第9話 連れて行かないで
由香理のマンションの一室。
瑠璃はベッドの上に座り、膝を抱えたまま、スマートフォンの画面を見つめていた。
画面には、昨日フリッツから送られた録音ファイルが表示されている。
『家路』
瑠璃の指先が、画面の再生ボタンのすぐ上で止まっていた。
押す力が、なかなか戻ってこない。
画面を見つめていると、母の青ざめた顔が重なった。
あのリビングの沈黙が、耳の奥に戻ってくる。
ダイニングテーブルの真ん中に置かれた、黒いバイオリンケースの輪郭まで、はっきりと頭に浮かんでしまう。
けれど、膝に置いた左手の指先だけが、小さく動いていた。
弦も指板もないのに、音の場所を探すように。
瑠璃はしばらく迷ったあと、そっとイヤホンを耳に差し込んだ。
そして、再生ボタンに触れる。
流れてきたのは、あの日、大ホールで聴いたような、鋭く冷たい音ではなかった。
観客を圧倒するための音でもない。
近づく者を拒むような音でもない。
テンポは、少し遅かった。
音と音のあいだに、瑠璃が息を入れられるだけの余白があった。
弓をどこで返せばいいのか。
どの音を急がず、丁寧に置けばいいのか。
それが分かるような、不器用なほど丁寧な『家路』だった。
音は、やはりどうしようもなく上手すぎた。
けれど、遠くはなかった。
瑠璃が手を伸ばせば追いかけられる、ちょうどいい距離で鳴っていた。
瑠璃は、息を吸うのを忘れていた。
膝の上で、左手の指が勝手に動く。
一音目を押さえるように。
次の音へ移るように。
こんなふうに、弾いてみたい。
そう思った瞬間、目の奥が熱くなり、気づけば頬が少しだけ濡れていた。
悲しいからではなかった。
家から逃げたいからでもなかった。
ただ、その音をもう一度、自分の手で追いかけたいと思ってしまった。
音が終わってから、瑠璃はゆっくりとイヤホンを外した。
けれど、耳の奥にはまだ音が確かに残っていた。
左手の指先が、小さく動く。
弦も指板もないのに、音の場所を探すように。
私は、バイオリンが好きだ。
その気持ちを自分の中で認めた瞬間、もう、好きじゃないふりはできないのだと分かった。
* * *
瑠璃が家を飛び出した翌日。
乃理子は市民音楽ホールの事務室にいた。
机の上には、処理しなければならない書類がいくつも広げられている。
けれど、印刷された文字は少しも頭に入ってこなかった。
昨夜から、ほとんど眠れていなかった。
瑠璃が飛び出していった玄関。
外の雨の音。
誠司の苦しそうな声。
由香理からの電話。
そして、あの夜、リビングのテーブルに残されていたパンフレット。
『秋の国際交流演奏会』
そこに印字されていた少年の名前を、乃理子ははっきりと覚えていた。
フリッツ・シュナイダー。
乃理子は、記憶の中にあるその名前を、頭の中でそっとなぞった。
瑠璃が変わったこの数週間。
このホールの旧練習室へ通うようになったこと。
自分に隠れて、バイオリンを弾いていたこと。
何も言わず、指先に赤い弦の跡を残して帰ってきたこと。
そのすべてが、パンフレットにあった名前と重なった。
乃理子は無意識のうちに、ペンを握る手に力を込めていた。
旧練習室で見た、まるで知らない子のような瑠璃の顔が、まぶたの裏に浮かんだ。
乃理子は、仕事の書類を静かに閉じて席を立った。
関係者通路を歩き、ホールの奥、旧練習室の方へ向かう。
昼間でも薄暗い廊下に、乃理子の足音だけが小さく響いた。
その途中で、乃理子は足を止めた。
リハーサル休憩中らしいフリッツの姿を見つけたからだ。
乃理子は、静かに彼を呼び止めた。
「あなたが、フリッツ・シュナイダー君ね」
フリッツは足を止めた。
「……はい」
乃理子の声は静かだった。
けれど、その奥には、張り詰めた糸のようなものがあった。
「瑠璃に、バイオリンを教えたのは、あなた?」
フリッツは、乃理子から視線を逸らさなかった。
「少しだけです」
その短い答えを聞いた瞬間、乃理子の表情がかすかに崩れた。
「近づかないで」
フリッツは黙って乃理子を見ている。
乃理子の手が、胸元で小さく握られた。
「あの子を……瑠璃を、連れて行かないで」
言い終えたあと、乃理子は自分の言葉に驚いたように唇を噛んだ。
フリッツを責めたいわけではなかった。
けれど、そう言うしかできなかった。
「あの子は、ただの子なの」
乃理子の声が震える。
「特別になんて、ならなくていい」
