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第8話 逃げたいだけ

瑠璃は、冷たい秋の雨の中をただ歩いていた。


靴を履く余裕すらなく飛び出した足裏に、アスファルトの冷たさが容赦なく染み込んでくる。


濡れた靴下は重く、足先はもう感覚が麻痺し始めていた。


どこへ行けばいいのか分からない。

ただ、あの張り詰めたリビングから、青ざめた母の顔から、一秒でも早く遠ざかりたかった。


薄暗い夜道をどれくらい歩いたのか。


ふと顔を上げると、見覚えのある銀杏並木が目に入った。

市民音楽ホールへと続く銀杏坂だ。


家から逃げたいだけだったはずなのに、瑠璃の足は、無意識のうちにあの旧練習室へ続く道を覚えていた。


けれど、すぐに足を止める。


もう、あそこには戻れない。

戸棚の中にあった自分のバイオリンは、もうないのだから。


行く当てを完全に失い、瑠璃は近くの小さな公園に入った。


ベンチに座り込み、膝を抱える。


雨は頭の上から、肩から、膝から、遠慮なく瑠璃を濡らしていった。

制服に染み込んだ冷たさが、少しずつ肌へ届いてくる。


前髪の先から落ちた雫が、膝の上で小さく弾けた。


瑠璃は動けなかった。

家にも戻れない。

ホールにも行けない。

どこへ向かえばいいのかも分からない。


雨の音だけが、細かく、途切れずに降り続いていた。


どれくらいそうしていたのか。

公園の横に、一台の車が静かに停まった。


車のドアが開き、傘をさして降りてきたのは、母・乃理子の妹である叔母の由香理だった。


どうしてここが分かったのか、瑠璃には分からなかった。

けれど由香理は、迷わずこちらへ向かってきた。


由香理は、ベンチで全身を濡らして震えている瑠璃を見つけると、驚いたように目を見開いた。


しかし、大声で叱ったり、何があったのかと問い詰めたりはしなかった。


由香理は足早に近づくと、瑠璃の前で膝を折った。


「瑠璃ちゃん」


名前を呼んだ声が、少しだけ震えていた。

由香理はそれ以上何も聞かず、自分の着ていた上着を脱いで、瑠璃の肩にかける。


「こんなに濡れて……何してるの、もう」


責める声ではなかった。

泣きそうになるのを、無理に押さえているような声だった。


「まず車に乗って」

「でも……」

「でもじゃない。話はあとよ。今は、体を温めるのが先」


由香理は瑠璃の肩を上着ごとそっと包み、立たせようとした。


「風邪をひくのはだめ。そこだけは、叔母さんの言うことを聞いてちょうだい」


瑠璃は促されるまま、冷え切った体で車の助手席に滑り込んだ。


* * *


由香理のマンションに着くと、瑠璃は半ば押し込まれるように浴室へ連れていかれた。


「まず温まりなさい。話はそのあとに聞かせてもらうわ」


軽い口調なのに、逆らえない声だった。


そう言われてシャワーを浴びても、体の芯の震えはなかなか止まらなかった。


湯気で曇った浴室の中で、瑠璃はしばらく動けなかった。


浴室から出ると、由香理が用意してくれた乾いた服に着替えた。


由香理の服は瑠璃には少し大きく、袖が手の甲まですっぽりと隠れた。


リビングに戻ると、由香理が温かいミルクティーの入ったマグカップを手渡してくれた。


「飲める?」

「……うん」

「無理に話さなくていいわ」


由香理が瑠璃の向かいに座った時、テーブルの上のスマホが震えた。


画面には誠司の名前が表示されている。

さっきから、誠司や乃理子からの着信が何度も入っていた。


由香理は瑠璃の目の前で、隠すことなく電話に出た。


けれど、瑠璃を責めるような言い方はしなかった。


「ええ、うちにいる。うん、大丈夫」

「今日はこっちで預かるわ。……そうね、そっとしておいて。今すぐ連れ戻しても、同じことになるだけでしょう」


電話を切ったあと、由香理は静かに瑠璃を見た。


「黙って預かるわけにはいかないの。そこは分かって」

「……うん」

「でも、今は話したくないことまで、私に話さなくていいから」


瑠璃はマグカップを両手で包み込んだ。

温かいはずなのに、指先だけが妙に落ち着かない。


ふと、自分の左手の指が小さく動いていることに気づいた。


人差し指、中指、薬指、小指。


一本ずつ、空中の何かを順番に押さえるように。

そこには硬い弦も、黒い指板もないのに。


瑠璃ははっとして、慌てて指を握り込んだ。


けれど、握り込んだ手の中で、指先だけがまだ小さく疼いていた。


弦のない空気を、もう一度押さえようとしているみたいだった。


