【大幅改訂版】第68話:キミのための戦い(阿部康平サイド)⑥
そして――
僕は、影山さんのお父さんの前に立っていた。
この男に会うのは初めてだ。でも、顔を見るのは初めてじゃない。ナメクジの身体に引っ付いたこの顔を、何度も目にしている。
あの頃よりもスッキリして見えるのは、伸び放題だった無精髭が丁寧に剃られているからだろうか。でも、こけた頬が顕になった事で、むしろ不気味さを際立たせているようにも感じる。
「ガキが、なんの用だよ……」
ベッドに座る男の目線は、横に立つ僕よりも低い。見上げる目付きが、猛禽類みたいな目をより鋭く見せている。
痩せ細った手足は浅黒く、まるでゲームに登場する食人鬼のようだ。
いずれにせよ、僕は目の前の男が放つ異様な雰囲気に気圧されていた。
恥ずかしいけど、膝がガクガク大笑いしている。
男は、ベッドのヘッドボードに取り付けたナースコールを押し続けていた。
でも、誰も来ない。幽霊女子達に頼んで、看護師さん達を一時的に遠ざけているからだ。皆さんには怖い思いをさせてしまって、申し訳ないけど……。
ナースコールが通じないとわかると、男は人差し指の爪を前歯で齧りながら、僕を睨みつけた。
「出ていけ――」
悪意を煮詰めたような、粘り気すら感じる視線。
僕はこんな陰湿な目をした大人を見た事がない。でも、その鋭い目の形から、どことなく影山さんの面影が感じられて、僕は複雑な気持ちになった。
この人は紛れもなく、影山さんのお父さんなんだ――
その事実が、波のように僕の心を揺さぶった。
この人は彼女の肉親であり、同時に彼女を食い殺す怪物でもある。
「あなたと会った直後から、影山さん――蕪太郎さんは塞ぎ込んでいます……。何が、あったんですか?」
その怪物の檻に手を伸ばすように、冷静さを装いながら尋ねた。
男はそんな僕を鼻で笑う。
「不躾だな……。その前に、自分が何者か名乗るのが礼儀だろう? 人の寝床に無断で立ち入った不届者に、家庭の問題をペラペラ話すわけがないだろうが……」
家庭。
実際には存在すらしない家庭を引き合いに出され、僕はムッとする。
「ぼ、僕は……彼女の恋人です」
「は? ……恋人?」
「そ、そうです」
「あいつの……?」
「はい……」
「……ぷっ!」
唐突に吹き出し、破顔した。
男のけたたましい笑い声が狭い病室にこだます。
薄暗い部屋と、甲高い笑い声。
まるで悪魔の巣窟に足を踏み入れたような、現実離れした恐怖で、僕の足元がぐらつく。
「そーかそーか。あいつも、そんな年頃か……」
男は立ち上がった。
痩せ細ってはいるけど、身長は僕より頭一個分高い。そんな長身の大人に見下ろされて、僕の足は勝手に一歩退いてしまう。
「あー、笑った。いや、まあ、なんというか……」
――ふざけんじゃねえぞ。
突然、胸ぐらを掴まれた。
バランスを崩した足がもつれ、転びそうになりながら壁に押し付けられる。
「ガキ同士の、恋人ごっこ……、はたから見てて、これほど滑稽なストーリーはねえんだよ……」怒りに満ちた目が近づいてくる。「あの疫病神は、俺から大事な人を二度も奪っておいて、自分はごっこ遊びに夢中だったってわけか――」
この男、影山さんを疫病神と――
頭の中が熱く煮えたぎっていく。
「か、影山さんは、疫病神なんかじゃない……」
「まあ、お前は知らんだろうな。あいつを産んだせいで俺の妻が死んだ事も、やっと巡り会えた妻の生まれ変わりをあいつが消し去った事も――」
妻の生まれ変わりだって?
こいつはツキヒの事をそんな目で見ていたのか?
だから、ナメクジの姿でツキヒの身体を這い回りながら、あんな惚けた顔を――
その光景を思い出すと、虫唾が走る。
「月子の生まれ変わりの少女と過ごした日々は……俺の中に秘められた文学性を、引き出してくれた」
胸ぐらを締め上げながら、ニヤリと笑う。
喉が押し潰されて咳と吐き気が込み上がる。
「そう、もう少しで俺は、歴史に残る傑作を生み出せたんだ」
傑作?
