【過去編】幸福な便り/イシュSide
東大陸、陽光と香辛料の香りが満ちるナシール連邦。
ヴァーレン商会の本拠地にある執務室で、イシュは山積みの帳簿から顔を上げた。
窓の外には、彼が支配する活気あふれる港が広がっている。王国を離れて半年。イシュ・ヴァーレンは再び、広大な交易路を操る若き商人としての日常に戻っていた。
「イシュ様、西大陸からの定期便です。……例の方から」
側近が差し出したのは、上質な紙に、繊細な筆致で綴られた一通の手紙。
イシュはそれを手に取ると、迷いなく口角を上げた。
部下たちからの報告で、ソフィアのブランド「サーラ・レーヴ」が王室御用達を凌ぐ勢いで成功していることは既に知っている。だが、彼女の直筆となれば、それは商売の報告以上の価値を持つ。
封を切り、流麗な文字を追う。
そこにはブランドの近況と共に、あの堅物騎士――レイモンドと歩む、騒がしくも満ち足りた日々の気配が溢れていた。
(……ふふ。相変わらずだね、君は)
イシュは背もたれに身を預け、四年前の出来事を思い出していた。
*
「ねぇイシュ。契約結婚ってどう思う?」
「え? 契約……何?」
「契約結婚よ。三年間の期間限定の。しかも、白い結婚でいいんですって」
「はっ? いや、ちょっと待ってフィア。一体何の話? 順を追って説明してくれないか」
ソフィアからその話を聞かされたとき、端的に言って、イシュは動揺した。
表面上は平静を取り繕っていたものの、心の中は嵐が吹き荒れるかのごとく乱れていた。
彼女が他の女性とは一味も二味も違うということはわかっていたが、まさか、契約結婚などという突飛なことを言い出すとは、流石のイシュも予想外――どころか、ソフィアがおかしな詐欺にでも引っかかったのかと、イシュは心底心配した。
だが、よくよく聞けば、相手はれっきとした貴族で、しかも、ウィンダム家の嫡男だというではないか。
大商人としてこの国の社交界に精通しているイシュは、ウィンダム家の嫡男のレイモンドが「大の女嫌い」であることを当然のように知っていたが、しかし、やはり、すぐには信じられなかった。
「……確かにあの方は女嫌いで有名だ。君が結婚を望んでいないことも知っている。……でも、だからって、契約結婚は流石に突飛すぎると思うよ。もう少しよく考えた方が……」
いくら相手が女嫌いといっても、一つ屋根の下で過ごしていたら、どんな間違いが起こるかわからない。しかも、期間は三年。――賛成などできるはずがない。
けれど、目の前に座るソフィアは、そんなイシュの忠告をどこ吹く風と受け流し、紅茶を一口啜ってから、至極真っ当なことのように答える。
「でも、もう承諾のお返事をしてしまったの。それに、またとない好条件なのよ。三年間、彼の妻を演じるだけで、私には夢を叶えるための資金と自由が手に入るんだから。そのお金で帝国に移住して……できたら、自分のお店を持てたらって。素敵だと思わない?」
「……はあ、全く。君って人は」
イシュはこめかみを押さえた。
彼にとって、十六歳の時から見守ってきたソフィアは、友人以上の存在だった。彼女が望むなら、すぐにでも他国に連れ去ってしまえる手筈は整えていた。
それなのに、少し仕事を忙しくしている間に、ソフィアは自ら道を切り開いてきた。彼女にとって、もっとも過酷であるはずの「婚姻」という名の茨の道を。
どう返すべきかと悩むイシュに、ソフィアはさも当然のように微笑む。
「あなたなら応援してくれるでしょう? イシュ」
「…………」
どうやら、ソフィアは意見を変える気はないらしい。
そう悟ったイシュは、ソフィアを止めることは諦め、商人の脳へと、考えを切り変えた。
(……仕方ない。こうなったら、フィアにとって最大限有利になるような条件で進めるしかない)
イシュは椅子に深く腰掛け直し、指先を組む。
(一先ず期間は三年。金額は言い値でいい……か。確かに好条件ではある。それに、女嫌いのウィンダム卿がフィアを女として愛でることはない。つまり、考え方を変えれば、フィアはウィンダムという名の『厳重な金庫』に、手つかずのまま保管されるということだ)
――なるほど。悪くない。
三年間、レイモンドにソフィアを守ってもらう。その間に、自分が帝国の基盤を固めればいい。
彼女の報酬をすべて預かり、商会の資金として回し、彼女が一人で生きていけるだけの、いや、一生遊んで暮らせるほどの莫大な富に膨らませておく。
そうすれば、三年後――契約が満了した瞬間、彼女は自動的に「僕が用意した城」へと飛び込んでくるというわけだ。
イシュは、唇に弧を描いた。
「……わかった。君がそこまで言うなら、協力しよう。その代わり、条件がある」
イシュは、ソフィアが持参した契約書を奪い取り、条項を書き換えていく。
「報酬の支払いは一括ではなく、月払いにさせるんだ。その管理は、ヴァーレン商会が引き受ける。君には一ギールも損はさせない。……あとは、そうだな。今のうちにブランドを立ち上げておくのがいいだろう。そうすれば三年後、スムーズに商売を始められる。帝国には、僕が最高の工房を用意しておくよ」
ソフィアは「ありがとう、イシュ。頼もしいわ」と無邪気に笑った。
その笑顔の裏で、イシュは冷徹な勝者の微笑を浮かべていた。
(ウィンダム卿……君には三年間、僕の大切なミューズを守る盾となってもらうよ)
これは、友情を担保にした、不純で完璧な投資――になるはずだった。
しかし。
その盤面は見事にひっくり返された。
計画達成まであと一歩のところで、ソフィアは自分ではなく、あの男を選んだのだ。
*
「……本当に、予想外だったなぁ」
イシュは、ソフィアからの手紙を読み終えると、小さく息を吐く。
けれど、その表情には、寂しさや後悔は微塵もない。そこにあるのは、清々しいほどの、晴れやかな微笑みだけ。
世界を股にかけ、すべてを予測し、利益を積み上げてきた大商人の目から見ても、あの日、ハリントン邸でレイモンドが見せたソフィアへの献身は、イシュの「完璧な計画」を上回る熱量を持っていた。
あの瞬間、イシュは、心からレイモンドを認め、ソフィアを手放すと決めたのだから。
「でも、だからこそ人生は面白い。……僕の計算を狂わせた君たちを、僕は心から敬愛するよ」
イシュは手紙を閉じ、大切に鍵付きの引き出しにしまった。
かつては、自分の手でソフィアの望みを叶えることこそが、自分の命題であり、幸福だと信じていた。だが、今のイシュには、遠い海を越えて届く彼女の幸福な便りこそが、何よりの報酬に感じられる。
「フィア、これからも頑張るんだよ。君が創るドレスで、あの古臭い王国を塗り替えていくのを、特等席で見物させてもらうからね」
イシュは、かつての不純な執着を、吹き抜ける貿易風の中に放り投げた。
「イシュ様、次の商談のお時間です」
「ああ、今行くよ。……今日は、とびきりいい絹を仕入れないとね。僕のミューズが欲しがるような、世界一の素材を」
Fin.