バイオリンはもう手元にない。


昨日は、少しだけ音が長く伸びた。

フリッツ君に、昨日よりは少しましだと言われた。


それが、嬉しかった。


もう弾けないはずなのに。

それでも指だけが、まだ音の鳴る場所を覚えてしまっている。


しばらくの沈黙のあと、瑠璃はマグカップを見つめたまま、ぽつりと漏らした。


「……お母さん、私のこと嫌いになったのかな」


由香理はすぐには答えなかった。


「そんなことないわよ」と、軽く否定して済ませることはしなかった。


少し間を置いて、カップに視線を落としたまま静かに言う。


「それは違うと思う」


瑠璃が顔を上げる。


「じゃあ、どうして……?」

「瑠璃ちゃんが悪いわけじゃないの」


由香理は困ったように、小さく息を吐いた。

「でも乃理子姉さんは、バイオリンのことになると、瑠璃ちゃんを、瑠璃ちゃんとして見られなくなるの」


「見られなくなる……?」

「瑠璃ちゃんのことを見ているつもりで、別のものを見てしまうのよ」


由香理はマグカップの縁に指をかけ、少しだけ眉を寄せた。


「……まったく。姉さんは昔から、大事なことほど言葉にするのが下手なの」

「お母さんが……?」

「下手よ。ひどいくらい」


その言い方は少し呆れていた。

けれど、責めているというより、長いあいだそばで見てきた人の声だった。


「昔、そうなるだけのことがあった……それだけは、本当」


瑠璃はカップを握る手に力を込めた。


「それって、お母さんのお姉さんのこと?」


由香理はすぐには答えなかった。

けれど、否定もしなかった。


「そこから先は、乃理子姉さんが、瑠璃ちゃんに話すことよ」


由香理はそれ以上、踏み込まなかった。

けれど、瑠璃が悪いのではないことだけは、はっきり伝えようとしているようだった。


その夜、瑠璃は由香理の部屋のベッドを借りて眠った。


しかし、眠りは浅かった。


雨の音と、母の沈黙と、ダイニングテーブルの真ん中に置かれた黒いバイオリンケースが、何度も夢の中に現れた。


* * *


翌日の昼下がり。


瑠璃は学校を休んでいた。


由香理は仕事に出る前、「気が向いたら食べなさい」と昼食を用意してくれていた。


無理に登校させないが、家に帰れとも言わなかった。


一人きりのマンションの部屋にいると、余計に息が詰まった。


瑠璃は、由香理の少しサイズが合わないスニーカーを借りて、外へ出た。


行く場所を決めたわけではない。


それなのに、気づけば足は市民音楽ホールの裏手の公園まで来ていた。


中には入れない。


旧練習室のあの戸棚にも、もう戻れない。


それでも、あの場所の近くから離れられなかった。


瑠璃は公園のベンチの前で足を止めた。


昨夜の雨で、木の座面はまだ少し湿っている。

瑠璃は濡れていない端を選んで、そっと腰を下ろした。


借りたスニーカーの中で、足先が落ち着かない。

地面には濡れた落ち葉と、湿った土の匂いが残っていた。


ぼんやりと足元の水たまりを見つめていると、不意に声が降ってきた。


「なんで、こんな所にいる?」


ハッとして顔を上げると、フリッツが立っていた。

リハーサルの休憩中なのか、ホールの裏口からふらりと出てきたらしい。


瑠璃は驚いたが、すぐに視線を足元に落とした。


「……もう、あそこには戻れないから」


フリッツは、瑠璃の足元に視線を落とした。


借り物らしいスニーカーは、少し大きい。

靴紐もきちんと結べていない。

膝の上で握られた手は、まだ赤く冷えていた。


フリッツは小さく息を吐く。


「待ってろ」


「え?」


答える前に、彼は踵を返し、近くの自販機の方へ歩いていった。


しばらくして戻ってくると、瑠璃の前に赤い缶を差し出す。


「持て」

「え……?」

「冷えてる」

「私が?」

「手が」


短くそう言って、フリッツは隣に腰を下ろした。


瑠璃は戸惑いながらも、その温かいミルクティーの缶を受け取った。


「……ありがとう」


フリッツは少しだけ目を伏せた。


「冷えてたから」


缶の熱が、冷え切っていた指先に少しずつ移っていく。


昨夜、足先に染み込んだあの雨の冷たさとは違う。

両手の中だけが、少しずつ現実の温度を取り戻していく気がした。


フリッツは瑠璃の隣のベンチに座ったが、近づきすぎない距離を保っていた。


そして、瑠璃の方を見ることなく、ただ同じように公園の木々を見つめていた。


瑠璃は缶を両手で包んだまま、ぽつりと尋ねた。


「フリッツ君の国って、遠い?」

