって、超美少女なオレの彼女だもん」
おどけたその顔を見ながら、超美少女だからなのか、自分の彼女だからなのか、どっちなんだろうと思ったが、それは聞かないことにした。
晴嵐のことだから、どっちも、と答えるに違いない。
夜雨は目の前にいる少年に向かってぎこちない笑顔を向けた。
「……それじゃあ、おかわりもらってもいい?」
差し出しされた茶碗に晴嵐は一瞬きょとんとし、それから声を上げて笑った。
「いいよ。濃いめと薄め、どっちにする?」
「濃いめ」
「承知しました、オレの彼女様」
夜雨と自分の茶碗をトレーにのせ、晴嵐は台所に向かっていった。
その背中に、焦らなくてもいいのだと、そう言われている気がした。
夜雨は、胸の奥の張りつめたものが、ほんの少しだけ緩むのを感じていた。
その夜、夜雨は家庭教師をやめて塾に行きたいと、再び両親に訴えた。
夜雨の勉強に関しては母が仕切っていたので、父に塾のことを切り出したことはなかった。だが、母だけでは埒が明かないので、父にも懇願することにした。おそらく、父がいいと言えば、母もしぶしぶ認めざるをえないはずだ。
「家庭教師の先生はよくしてくれてるのだろう?成績だっていいみたいだし、何が気に入らないんだ?」
母以上に事情を知らない父は、母と同じことを聞いてきた。
「二宮先生が気に入らないということじゃないの。家庭教師じゃなくて、塾に行きたいの。」
「直接家に来てもらえる家庭教師のほうが、時間の節約にもなるだろう?」
これもまた母と同じことを言われた。
「仲のいい友達が通っているの。一緒に行けるし教えあいもできる。そっちのほうが勉強も楽しそうだから」
「二宮先生だって楽しく教えてくださっているでしょう?」
二宮のことを気に入って信頼している母が、横から口を出してきた。夜雨に家庭教師選んだ母としては、いい気がしないのかもしれない。
「でも、私は塾のほうがいいの。家庭教師は二科目だけど、塾なら全教科受けられるでしょ。受験まであと一年しかないし」
母は夜雨を私立のお嬢様学校へ行かせたがっている。進学校の名前を出されて、さすがに母も黙ってしまった。受験対策としては週二回だけでは足りないと母も思っていたらしい。夜雨と母の様子を見ていた父がようやく口を開いた。
「夜雨自身のことだ。本人が決めるのが一番じゃないのか?」
その言葉に、やっと母が頷いた。
ホッと胸をなでおろした夜雨は、反面なぜもっと早く父に言えばよかったと思っていた。あまり食い下がると二宮のことが両親に知られてしまうかもしれない。ずっとそれが怖かった。
父や母が夜雨の意見を飲んだのだって、三年生を目前に控えたこの時期だったからだ。
とにかく、あの二宮との拷問のような関係から解放される。それがどれだけ嬉しいことなのか、きっと誰にもわかりはしないだろう。
二宮がおとなしく引き下がるかどうか少し不安だったが、向こうだって夜雨に固執する必要はないはずだ。
あとは二宮が母に余計なことを言わないことを祈るばかりだった。
中間試験の範囲が張り出されたその日、部活が休みだからと、晴嵐と吉中が寄り道の相談をしていた。よく一緒につるんでいる二人は、サッカー部の三バカといわれているらしい。
あとの一人は、隣のクラスにいる部長だと、真中愛子が教えてくれた。察するに、愛子はその部長のことが好きらしい。
そういう淡い初恋や恋愛は、夜雨にはもう遠い昔のことのようだった。そんな感情があったことさえ、忘れていた。いや、忘れていたというより、土足で踏みにじられたその思いを自分の中から抹消してしまいたかった。
晴嵐と吉中の様子を見ていた夜雨は、今日は晴嵐の家に行くのを諦めようと思った。あの二人とつるんでいる連中は、試験勉強など前日にするのが決まりだと思っているらしい。テスト期間中の部活のない日は、これ幸いと遅くまで遊びまわっていると誰かが言っていた。
とはいえ、しょせん中学生のやることだから、ゲームセンターとかバッティングセンターとかカラオケ辺りだろう。
夜雨は図書室によって本を借りてから帰ることにした。
両親と話し合った翌日、母は二宮に家庭教師の断りの電話をいれた。二宮は「それでは仕方ないですね」と言って、あっさり引き下がったらしい。
何だか拍子抜けしたような気もしたが、家に戻っても二宮が待っていることはないのだ。それだけで心が軽かった。




