第61話:キミのための戦い(影山蕪太郎サイド)④
蕪太郎の『銀髪の鬼』はボロボロだった。
『陰の気』を体現したその鬼は、彼女の満たされない虚弱な心を守る、ある意味では守護者のような存在だ。
自分の居場所を見つけ、孤独と絶望が薄れるほど、銀髪の鬼は弱体化していく。
そして、たとえ偽りであれ、人生における最大の幸福を体感した蕪太郎の鬼は、今まさに破片とともに崩れ去ろうとしていた。
「てめぇ……」
蕪太郎は、ボロボロになった鬼の手を、自分の肩に触れさせた。
あの廃校での儀式で記憶が途切れる直前、ツキヒはこの身体と融合しようとしていた。それならばヤツは今、この身体の中に潜み、苦悩する自分を嘲笑っているのではないか?
霊体の手が体内に入り込み、砂浜に埋まった貝殻を探すように、自分とは異なる質感を追う。
指先に触れた、薄いシーツのような柔らかな感触。
自分のものではない、異質な感触。
こいつだ――
それを掴み、力づくで手繰り寄せる。
銀髪の鬼の手に握られていたのは、金色の糸の束。明らかにツキヒの毛髪だった。
「出てきやがれ……!」
蕪太郎が更に力を込める。
銀髪の鬼から破片が飛び散った。
一瞬、突き飛ばされ玄関に座り込んだ母親と目が合う。驚きながらも、自分を見守るその気丈な視線に、蕪太郎の心は揺れ動く。
鬼の頬がひび割れ、大きく崩れ落ちた。
これ以上、感じちゃいけない。
『幸せだ』って――
蕪太郎の背中から、ツキヒの頭部が引き摺り出された。苦悶の表情を浮かべ、必死に繋がりを保とうとするツキヒを力づくで引き剥がす。
鬼は両足で蕪太郎の背中を踏みつけ、そのまま渾身の力を込めて手繰り寄せた。
ツキヒは一気に引き摺り出される。
同時に、ツキヒを掴んでいた鬼の右腕も砕け散る。
「出てきやがったな、クソやろうが……!」
間髪入れずに、ツキヒの顔面に回し蹴りを叩きつけた。金色の髪が乱れ、鬼の右足からは銀色の破片が舞う。
蕪太郎は怒りに任せて、ツキヒを殴り続けた。
左の拳を握り締め打ち下ろす。
右足の膝をツキヒの腹にめり込ませ、同時に左の肘で打ち据える。
よろけたツキヒに頭突きを食らわせ、左足の膝で脇腹を抉る。
連打、連打、連打――
この世界への迷いを、無理矢理に断ち切るように。
生温かい『夢』の肉を引き裂き、骨を砕き、血を迸らせるように。
徐々に世界が歪んでいくのは、蕪太郎の目からとめどなく溢れる涙のせいだけではない。
水をかけられた水彩画のように、偽りの世界から色が溶け落ちていく――
ボロボロの銀髪の鬼が猛攻を止めた時、辺りは何もない真っ白な空間へと変貌していた。
全てが嘘だと――わかっていたはずなのに、蕪太郎は咆哮した。
「なんで……こんな事を……」
荒い息を繰り返しながら、蕪太郎は何もない空間に膝をついた。どこからが地面で、どこからが空なのかわからない。ただ自分の嗚咽と、鼻水をすする音だけが聞こえてくる。
目の前に倒れていたツキヒが、ゆっくりと起き上がった。
一糸纏わぬその姿には、先ほどの猛攻の痕跡はない。ボロボロの銀髪の鬼が繰り出す打撃など、枯れ枝で巨木を殴りつけるようなものだ。やればやるほど、枯れ枝の方の樹皮が捲れていく。
ツキヒは、全てが消え去ってしまった真っ白な世界を見渡した。
白い顔の下半分の埋めていた三日月型の唇が、満ち欠けのように大きく歪む。そして、薄く開いた口から漏れるのは、言葉にならない感情の発露。
それは子供のような泣き顔だった。
まるで大事に大事に描いた絵を、破り捨てられたような。
蕪太郎は、急に泣き出したツキヒを見て唖然とする。いつだって、不気味な薄ら笑いを浮かべていたのに、なぜ……?
