第16話
どのくらいぼんやりしていたのだろう。
真っ暗な部屋の中で、雨が降り出してきたのに気づいた。二宮浩一はとうの前に帰っていった。
夜雨はベッドの上に横たわったまま、ずっと宙を見つめていた。
夜の雨――自分のこの名前が嫌いだった。暗い夜にしとしと降る陰鬱な雨を連想して、気持ちまで暗く沈んでいく。
けれど今の自分には、お似合いの名前だとも思っていた。
二宮と初めてセックスをしたのは、去年の夏の終わり。はじめは憧れのお兄さんとの興味本位の行為のつもりだった。だが二宮にとっては、欲求を発散させるためだけの行為だとすぐに気づいた。
夜雨の気持ちはまるきり置き去りで、二宮は欲望のままに夜雨の体を弄んだ。そこに思いやりや愛情のかけらは一切感じられなかった。
三時間ある勉強時間のうち、いつも一時間は二宮の一方的な行為を受けるだけの苦痛の時間だった。
母親に訴えようと何度も考えた。
だが彼を信頼している母に信じてもらえる自信がなかった。何より、そんな行為をしていると知られることが怖くて仕方なかった。
結局、そのまま二宮との関係は一年も続いていた。
今ではセックスはただの儀式のようで、夜雨は唇をかみ締めながら、それが終わるのを耐えるだけだった。
いつまで続くのだろう。
流れるような雨音を遠くに聞きながら、ひどく情けない気持ちになっていた。
あの拷問のような行為を、あとどれほど受け入れなければならないのだろう。
二宮に対する怒りや、塾に行きたいと訴えても聞く耳を持たない母親に対するもどかしさより、どうにもできずにいる自分にやりきれなさが積もる。
――彼ならこんなときどうするだろう。
そう思ってしまった。
あの少年なら、きっとうまく立ち振る舞って切り抜けるに違いない。
何事もそつなくこなしてしまう彼の姿を思い出していた。
だけど――。
彼の笑顔は果たして最初からなのだろうか。それとも何か大きなものを抱えているからこそなのだろうか。
どちらにしても、今の夜雨にはわからない。そして、今の自分には、彼のように立ち振る舞うことなど到底できなかった。
二学期の席替えで、その少年がすぐ後ろの席になったとき、夜雨は正直戸惑ってしまった。
いつも離れた所からその後ろ姿を見ていたのに、今度は自分が見られることになってしまったから。
だがきっと、クラスの輪には入らずに本ばかり読んでいる自分の存在など、彼は気にも留めていないだろう。
彼と関わりを持つことなどおそらくないだろう。
本気でそう思っていた。
――あの日までは。
「皆実さん」
ホームルームが終わり、委員会に行くため席を立ったとき、後ろの席から朗らかな声が聞こえた。振り返ると、机の上に顎を乗せた晴嵐が夜雨を見上げていた。
「今から図書委員会?」
「そうよ」
夜雨が答えると、晴嵐はその体勢のまま笑顔を見せた。
「図書委員お勧めの新刊一覧、またくれる?」
「いいわよ。ちょうど今日の委員会で今月分をもらうから」
「だと思った」
晴嵐はいたずらっぽく笑うと、鞄を持って立ち上がった。
「じゃあさ、帰りにうちにおいでよ。お礼にこの前ママからもらった超最高級の緑茶と、すごくおいしい茶菓子があるから」
「緑茶……」
「けっこう好きでしょ?」
晴嵐の言葉に夜雨は頷いた。
もっとも、緑茶というより、晴嵐が淹れたものを飲むのが好きなのだ。彼の手にかかると、安いお茶でもヘタなカフェで飲むよりずっとおいしい。
「部活は?」
「皆実さんが来るなら、今日は自宅トレーニング」
「ずいぶんといい加減」
夜雨がそう言うと、晴嵐は少し首をすくめてみせた。
「自分にとって大事なものを優先する。それって当たり前のことだよ。今日は部活より皆実さんと新刊一覧のほうが大事。じゃあ待ってる」
言うだけ言って、晴嵐は帰っていってしまった。
本当にいい加減……。
そうつぶやきながらも、晴嵐が夜雨のために口実を作ってくれているとわかっていた。
あの日、夜雨が籠の中から出るための手伝いをすると晴嵐は約束してくれた。
「私を籠の中から出すことができる?」そう問いかけたときの晴嵐の顔を今でもはっきりと覚えている。