なんの話だ?
話が飛躍しすぎていて、ついていけない。
「それを、あの疫病神は、ぶち壊しやがった」
「ち、ちがう、影山さんは、お父さんを、助けようと――」
「助ける? このくだらない世界に爪痕を残せぬまま、のうのうと生きる事に、何の救いがある!?」
僕の声を、男の罵声が掻き消した。
「わかるか? 今の文壇は腐り切っている。漂白された正義……独り善がりの愛……そんな陳腐な作品だけが我が物顔でのさばってんだ」
そう語る顔は、見果てぬ夢でいやらしく歪んでいく。
「俺の小説は、そんな腐った世界に真実を伝えるはずだった。月子が俺に見せてくれた、真実の愛をな――」
崩れていく顔が、崩壊寸前で固まった。
「しかし、誰一人として、俺の作品に見向きもしない」
その瞬間、声が、表情が、見当違いの怒りで染まる。狂気に塗れた、恐ろしい顔だ。
「選考委員も、編集の奴らも、俺の作品を評価しない。バカな大衆に迎合した商業主義に毒されて、俺の小説の価値に気付けない! 俺の小説はもっと世に広まるべきだ! 頭空っぽをクズどもに揉み消されていい作品じゃない!」
男の目はもはや僕を見ていない。
その向こう側にある、自分を否定してきた人達への憎しみで、赤く燃えている。
「もっと俺の作品を求めろ! 恋焦がれろ! そうしなければ――」
――月子が見せてくれた愛は、この世界から消えてしまう。
男は再び僕へと視線を戻す。
そして、初めて僕の存在に気が付いたような、不思議そうな顔で首を傾げると、狂った笑みを浮かべた。
こいつは、何を言ってるんだ――
困惑のあとに、怒りが沸々と込み上げて来る。
この父親は、そんな理由で影山さんの思いを踏み躙ったのか? そんな、自分勝手な妄想に取り憑かれて、命懸けで戦った影山さんの優しさを……?
僕の頭の中が、ガラクタみたいな罵詈雑言で埋まってく。ゴミ、カス、クズ野郎、ダメ男、父親失格、最低人間――
思いつく限りの暴言を、大声で喚き散らしたい。
喚いて、ぶち撒けて、この怒りを発散しないと、胸が張り裂けそうだ。
でも――
『あの男に突き刺す言葉の剣は、お前自身で研ぐんだよ』
そうだ。
こんなガラクタを振り回しても、あの浮き出た肋骨に阻まれて、あの男の心臓に届かない……。
呼吸が苦しい。
意識が朦朧としてくる。
でも……。
考えるんだ……。
剣の刃を、研ぐんだ――
* * *
古本屋だ。
淡く彩られた、古本屋の店内だ。
小さな女の子が絵本コーナーの前に立ち、高いところに面陳された絵本を見上げている。
長い黒髪の女の子。
白い肌で、目つきが鋭い、そんな女の子。
女の子の視線の先には、水彩画で描かれた母子の表紙。赤い服を着たお母さんの腕の中で、黄色い服を着た子供が眠っている。
女の子はその絵本に手を伸ばす。
でも、届かない。
小さな女の子の指先と、その絵本との間には、現世と天国ほど遙かな距離が空いているようだ。
やがて触れることを諦めた女の子は、涙を溜めた目で、じっと絵本の表紙を眺めていた。
その中に記されたくさんのストーリーを想像し、心の空白を埋めるように、飢えた子猫の眼でじっと……。
僕は女の子の後ろに立って、その絵本に手を伸ばす。ずっしり重たいその絵本は、なんとか僕の片手に収まった。
視線を落とすと、不思議そうに僕を見上げている女の子と目が合う。
落とさないようにそっと絵本を手渡す。
女の子の目が見開き、そして柔らかに細められる。
『ありがとう、阿部くん――』
絵本を両手で抱えた女の子は、屈託のない笑みを浮かべていた。
世の中の全てを諦めた末の、皮肉めいた笑い顔じゃない。
心の底から迸るような、渾身の笑顔だった。
影山さんの願い――
こんな僕でも、影山さんの為に出来る事――
