第60話:キミのための戦い(影山蕪太郎サイド)③
やがて、蕪太郎は目を覚ました。
飛び込んできたのは眼前を覆い尽くすほどの光。白く清潔なレースカーテン越しに、陽の光が燦然と差し込んでいた。
「ほら、いつまで寝てるの? 今日から新学期でしょ?」
女の声。
とても甘く、温かく、やわらかい声。
蕪太郎はボヤけた瞼を擦った。染みひとつない、真っ白な天井が見えた。
蕪太郎は現状が理解できなかった。
自分はついさっきまで、古びた小学校の中に閉じ込められていたはずだ。協会の策略にハマり、ツキヒに触れられ、そして――
という事は、ここは病室?
自分が気を失った後、事態はなんやかんやで終息し、病院に担ぎ込まれたってわけか?
蕪太郎は想像するが、何ひとつ実感がない。一見筋が通ってそうなストーリーだが、この空間の雰囲気と何ひとつ付合しない。
公園の隅に咲いた野花のような、安らかでひかえめな匂いがする。
「もー、初日から遅刻はマズイんじゃないのー? お母さん、今日はオムレツ作ったんだけど、お父さんと2人で食べちゃおっかなー?」
お母さん?
その暴力的なほどに蠱惑的な言葉で、ぼやけていた蕪太郎の思考は完全に覚醒する。
誰だ、母の名を語るクソ野郎は――
上体を起こし、声のした方を見る。
そこには『願い』が立っていた。
無理と知りながらも、長年想像し続けた続けた『願い』そのものが、自分のすぐ側に立っていた。
穴が開くほど見続けた写真よりも、だいぶ年を重ねている。
しかし、その姿を見紛うはずがない――
「おかあ、さん――」
蕪太郎の母――影山月子は膨らませていた頬を萎め、笑顔を作った。
「まったく、やっと起きたか。早く準備して、下に来なさいね。オムレツ冷めちゃうから」
「……」
蕪太郎は何も言えない。様々な感情が混じり合って、言葉がまとめられない。
そんな蕪太郎を見て、まだ寝ぼけていると思ったのか、月子は少しだけ怒った顔を作る。
「ほら、しゃんとしなさい! 返事は? 月陽!」
* * *
家はトタン製の錆びついた借家ではなかった。
白い壁紙には染みひとつなく、カビの臭いではなくやわらかな花の香りがした。
言われた通り、壁にかかった制服を着て、部屋を出る。間取りがよくわからなかったが、目の前の階段を下りると、右側の引き戸から朝のニュース番組の音が聞こえてきた。
ドアを開ける。
「ほら、朝ごはん並べたから、早く食べちゃいなさい」
忙しなく動きまわる月子。
食卓テーブルには見慣れたおっさん。いや、顔の造形は一緒だが、身なりはまるっきり違う。ボサボサだった髪は短く整えられ、スーツ姿でコーヒーを飲んでいる。
「親父……」
「ん?」クソ親父――陽一郎はスマホに向けていた視線を上げる。「オヤジだって? どうした月陽、反抗期に突入したか?」
「あ……いや……」
「いやいや、いいんだ。それも成長の証だからな。ほら、早く朝飯食べちまいな。チーズオムレツだから、あったかいうちに食べたほうがいい。食べ時を逃すと、お母さん怒るぞー?」
「もー、バカな事行ってないで。陽一郎さんもそろそろ出なきゃでしょ?」
「そうだったな」陽一郎は笑いながらコーヒーを飲み干す。「あ、今日は会社のあとに、出版社の人と打ち合わせがあるんだ。9時からミーティングアプリで繋ぐから、よろしく」
「はいはい、静かにしときますよ」
「それじゃ月陽、行ってくるな」
陽一郎は慌てて玄関に向かった。
テレビでは朝のニュース番組が流れている。
全てが絵に描いたような日常を形作っているが、蕪太郎にとっては非日常すぎて全く現実感がない。
自分は今、どこにいるんだ。
「あーもー、全然食べてないじゃない! そろそろお友達が迎えに来る時間よ! 早く食べなさーい!」
母親の怒った声ですら、なんだか愛おしすぎて泣きそうになる。
この場所はヤバいし、おかしい。
いや、ヤバいくておかしいのは、自分の方なのか?
* * *
母親に急かされて家を出ると、2人の女子が外で待っていた。
「もー月陽ちゃん、遅い!」
「流石に、3年生初日から遅刻はまずいだろー!」
馴れ馴れしい態度で接してくる見ず知らずの女子にゲンナリしたが、学校の場所がわからない蕪太郎にとって、案内役がいるのはありがたい。
自分が着ている制服は、たしか市内の私立中学のものだったはずだ。高い偏差値と充実した教育環境の反面、学費もべらぼうに高いと聞く。
海が眺望できる高台の住宅街。
爽やかな風が心地よい坂道を下っていく。
「明日、『蓋なしヤカン』の授業でテストあるらしーよ?」
「えー、マジかよ。だりーなー」
「月陽ちゃん、春休みにちゃんと復習やった?」
「あ、いや……」
ていうか、蓋なしヤカンって何?
そう尋ねると2人は爆笑した。
「何、って! 月陽ちゃんがつけたあだ名じゃん!!」
「存在すら忘れてんのかよ!? ひでー!!」
そ、そうなのか?