フリッツは少しだけ考えてから答える。

「遠い」

「ここから?」

「ずっと」

「……飛行機に乗るの?」

「乗る」

「何時間も?」

「何時間も」


瑠璃は小さく頷いた。

そんなに遠い場所なら。


家の声も、母の沈黙も、あの黒いケースのことも、届かなくなるのだろうか。


「そんなに遠いところまで行ったら、家のことも、聞こえなくなるかな」


それは、音楽を学びに行きたいという言葉ではなかった。


母のあの怯えた顔からも、息の詰まる家からも、奪われた黒いバイオリンケースからも、ただ遠くへ逃げ出したいという、弱い言葉だった。


フリッツが、ゆっくりと瑠璃を見た。


その顔に、同情や優しい色は微塵もなかった。


瑠璃は思わず、缶を握る手に力を込める。

フリッツの視線は、その指先に一度落ちてから、また瑠璃の目に戻った。


「今の君は、ここから逃げたいだけに見える」


瑠璃は息を呑んだ。


「……逃げたいだけ?」

「そうだ」


フリッツは容赦なく続ける。


「遠くへ行きたいのと、音を選ぶのは違う」


瑠璃は反射的に否定しようとした。


違う。

私は、ただ逃げたいだけじゃない。

そう言いたかった。


でも、言葉は喉の奥で止まった。


昨日、家を飛び出したとき。

靴も履かず、傘も持たず、ただあそこから逃げたかった。

母の顔を見たくなかった。あの沈黙の中にいたくなかった。


それは紛れもない事実だった。


フリッツは少しだけ間を置いた。

そして、あの日と同じ言葉を口にした。


「逃げ場所にするなら、やめた方がいい」


瑠璃の指が、缶の表面を強く押さえた。

熱いはずなのに、手の奥がすっと冷えていく。


フリッツは笑わなかった。

慰めもしなかった。

ただ、瑠璃が目を逸らすより先に、静かにこちらを見ていた。


「遠くへ行けば、何かが変わると思ってるなら」


そこで一度、言葉を切る。


「たぶん、同じだ」


瑠璃は缶を握りしめた。


「じゃあ……私は、どうすればいいの」


すがるような瑠璃の問いに、フリッツはすぐには答えなかった。


少し間を置いて、短く言う。


「それは、君が決めることだ」


瑠璃は何も言えなかった。


フリッツはベンチから立ち上がりかけて、ふと動きを止めた。

ポケットからスマートフォンを取り出し、少しだけ画面を操作する。


「端末は」

「え?」

「持ってるなら、出して」


言われるまま、瑠璃はポケットからスマートフォンを取り出した。

フリッツは画面をのぞき込まないように視線を逸らしたまま、短く言う。


「音源を送る」

「音源?」

「この前、君が弾いていた曲」


瑠璃の指が止まった。


「……『家路』?」

「そう」


送られてきたのは、短い録音ファイルだった。


「僕が弾いた」

「フリッツ君が?」


フリッツは少しだけ目を逸らした。


「練習用だ」


それだけ言ってから、低い声で続ける。


「答えは、僕には分からない」

「……うん」

「でも、音を聴けば、少しは分かるかもしれない」


瑠璃は画面に表示された小さなファイル名を見つめた。


「何が……?」

「君が、まだ弾きたいのかどうか」


胸の奥が、少しだけ熱くなった。

手の中の缶の熱とは違うものだった。


「今すぐ決めなくていい」


フリッツはそう言って、スマートフォンをポケットに戻した。


「聴いてからでいい」


それから、いつものように少しぶっきらぼうに付け足す。


「缶、冷める前に飲め」


そう言って、フリッツはホールの裏口へ歩いていった。



残された瑠璃は、ベンチに座ったまま、両手で温かい缶を強く握りしめていた。


逃げたいだけ。


その言葉は、雨よりも冷たかった。


けれど、手の中の缶はまだ確かに温かい。


膝の上に置いたスマートフォンの画面には、送られてきたばかりの録音ファイルが表示されたままだった。


『家路』


まだ、再生ボタンには触れられなかった。


瑠璃は俯く。


左手の指先が、また小さく動きそうになる。

そこには弦もない。

指板もない。

音もない。


それでも、指はまだ昨日の感覚を覚えている。


瑠璃は両手で缶を握り直した。


私は、お母さんから逃げたかっただけなのだろうか。


それとも。


本当に、あの音が好きだったのだろうか。


答えは出ない。


けれど、その問いだけが、雨上がりの冷たい空気の中で、瑠璃の胸の奥に静かに残った。

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