【未来編】女王の工房/ソフィアSide
王都の一等地に店を構える『サーラ・レーヴ』本店。その奥に位置する執務室では、ソフィアがスタップに指示を出していた。
壁一面の棚には、王都郊外にある三つの量産工房から届けられた週次報告書が並び、机の上にはイシュ・ヴァーレンから送られてきた新型ファスナーの納品スケジュールが広げられている。
「……マリー、量産ラインのBグループに伝えて。この既製服のウエストライン、あと一インチだけ余裕を持たせて。ファスナーによる『着脱の楽さ』と、幅広い体型をカバーする『汎用性』。この両立こそが、私たちのブランドの命よ。仕立て屋に通えない女性たちにこそ、この自由を届けるの」
「はい、店主! すぐに工房へ連絡します!」
ソフィアの迷いのない指示に、スタッフたちが活気立って動く。
今から約五年前、レイモンドから契約結婚を申し込まれた時のソフィアは、せいぜい自分やアリス、あるいは屋敷の使用人らの服をしつける程度のことしかしていなかった。
けれど今の彼女は、貴族のための最高級ドレスから、中産階級の女性が一人で着替えられる機能的な既製服までをプロデュースする、時代の革命児だ。
「マダム、こちらがイシュ様から届いた、最新の『ドレス用しなやかファスナー』の最終試作です」
ソフィアは届けられた金属の列を手に取り、その滑らかな動きを確認した。
ジジッ……という精密な音。それは、かつて彼女がレイモンドに連れられた先の軍港で見た、あの無骨な鉄の塊とは似ても似つかない、宝石のような輝きを放ってい。
(……やっと、ここまで来たわ。これが、私の戦いの『鍵』になる)
*
――二年前。レイモンドの公務に同行して訪れた軍港の売店。
そこでソフィアは、軍の天幕や、弾薬嚢に使われている、無骨な鉄製の留め具――スライドファスナーに目を奪われた。
鉄の歯が噛み合い、厚い帆布を一気に閉じていく。その圧倒的な機能性に、ソフィアは震えるような予感を覚えた。
『旦那様、見て! これ、ドレスに使ったら、侍女のいない女性でも一人で着替えられるようになるわ!』
『……軍需品を何だと思っている。こんな無骨な鉄の塊、ドレスに馴染むはずがないだろう』
呆れ顔のレイモンドをよそに、ソフィアは即座にイシュへ手紙を書いた。
『軍用のファスナーを、極限まで細く、しなやかに改良してほしいの。これは単なる留め具じゃない。女性を、誰かの手を借りなければ装えない不自由から解放する、魔法の道具になるわ』
イシュは「無茶を言う」と笑いながらも、帝国の技術者に命じて開発を成功させた。
ソフィアは、その完成したファスナーを「既製服ライン」の標準仕様にすることしたのだ。紐締めの苦痛から解放された女性たちは、こぞって『サーラ・レーヴ』の店舗へと詰めかけることになるはずだ。
*
職人たちを帰した後の静寂の中。
ソフィアは一人、鏡の前で自ら開発した最新の試作ドレスを身に纏っていた。
深い紫色のシルク・サテン。その背中には、彼女の執念の結晶である一条のファスナーが伸びている。
そこへ、重厚な扉が開く音がした。
カツン、カツンと、板張りの床に規則正しい軍靴の音が響く。漆黒の軍服に身を包んだ男――レイモンド・ウィンダムだ。
「……ソフィア。いつまで仕事をするつもりだ。王都の各店舗の売り上げをチェックするのは、明日の朝でも遅くないだろう」
不機嫌そうな声。だが、ドレス姿のソフィアを見た瞬間、レイモンドの言葉が止まった。
「あら、旦那様。お迎え、ありがとうございます。……このドレス、いかがかしら?」
ソフィアは背中を向け、鏡越しに夫を見つめた。
レイモンドは、彼女の背中にある細い金属の列を、まじまじと見つめる。
「……あの、軍港で君に見せた鉄の塊か。まさか、本当にドレスの一部にしてしまったのか」
「ええ。あなたが呆れていたあの軍需品よ。イシュに頼んで、指を傷つけないほど滑らかに改良させたの。……これがあれば、誰でも簡単に、ドレスを脱ぎ着できるわ。素敵でしょう?」
刹那、何を思ったか、レイモンドの瞳に、熱い独占欲と焦燥が宿った。
