【後日談】紫の誓い/ソフィアSide
長かった夏が終わり、秋の気配が訪れる頃。
夜の帳が下りたウィンダム邸では、ソフィアが一人、作業部屋の椅子に腰かけ、静かに針を動かしていた。
膝の上にあるのは、レイモンドのために仕立てた白いシルクのベスト。彼女は今、その左胸の裏側――着用した際、彼の心臓が脈打つ場所に、一本の糸を走らせていた。
選んだのは、高貴で艶やかな「紫」。
『次も紫がいい。君の瞳の色だから』
そう言って、独占欲を隠そうともせず笑ったレイモンドの顔を思い出し、ソフィアは微笑む。鉄の規律を重んじてる彼が、今や妻の瞳の色を纏うことを何よりの誇りとしている――それが、何だか少し可笑しくて、嬉しかった。
(……よし。これで、完成ね)
最後のひと針を終え、糸を引く。
満足げに息を吐き、出来上がった服を眺めていた、その時。
「……まだ起きていたのか」
低く、どこか甘さを孕んだ声が静寂を破った。
振り返ると、そこには寝衣を纏ったレイモンドが立っていた。扉を叩く音すら聞こえないほど、彼は静かに部屋に入って来たらしい。あるいは、自分が集中しすぎていただけかもしれないが。
「ええ、あと少しで完成だったものですから。旦那様こそ、お仕事は終わったのですか?」
「どうにかな。……それは完成したのか?」
「はい。ご覧になりますか?」
「ああ、見せてくれ」
ソフィアが誇らしげにベストを掲げると、レイモンドは歩み寄り、その「紫」の刺繍を見つめて目を細めた。彼は愛おしげにその刺繍を指先でなぞったが、すぐに視線をソフィアへと戻す。
「素晴らしい出来だ。……礼を言う、ソフィア。では、今日の作業はもう終わりだな?」
「そうですわね。あとは片付けだけ……」
「片付けか。――それは明日にしろ。今日はもう終いだ。部屋に行くぞ」
反論を許さない響き。
次の瞬間、ソフィアの視界がふわりと浮き上がった。
「きゃっ……! だ、旦那様?」
ソフィアは悲鳴を上げる。
レイモンドに、お姫様抱っこで抱え上げられていた。
……自分を抱きしめるレイモンドの身体が、熱い。
彼の平熱は自分より少し高く、いつまで経っても、ドキドキしてしまう。それに、彼の胸板から伝わる鼓動の音が大きくて……。
「……だ、旦那様、自分で……自分で歩けますわ」
「駄目だ。君の歩幅は小さいからな。この方が早い」
「で、でも……っ」
「何だ? 使用人に見られることを心配しているなら、何も問題ない。二階にいた使用人は全員下がらせたからな」
「……っ」
レイモンドは断言すると、そのまま作業部屋を出て、ソフィアを腕に抱えたまま薄暗い廊下を進む。そして寝室の中に入ると、柔らかな寝台の上にソフィアを降ろした。
「あ……ありがとう、ございます」
「――フッ。礼を言っている場合か? 俺がどうして君をわざわざ抱えて運んだか、わからないわけじゃないだろう?」
「……っ」
レイモンドの両手が、ソフィアの身体を囲い込む。――ギシ、とベッドが軋んだ。
月明かりを背負う大きな体が、ソフィアの視界を覆い隠す。
「……ソフィア」
「…………はい、旦那様」
至近距離で見つめてくる彼の瞳には、深い情愛と、隠しきれない熱が宿っている。
ソフィアは理解していた。
ここのところ、レイモンドは仕事が忙しく、就寝の時間が合わなかった。だが、今日はそれが一区切りつきそうだったため、ソフィアは敢えて作業を作り、レイモンドの仕事が終わるのを待っていたのだ。
「……いいだろう?」
不器用で屈強な軍人の、傲慢で甘い通告。長い夜を告げる、開始の合図。
ソフィアは頬を染めながらも、躊躇いもなくレイモンドの首に手を回し、こくりと頷いた。
「はい、旦那様。……そのために、待っていたのですから」
「――っ」
刹那、レイモンドの喉が、ごくりと、音を鳴らす。
今の自分の発言を、二ヵ月前の自分が聞いたら発狂するに違いない。
過去の自分は、貞淑な、淑女の仮面を被っていた。それが今は、まるで娼婦のように、男を誘っているのだから。
「……君はいつから、そんなに積極的になったんだ? 俺が知らなかっただけか?」
「ふふ。旦那様こそ、わたしに秘密にしていることの一つや二つ、あるのではなくって?」
夫の顔を引き寄せるように、ぐいっと腕に力を込め、彼の青い瞳を覗き込む。
すると彼は、愉悦にも似た笑みを浮かべた。
「――フ。どうだろうな。俺に秘密があるかどうか、暴いてみるか? 君になら、全てを晒していい。その代わり、君の全てを俺に捧げてもらうが」
「もう、全てを捧げておりますわよ?」
「それはどうかな。君はまだ、自分のことを何もわかっていない。……勿論、俺のこともな」
「……? それは、どういう……」
「君のいいところを、探り当ててやろう。君が『やめて』と泣いて縋るほど、恥ずかしい体位でな」
「……っ」
レイモンドの唇が弧を描く。
その瞳に宿るのは、ソフィアへの慈愛と熱情、そして、抑えきれない独占欲。――そして、底知れない欲望だ。
ソフィアはかあっと顔を真っ赤に染め、ふい、と顔を逸らしたが、その顎を、レイモンドが優しく、けれど逃げられない強さで掬い上げる。
「今夜は、寝かさないからな、ソフィア」
刹那、問答無用に塞がれる唇。
――月光に照らされた二人の影が、重なり合い、深く、深く絡み合う。
やがて二人の境界線は闇に溶け、どこまでも、どこまでも深いところへ、沈んでいった。
Fin.