蕪太郎はとりあえず愛想笑いを浮かべる。
「月陽のあだ名センスは抜群だからなぁ……」
「2組の櫻井くんに付けたあだ名も良かったよね」
「なんだっけ?」
「『イケメン起き上がり小法師』。月陽ちゃんにフラれても、何度も起き上がるから」
「あー、あっったなー。しっかしもったいねーよな。櫻井くんって結構女子ウケいいだろ? それを鼻にかけるところがあるのがウゼエけど、優良株じゃんか。なんで振るかねー」
「ほら、月陽ちゃんの男性基準って、あのパパさんだから――」
「また始まったよ、エリカの『月陽パパ大好き』論……」
「だって、めちゃくちゃカッコいいんだもん! イケメンで、背だって高いし、会社経営でその傍らで作家さんなんて……」
「お前んちの親だって、開業医だろ」
「うちパパはムサイおっさん」
「お前なぁ……」
「ていうか、月陽ちゃん全然喋らないね?」
「どうした? 体調悪いのか?」
「あ、いや、その……ダイジョブ……」
蕪太郎は必死に首を横に振った。
体調は悪くない。むしろ、今まで感じた事がないような肉体の高揚感さえある。
猫背気味だった背筋が、ピンと伸びる感覚だ。視界はどこまでも広く、自分の意思さえあれば、どんな頂きだって超えていけそうな気がした。
これは夢なのだろうか?
夢だとしたら、なんて残酷な夢なんだろう。
* * *
豪奢な校門。
鮮やかな制服と、和かなクラスメイト達。
笑顔を絶やさない先生達。
おいしい学食。
友達とのおしゃべり。
蕪太郎にとって、全てが初めての経験だった。
これが夢だとしたらあまりにもリアルだ。学食で食べたハンバーグの、牛肉の旨味とナツメグの風味ですら、まだ舌の上で思い出す事ができる。
まるで、こっちが現実なのではと見紛う程に――
学校帰り、夕焼けの帰り道をゆっくり歩いた。
高台から見た夕日は、恐ろしいほどに赤かった。
あの古びた校舎でツキヒに抱きしめられ、そこから記憶が跳んでいる。普通に考えれば、このおかしな世界はツキヒの仕業に違いない。
そうだとして、なぜこんな事をする?
蕪太郎は考えようとしたが、今日一日の色鮮やかな出来事が思考の邪魔をしてきた。両親や友人達との楽しげな会話が、脳のキャパシティを圧迫している。
こんなに他人と会話したのは、生まれて初めてだった。自分の受け応えは問題なかったか? 自然に振る舞う事が出来たか? どうでもいいところに思考がシフトしそうになり、そんな自分を必死に律した。
自宅に向かって、見慣れない道を辿る。
あの家には、まだ母親がいるのだろうか。
いないかもしれない。
そもそも、こんなおかしな世界など、瞬きした次の瞬間には消えてしまうかもしれない。
なら――
もう、お母さんに会えない?
そう思った瞬間、夕日は残酷な色合いに変わった。
郷愁が襲いかかってくる。
茜色が、海を渡る風の音が、窓から漏れてくるカレーの匂いが、暴力的なノスタルジーとなって蕪太郎の思考を絡め取る。
いやだ。
ずっと、とどまっていたい。
ここは本当は、私の住むべき場所じゃない。
そんなのわかってる。
わかってるんだよ。
でも。
それでも――
蕪太郎は走り出した。
静かな坂道を、小さな足音が反響し、追いかけてくる。
住宅街の路地に入った。
角を曲がった。
家が見える。
不思議と懐かしい、自分の家だ。
この家のドアを開けた時、誰もいなかったら――
お母さんが消えてしまっていたら――
「お母さん!!!」
ドアを開け放ち、大声で叫んだ。
迷子の子供みたいな、涙まじりの声で。
「――どうしたの月陽?」
母の声。
キッチンから顔を出したお母さんは、泣き顔の蕪太郎に駆け寄る。
「どうしたの? 何かあったの?」
「ちがう、ちがう……」
「ほら、靴脱いで、ソファーに座ろ?」母は蕪太郎の手から荷物を受け取る。「今日は月陽の好きなシチューにしたの。食べながら、何があったか聞かせて?」
「そうじゃないんだ……あたしは……」
意思に反して、その目からとめどなく涙が溢れる。
人前でこんなに泣いたのだって、初めてだ。
母は困った顔で笑い、
「月陽――」
言って、娘を抱きしめた。
「お母さんに話してごらん? お母さんは、いつだって、絶対に、月陽の味方なんだから」
その温もりは、蕪太郎が最も欲しがっていたものだった。
幸せだった。
幸せすぎた――
できる事なら、何も考えずに、この幸せの中に埋もれていたい。
でも、これは嘘なんだ。
「うああああああ!」
蕪太郎は叫びながら、抱きしめる母を突き飛ばした。
「騙されねぇぞ! あたしは、騙されねぇからな! ニセモノめ! お前なんか、おまえなんか……!」
自分を包み込む『幸せ』の空気を、振り払うようにがむしゃらに両手を振り回す。
母は――
玄関に尻餅をついた母は、驚愕の表情を見せて、しかしそれもすぐに、優しげな顔に変わっていく。
その表情が、蕪太郎を更に苦しめる。
「ツキヒ! テメエの仕業なんだろ!? お願いだ、もうやめてくれ! これ以上あたしに、ニセモノの幸せを……与えないで……」
蕪太郎は銀髪の鬼を出現させる。
鬼の全身には、幾つもの亀裂が生じていた。
お読み頂きありがとうございます(*´Д`*)
ずっと渇望していた幸せな時間だからこそ、偽りとわかっていてもすがってしまう。蕪太郎もまだ中学生ですから、これは残酷な展開だなと思います……。
頑張ってほしい……(`・ω・´)