影山さんでは手が届かない、無理だって諦めてしまったものにだって、僕だったら届くかもしれない。
2つの間の架け橋になれるかもしれない。
それが、僕の役目――
右手に熱を感じる。
目の前にかざすと、そこには光り輝く短剣が握られていた。
薄く鋭い刃を持つ、僕の中で生まれた剣。
そのつかを両手で握り――
突き刺した。
* * *
「求められていない、だって……?」
胸ぐらを掴む骨ばった手首を、力一杯握り返す。
「あなたは、何も、見えちゃない……」
影山さんは、お母さんの写真を見つめていた。
お母さんの物語に憧れ、焦がれ、見つめていた。
「月子さんの物語を、ずっと求めている人が、あなたのすぐそばにいただろ!!」
突き出された短剣の、光り輝く切先は、真っ直ぐに進んでいく。
皮膚に食い込み――
骨の間をすり抜けて――
心臓へ――
核心へ――
「作家になりたいんですよね……」
男の表情が固まる。
「だったら、読者を見捨てるなよ……」
男の顔が歪んでいく。
「あなたの作る物語を必要とする人間を、無視するなよ!」
胸ぐらを掴んでいた手が緩む。
解放されたと感じた次の瞬間、顔面に衝撃。
殴られた。
体勢が崩れて、床に転がる。
でも僕は、男から目を逸さなかった。
男の目の中に見える黒い魂の水面に、微かな揺らぎが生まれる瞬間を、僕は見続けた。
「ガキの分際で――」
目を逸さない。
「知ったような口を――」
僕の意思は揺るがない。
「ああ、くそっ……」
この気持ちは絶対にブレない。
「なんなんだよ、お前はよぉ……」
男が再び振り上げた拳は、プルプルと震えていた。
僕に出来る事なんて、きっとたかが知れてる。
人を従わせたり言い負かしたり、そんな大それた力なんて持たない、ただの無力な存在だ。
でも――
影山さんの為に出来る事は、何だってしてあげたい。痛くたって、怖くたって、その気持ちだけは絶対に曲げない。
無力な僕に出来るのは、きっとそれだけだから。
「僕は、蕪太郎さんの恋人です」
だから、ここに宣言する。
「だから、影山さんの背負った悲しみも、全部ひっくるめて――娘さんを僕に下さい、お義父さん」
* * *
沈黙の向こうから、足音。
たくさんの足音が近づいてくる。
僕たちのやり取りが、ついに病院側へ気付かれたらしい。夜な夜な患者さんの部屋に忍び込んだ僕は、どう見たって不審者だろう。
そろそろ、行かなきゃならない。
「影山さんに、会って下さい」
僕は立ち上がる。
「今更、影山さんを愛してあげてなんて言わないです。ただ影山さんに、ちゃんとお母さんのこと、話してあげて下さい」
お義父さんはボサボサに伸びた髪を掻きむしる。
「黙れよ、クソガキ」
「お願いします」
お義父さんの手を無理矢理に掴んで、僕は病室のドアを開けた。
「てめぇ、なんのつもりだよ」
お義父さんの言葉を無視して、僕は足音のする方とは逆、あまり使われていない外階段の方へ走る。
相変わらず悪態は吐くものの、お義父さんの言葉からも行動からも、さっきまで威圧感は薄れていた。
まるで手負の獣だ。
そんなお義父さんを引き摺るようにして、僕は走った。
車通りの少ない路地を進み、国道を横切る長い横断歩道の前で、僕達は足を止めた。
「別に、お前の的外れな説教に、ほだされたわけじゃない……」
寝巻きにサンダル履きのお義父さんは、荒い息を繰り返しながら、恨めしそうな声で言う。
「ただ、昔を思い出しちまっただけだ……」
車道側の青信号が点滅している。
もうすぐ、道が開けるだろう。
「月子の実家へ挨拶に行った時、あいつのオヤジに思いっきりぶん殴られた――」
僕はヒリヒリと痛む左頬を撫でた。
「お前は、俺から、目を逸さないんだな……」
進む先を見つめながら僕は頷く。
頬の痛みが、なんだか誇らしいもののように感じた。