胸元で握った手が、小さく震えていた。
「才能なんて、いらない」
乃理子は一度、唇を噛む。
「ただ、普通に生きていてくれればいいのに……」
そこで一度、言葉が途切れる。
乃理子はフリッツを見ていた。
けれど、次第にその視線は彼の肩の向こうへ外れていく。
「姉も、最初は好きなだけだった」
フリッツは動かなかった。
「好きな音を、好きなだけ弾いていた……それだけだったのに……」
乃理子の声が、そこで再びかすれた。
「いつの間にか、誰も止められなくなった」
「本人も、周りの大人も……私も」
最後の一言だけが、ひどく小さかった。
乃理子は唇をきつく噛む。
「……こんなこと、あなたに言うことじゃないわね」
そう分かっているのに、止められなかった。
「止めればよかったの」
「姉を」
「でも、止められなかった」
廊下の奥から聞こえてくるリハーサルの音が、急に遠くなった。
「バイオリンが、姉を連れて行ったの」
乃理子の手が、胸元でさらに強く握りしめられる。
「だから、瑠璃だけは……瑠璃だけは、連れて行かないで」
フリッツは、目の前の女性の瞳をじっと見ていた。
その目を、どこかで知っているような気がした。
何かを失ったまま、そこから一歩も動けなくなってしまった人の目だった。
しばらく、フリッツは黙っていた。
乃理子を責める言葉は口にしない。
かといって、慰めるような言葉も、口にしなかった。
けれど、目を逸らすこともしなかった。
やがて、静かな声で言う。
「僕は、連れて行きません」
乃理子がハッとして顔を上げた。
「連れて行けません。彼女が、自分で決めることだからです」
「何を……」
「弾くかどうかを決めるのは、僕じゃない」
フリッツの声は硬かった。
けれど、相手を冷たく切り捨てる声ではなかった。
「僕は、彼女を連れて行かない」
「でも、あなたが止めることもできないと思います」
乃理子の目が揺れた。
フリッツは少しだけ間を置き、さらに言う。
「止めるのも、連れて行こうとするのも、たぶん同じです」
乃理子は何も言えなかった。
「どちらも、彼女が決める前に、奪ってしまうことだから」
廊下に、重い沈黙が落ちる。
「彼女が弾くかどうかを決めるのは、僕でも、あなたでもない」
フリッツは、乃理子の目をまっすぐ見た。
「彼女自身です」
フリッツはそれ以上、何も言わなかった。
姉のことを知らないまま、分かったようなことは言わない。
乃理子の恐怖を否定することもしない。
それでも、目の前の少年が一歩も引くつもりがないことだけは、乃理子にも分かった。
フリッツは静かに頭を下げると、廊下の奥へ歩いていった。
乃理子は、その場に立ち尽くしていた。
遠くから聞こえるバイオリンの音が、ひどく遠く感じられた。
* * *
夕方。
瑠璃は由香理のマンションのドアを開けた。
外の冷たい空気が、頬に触れる。
このままここにいれば、母の顔を見なくて済む。
またあの痛いほどの沈黙の中に戻らなくて済む。
でも、ここにいたままでは、もう一度弾きたいと思った自分の気持ちも、どこにも持っていけない。
瑠璃は、自分の家へ向かって歩き出した。
イヤホンは、もう外している。
けれど、耳の奥にはまだ、フリッツの弾いた『家路』が残っていた。
ゆっくりとしたテンポ。
音と音のあいだの優しい余白。
追いかけてもいい、と言われているような音。
母の顔を見るのは怖い。
また黙られるかもしれない。
怒られるかもしれない。
もう弾かないでと、はっきり言われるかもしれない。
それでも、足は家へ向かっていた。
夕方の光が、銀杏並木を薄く照らしている。
昨日の雨で濡れた落ち葉が、歩道の端に重なって貼りついていた。
瑠璃はその横を、ゆっくりと歩いていく。
やがて、自分の家の前に着いた。
玄関の扉は、いつもと同じように閉まっている。
その向こうにお母さんがいるのだと思うと、胸が苦しくなった。
瑠璃は、玄関のインターホンを見つめた。
押せば、母の声が聞こえる。
押せば、また母が黙ってしまうかもしれない。
指先が震えた。
お母さんに、嫌われるかもしれない。
そう思うと、手を引きそうになる。
けれど、もう好きじゃないふりはできない。
瑠璃はゆっくりと息を吸った。
逃げたい気持ちは、まだ完全に消えていない。
母に会うのは、怖い。
それでも、瑠璃は手を引かなかった。
震える指先で、インターホンのボタンに触れた。




