【過去編】テラスの誤算/レイモンドSide
鏡の中に、死人のような目をした男が立っていた。
ウィンダム侯爵家の嫡男、二十四歳のレイモンド。
海軍大尉という地位に相応しい軍服に身を包み、非のうちどころのない正装を整えているが、その内側にある心臓はとうの昔に氷の彫刻へと成り果てている。
夜会に向かう前の儀式。彼は自らの顔に、鉄の仮面を被せた。
二十歳の夜、自分を愛していると囁き合っていた夫人たちが、獣のように互いを罵り、彼という獲物を奪い合ったあの瞬間。レイモンドの視界から色が消えた。
それ以来、彼にとって女という生き物は、ウィンダム家という名門の餌に群がる卑しい存在にしか映らなくなった。
同時に、彼の身体は男としての機能を喪失した。
誰とも肌を重ねることができず、情愛の欠片も持ち合わせていない、血の通わぬ戦士。それが、社交界で堅物と揶揄される男の正体である。
(……誰を選ぼうが、同じこと。……しかし)
家督を継ぐためには「妻」という記号が必要だ。だが、誰を選べばいい。
俺の不能を知れば、女たちはそれを弱みとして握り、俺を支配しようとするだろう。
レイモンドが求めていたのは、愛などという不確かなものではない。自分に無関心で、己の秘密を侵さない、都合のいい「盾」だ。
そんな傲慢な思考を抱えたまま、彼は夜会の会場へと足を踏み入れた。
だが、会場に満ちる甘ったるい香水と打算に、レイモンドはすぐに吐き気を覚えた。
(全く……忌々しい場所だ)
令嬢たちが扇子の陰から熱っぽい視線を送ってくるが、レイモンドはそれを、上っ面の愛想笑いで切り捨てる。
だが、それも長くは続かず、酸欠に似た不快感を覚えた彼は、舞踏会の開始も早々に、逃げるようにテラスへと向かった。
冷たい夜気が、火照った脳をわずかに鎮めてくれる。柱に背を預け、自虐的な溜め息をついたその時だ。
「あなたも、結婚には興味がない口ですの?」
不意にかけられた声に、レイモンドは眉をひそめた。
また、物好きな令嬢か。切り捨てようと冷徹な視線で見下ろした先には、グラスを片手に持った一人の女性が立っている。
見覚えのない女だったが、酔いのせいでわずかに潤んだ彼女の瞳には、自分を「ウィンダム」として崇めるような熱はなく、ただ「同類」を見つけたような親近感だけが宿っていた。
「……まあ、そうだ。その口ぶりだと、君もか?」
なぜそんな問いを返したのか、自分でもわからない。自分を異性と見ずに声をかけてきたであろう目の前の女に、無意識のうちに何かを期待していたのか。
すると、彼女の口から零れたのは、予想以上に潔い本音だった。
「ええ。毎晩のように男性と引き会わされて、正直辟易しておりますの。結婚なんて少しも興味ありませんのに」
――その瞬間、レイモンドの脳内で冷徹な演算が走った。
(……見つけた)
この女だ。この女なら、自分に愛を求めることはない。自分の秘密を暴こうとすることもない。互いに嫌悪し、互いを利用し合う。これ以上ない、最適な取引相手。
この窮屈な状況を打破するための、都合のいい「盾」を見つけたと、レイモンドは確信した。
「君、名前は?」
「ソフィア・ハリントンと申します」
「……ハリントン。名門だな」
ハリントン家ならば、家格も丁度いい。身分違いだ何だと騒ぐ輩もいないだろう。
このチャンスを逃す手はない。
「君は、契約結婚に興味はないか?」
レイモンドはできうる限り真摯的な態度で、彼女に地獄への招待状を差し出した。
白い結婚、後継ぎを作る気もない、形だけの契約。
ソフィアは、その提案に目を輝かせた。あまりにもチョロすぎて心配になるくらいだったが、レイモンドにはどうでもいいことだった。
彼女の目的が金であれ自由であれ、妻として首を差し出してくれるならば、それでいい。
(この女を飼いならし、三年間やり過ごせばいい。簡単だ)
家督を手に入れたら、三年後に離縁する。
人生にこれ以上のノイズが入ることは二度とないだろう。我ながら完璧な計画。
――月の光の下でそんな傲慢な勝利を確信していた当時の自分を、今の自分が見たら、何と滑稽だ、と嗤うだろう。
お前は、この瞬間から、その「都合のいい女」のすべてに狂わされることになるのだと。
あるいは、三年後、離縁を切り出した彼女に対して、なりふり構わず「行かないでくれ」と縋ることになるのだと。
自分のこの選択が、人生そのものを変えることになるとレイモンドが知るのは、まだ、少し先の話である。
Fin.