戸惑う蕪太郎。
その隙をつくように、ツキヒが駆け寄る。
銀髪の鬼で防御しようとした蕪太郎だったが、踏み出そうとした足は音を立てて崩れ、鬼は地面に膝を付いた。
振り回されたツキヒの手の平が、蕪太郎の頬を打つ。
痛みはそれほどでもない。
だた、打たれた箇所が、目に滲む涙のように熱い――
不意の打撃でよろけた拍子に、反対側の頬にもう一発。
まるで駄々っ子だ。めちゃくちゃに振り回した平手が、蕪太郎にぶつかり乾いた音を響かせた。
片足を失った銀髪の鬼は、もはや立つ事すらままならない。蕪太郎は自分の手で、振り回されるツキヒの両腕を掴もうとした。しかしその非力な細腕は、荒地の枯れ草のように無惨に弾かれた。
一発が蕪太郎の鼻先にぶつかる。
温かな鼻血が滴り、唇を濡らす。
負けじと体を丸め、ツキヒに体当たりする。
二人はそのまま地面に転がった。起きあがろうとするツキヒに馬乗りになり、全体重で押さえ込む。
バタつかせたツキヒの膝が背中にぶつかった。
逃れようとするツキヒの地団駄を、歯を食いしばりながら耐え凌ぐ。
息が熱い。
乾燥した喉がピリピリと痛む。
ツキヒの唸り声は、やがて嗚咽へと変わった。
蕪太郎は口の中に入り込んだ血液を、僅かな唾液と一緒に吐き捨てた。
「てめえは、何がしたいんだ……!?」掠れた声で蕪太郎は叫ぶ。「なんで、あたしの幸せを弄ぶんだ!?」
ツキヒは首を横に振る。
「あたしのお父さんをあんな姿にして……! 今度はあたしをバケモノにするつもりなのかよ!」
激しく首を振るたびに、金色の髪が乱れ散る。
「お前の目的は……なんなんだよ……!」
蕪太郎の目から涙が溢れた。
それがツキヒの頬に当たり、弾けて、流れ落ちる。
ツキヒは顔を歪ませながらも、嘲りではない、真っ直ぐな目を蕪太郎の目に向けていた。
その視線の鋭さに、蕪太郎は息を呑む。
遊びで人の魂を弄ぶバケモノ――それがツキヒなのだと、蕪太郎は信じていた。
その胸中はどす黒く、他者を踏み躙る事を悦びとし、決して分かり合えないと思い込んでいた。
しかし、自分を見つめるその目には、衝動や享楽とは異なる感情が、込められているような気がした。
そいつは……『幸せになる』ためだけに、存在している――
百々道子の言葉が脳裏を過る。
この『ツキヒ』という存在にも、感情があるのだろうか?
幸せという形ないものを求める、人間特有の愚かな願いが、こいつの中にも存在するのだろうか?
ツキヒはたった一人、この世に生み落とされた。
そして、自分の中に生まれた空洞――孤独という心の痛みを紛らわす事で、『幸せ』というものに近づこうとした。
それって、あたしと一緒だ。
「あの世界は――」
蕪太郎の目に、ツキヒが自分と同じ、ただの強がりの少女に映る。
「お前の求めた、幸せだったのか……?」
蕪太郎は呟く。
ツキヒは、ゆっくりと頷いた。
* * *
僕と松原さんは、廃校を取り囲む白装束の死角を縫って、校舎内に侵入した。
影山さんのいる教室を中心にして、蝋燭が放射状に並べられていたから、場所は難なく突き止める事ができた。
教室を覗き込むと、のたうち回るリュウジ――
『なんだよ! てめーらはお呼びじゃねーの! あの強そうなハゲのおっさんを寄越せよ!』
「リュウジ大丈夫!?」
悪態を吐くリュウジに駆け寄った松原さんは、その背中を見てギョッとする。
「人面ナメクジ……!」
「それは影山さんのお父さんだよ!」
「え!? かぶちゃんのお父さんってナメクジなの!?」
僕は松原さんの天然ボケをスルーして、教室を見渡した。
日は既に翳っていて、教室の中は一足早い夜で満たされている。そんな闇の中で、椅子に座った白い人影――
「影山さん!!」
僕は影山さんに駆け寄った。
松原さんも僕に続く。
「リュウジ! 何があった!? 影山さんはどうしたんだ!?」
『知らねーよ! あの白い奴らがなんか企んでたんだろ!? 姐さんはツキヒとかいうのと融合して、それっきり! ってかイテェから! 早くなんとかしてくれよ!』
僕は影山さんを揺すった。でも、何も反応はない。眠っているような微かな寝息と、小さく上下する肩だけが、影山さんの生存を教えてくれている。
三浦さんと戦ってたあの男は、影山さんの中にツキヒを封じるって言っていた。その際に影山さんの人格が残るかわからない、とも……。
今影山さんは、自分の中でツキヒと戦っているに違いない。
「かぶちゃん頑張れ……!」
松原さんが影山さんの手を握る。
僕も、もう片方の手を握った。
影山さん――戻ってきて。
* * *
蕪太郎に与えられるはずだった、『月陽』という名と、それに込められた『幸せになる』という願い。
もしそれが、母の望み通りに娘へと授けられたのなら、きっと娘の目に映る景色は、生涯淡く輝いていたに違いない。
しかし、その願いは叶わなかった。
蕪太郎とツキヒ――2つに分かれてしまった『名付けられなかった者』と、『付けられるはずだった名前』。
彼女達は、不完全であるが故の孤独な世界で、奇しくも同じ夢を見た。
その夢は、冬の夜の毛布のように、彼女達の心を温めてくれた。
あの『偽りの温かさ』の中で生き続ける事は、二人が求め続けた『幸せ』の、一つのゴールには違いなかった。
そうだよね?――
蕪太郎の合意を求め、懇願するようなツキヒの目。
その目に取り込まれそうになり、蕪太郎は硬く目を瞑る。
そうかもしれない。でも――
「ごめん……お前と、同じ夢を見る事は、できない……」
母の姿が思い出される。
朝の爽やかな光の中で、湯気が踊る朝食をテーブルに並べている、エプロン姿の母だ。
ここで道を違えれば、もう二度と会えない。
あの幸せの中に逃げ込む事はできない。
「それでもあたしは、あの世界には行けないんだよ……」
心に刺さったナイフをゆっくりと引き抜くように、痛みに歪んだ声で、蕪太郎は言う。
そして再び目を開けた時、ツキヒは全てを悟ったような目で微笑んでいた。