真っ直ぐ夜雨を見据える瞳は子供のようにあどけないのに、その表情には、それまで見たことのない大人びたものがあった。
とりとめもない問いを投げかけたのに、晴嵐は戸惑いも考え込むこともしなかった。
できるも、できないもなかった。
夜雨がそれを望むのであれば――。それが彼の答えだった。
自分にはその手伝いしかできないと言った晴嵐に、夜雨はようやく決心することができた。
それ以来、晴嵐は何かにつけて、夜雨があの家へ行けるよう口実を作ってくれるようになった。
毎回行けるわけではないが、晴嵐は大して気にする様子もなく、「じゃあまた今度」と笑顔を見せてくれる。
二宮が来る日は、家に帰らず真っ直ぐにあの居心地いい部屋に行きたかった。
だけど、どうしてもできなかった。
足がどんなに重くても、どんなに逃げ出したくても、夜雨は二宮の待つ自分の家に帰った。
翌日、晴嵐の顔を真っ直ぐに見ることができない。それどころか、晴嵐の前の席でその視界にいることすら、いたたまれなくて仕方がなかった。
その一方で、晴嵐のいるあの部屋へ、今にも逃げ込んでしまいそうな自分に気づいていた。
委員会が終わって晴嵐の部屋に着くころには、もうほとんど日が暮れていた。
秋の夕暮れは空気が澄んでいて、夕焼けの色が深い。オレンジと藍色のはざ間に滲む薄紫に、今日の終わりを感じる。
十二階にある晴嵐の部屋から見下ろす街並みは、一軒家に住む夜雨には不思議な光景だった。
夜雨がインターフォンを鳴らす前に、玄関のドアが開いて晴嵐が顔を出した。
「いらっしゃい。結構早かったね」
「委員会が早く終わったから」
「いまからお茶を淹れるから、少し待ってて」
生成りのソファに腰を下ろすと、柔らかな感触が心地よくて安心する。
晴嵐の部屋は、まだ十四歳の少年が一人で住んでいるにしてはきれいに片付いていて清潔感がある。祖母に家事全般をたたき込まれた彼らしいこざっぱりとした空間だ。
家具類は、親戚に引き取られるときに処分したので、中古品をミチルに見立ててもらったと言っていた。
そのミチルが大絶賛して買ったというソファは、ふわふわしていて何だか雲の上にでもいる気分になる。
同じような肌触りのクッションを腕に抱えて、夜雨はうとうとしていた。
「お茶の用意できたけど、そのままそこで寝てる?」
晴嵐のからかうような声に目を開けると、ローテーブルの上に抹茶と桃色をした和菓子が準備されていた。
「抹茶も点てられるの?」
「略式だけどね。これもばあちゃん仕込み」
そう言って晴嵐は笑顔を見せた。
晴嵐はよく笑う。
そこに媚びやへつらいは感じられない。それが彼の心からの表情だと夜雨は知っている。
まだすべてを聞いたわけではないが、晴嵐も深い闇を抱えているのだと最近気づいた。
だからこそ、彼の屈託のない笑顔が不思議で仕方ない。
「どうしたの?」
抹茶を飲む手を止めた晴嵐が、不思議そうな表情をしていた。
「なんでもない」
夜雨はそう答えると、鞄の中から頼まれた新刊一覧を取り出して晴嵐に渡した。
「相楽君が好きそうなのに丸つけてるから」
「おお、ありがとう」
大げさに喜んでいる晴嵐を見て、夜雨は密かに笑った。まるで仔犬が尻尾をちぎれんばかりに振っているみたいだ。
「そういえば、ミチルさんはもう仕事にでているの?」
「うん。先週から出てるって。来週にはペチャンコになった胸の手術をするらしいよ」
ミチルが刺されてから一ヶ月近くたっている。かなりの重傷だったはずなのに、彼女はたったの二週間で退院してしまった。その翌週には仕事に出ているのだから、タフなことこの上ない。
夜雨は晴嵐と一緒に初めてミチルを見舞った日のことを思い出していた。
病院のベッドの上に青白い顔で横たわっていたミチルは、男の人だと聞いていなければ全然わからないほど、華奢できれいな人だった。
血の気のない儚げな顔で繰り出される毒舌ぶりも、彼女の性格を知るうちに潔いものに感じられていった。
いつの間にか晴嵐をそっちのけで二人で話し込んでいたこともあった。
その横で、晴嵐はなぜだか始終ご機嫌だった。