彼はソフィアの腰を引き寄せ、逃げ場を奪うように耳元で低く囁く。
「昼間、君のことを一度も考えなかった瞬間はないというのに、君はドレスと商会の帳簿に夢中か。……酷い妻だな。君は理解しているのか? その身体は、もう、君一人のものじゃない。本当は屋敷に閉じ込めておきたいくらいだと言うのに」
彼はソフィアの首筋に顔を埋めた。軍服から漂うシダーウッドの香り。
ソフィアは、その重みを、溶けるような安心感として受け止めている。
「……ごめんなさい。わかっているわ、レイモンド。でも、今日はどうしてもこの『解放の鍵』を、あなたに一番に見せたかったの」
「言い訳は屋敷に着いてから聞く。……君はもう、屋敷に着くまで一歩も歩くな。働きすぎだ。お腹の子に何かあったらどうする」
レイモンドはソフィアを軽々と抱き上げた。
「ちょっと! レイモンド、自分で歩けるわ! もし従業員が残っていたらどうするの!」
「全員帰った。問題ない」
「……っ」
ソフィアが抗議の声を飲み込むのと、レイモンドが彼女を高く抱き上げるのは同時だった。
漆黒の軍服に包まれた腕の筋力は、数年前よりさらに逞しく、頼もしくなっている。
その腕に守られるようにして店を出ると、夜の静寂が降りる通りには、ウィンダム侯爵家の紋章が入った馬車が待機していた。
レイモンドはソフィアを降ろすことなく、そのまま車内へと運び入れる。
ふかふかの座席に彼女を横たわらせるかと思いきや、彼はソフィアの頭を自らの逞しい腿の上に導いた。
「レイモンド、膝枕までしなくても……」
「大人しくしていろ。激務をこなしている君には、これくらいの休息が必要だ」
そう言って、レイモンドはソフィアの下腹部に、そっと、大きな掌を添える。
妊娠五ヶ月。
ドレスの上からでは、よほど注意深く見なければわからないほどの微かな膨らみ。
だが、その下に宿る小さな命の鼓動を、レイモンドは誰よりも敏感に、そして恐れ多いものを扱うように感じ取っていた。
「……今日、軍の礼拝堂の書庫で、古い聖典を調べていた」
レイモンドが、どこか落ち着かない様子で切り出した。ソフィアを膝枕させたまま、空いた方の手で彼女の柔らかな髪を梳く。
「聖典を? 兵法ではなくて?」
「ああ。……その。ウィンダム家の歴代の名ではなく、もっとこう……光を感じるような、名がいいと思ってな。いくつか候補を考えたんだが、聞いてもらえるか」
ソフィアは驚いて、レイモンドを見上げた。
まさか、仕事人間の、効率と規律を重んじる軍人が、仕事の合間に聖典をめくり、我が子の名の響きを吟味していたとは。
その光景を想像するだけで、ソフィアの胸の奥は、ファスナーを開いた時のように一気に熱くなった。
「ふふ、旦那様ったら。生まれるのはまだ五ヶ月も先よ。気が早すぎるわ」
「……早いことはない。君に似た娘なら、その名に相応しい宝石も用意せねばならんし、俺に似た息子なら、立派な剣も作らせねばならん」
大真面目に語る夫の、その不器用な情熱が可笑しくて、愛しくて。ソフィアはお腹の上に添えられた彼の大きな手に、自らの手を重ねた。
「どんな名前でも、あなたが一生懸命考えてくれたものなら、その子はきっと幸せだわ。……でも、一つだけ約束して。名前を決める時は、二人で一緒に相談しましょう?」
「……ああ。無論だ」
レイモンドの視線が、お腹からソフィアの瞳へと移る。
かつては「自分に触れないこと」を条件に結んだ、冷たい紙の上だけの契約結婚。
あの頃のソフィアは、心の奥底で、男性という存在に怯え、独りで生きていくための「武装」としてこの服の技術を追い求めていた……のかもしれない。
だが、今。
背中を閉じるファスナーは、彼女を孤独にするための道具ではない。
最愛の夫にだけ解くことを許した、甘い「解放」の合図。
そして、その下に宿る命を、二人で慈しむための愛の証。
「愛している、ソフィア。……君も、この子も。何があっても俺が守り抜く」
夜道を進む馬車の中で、レイモンドは、ソフィアの額にそっと、唇を落とした。
Fin.




