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第7話 砕かれた逃げ場所

重い扉が開き、廊下の明かりを背にして、母・乃理子が立っていた。


瑠璃は、閉まりきっていないケースの前で固まった。

布はうまくかかっていない。

弓もまだ完全にはしまえておらず、その先がケースの縁からはみ出している。


乃理子は怒鳴らなかった。

すぐには何も言わず、ただそこに立ち尽くしていた。


視線だけが、瑠璃の手元から、ケースの中へ落ちる。

はみ出した弓。

ずれた布。

そして、その下にある、瑠璃の体に合う大きさのバイオリン。


それは、瑠璃の部屋にあるあの小さな子供用のバイオリンではない。

今の瑠璃が実際に弾くための、別の楽器だ。


乃理子の顔から、少しずつ血の気が引いていく。


そこにあるはずのないものを見たように、乃理子の目は大きく見開かれている


乃理子の唇がわずかに開いた。

けれど、声はすぐには出ない。

喉が上下するだけで、言葉にならない。

指先が扉の縁を掴む力が強くなり、関節が白くなる。


「……それ、誰が用意したの?」


瑠璃は答えられない。

喉が詰まる。

息を吸っても、声にならない。


「瑠璃」

叱る声ではなかった。

震えていた。


瑠璃は嘘をつこうとした。

拾ったのだと言おうか、学校のものだと言おうか。


けれど、できなかった。

母のその顔の前で、ごまかしは通じない。


「……お父さんが」


乃理子の表情が変わった。

怒りより先に、裏切られたような深い絶望が浮かぶ。


乃理子の手が、扉の縁に触れる。

指先が白くなるほど力が入っているのに、乃理子自身は気づいていないようだった。


息が浅くなり、肩が小さく上下している。


母はその場でバイオリンを取り上げようとはしなかった。


ただ、静かに、けれど有無を言わせない声で言った。

「持って帰りなさい」

乃理子の視線は、まだケースから離れなかった。

「ここには、もう置かないで」


瑠璃は震える手でケースの蓋を閉め、留め具を押し込んだ。

ケースを抱えて、母の後ろを歩く。



帰り道、乃理子は一度も振り返らなかった。


瑠璃も、何も言えなかった。


ホールの出口を出て、銀杏坂を下る間も、二人の間には恐ろしいほどの沈黙が続いた。


旧練習室の戸棚に戻せば、また弾けると思っていた。


いつかまた、あの不器用な少年に見てもらえる日が来るかもしれない。


けれど、もうそこには戻せない。


瑠璃のたったひとつの逃げ場所は、砕かれ始めていた。



夜。

橘家のリビング。


黒いバイオリンケースが、ダイニングテーブルの真ん中に置かれている。


いつもなら夕食の皿が並んでいる時間だ。

けれど、テーブルの上には何もない。

テレビもついていない。


いつもの家のはずなのに、この黒いケースが一つあるだけで、そこは全く知らない場所のように見えた。


瑠璃は椅子に座り、膝の上で両手をきつく握りしめている。


乃理子は立ったまま、テーブルの上のケースをじっと見つめていた。


会話はない。

リビングには、時計の針が進む音だけがやけに大きく響いている。


乃理子の手が、テーブルの端をつかんでいる。

指先が白くなるほど力が入っているのに、本人はそれに気づいていないようだった。


やがて、玄関のドアが開く音がした。

父・誠司が帰宅したのだ。


「ただいま。なんだ、暗いな……」


リビングに入った誠司は、テーブルの上の黒いケースを見て、言葉を切り、足を止めた。


一瞬で、何が起きたのかを悟った顔だった。


乃理子が、青ざめた顔でゆっくりと誠司を振り返った。


「あなた、知っていたの?」


誠司はすぐには答えない。


瑠璃を見る。

それから、乃理子を見る。


逃げられないと分かって、誠司は静かに答えた。


「……知っていた」


乃理子は何も言わない。

その沈黙の間に、リビングの空気が少しずつ冷えていく。


瑠璃は、膝の上でさらに手を強く握った。


乃理子が、震える声で続ける。


「あなたが、これを瑠璃に用意したの?」


誠司は苦しそうに顔を歪め、ゆっくりと頷いた。


「瑠璃が、弾きたがっていたんだ」


乃理子の声が、かすれた。


「だからって……どうして」


誠司は少し間を置く。

言葉を選ぶように、慎重に口を開く。


「少しだけでも、触れられる場所を作っただけだ」


その言葉は、誠司にとっては瑠璃を守るための精一杯の言葉だった。


だが、その言葉を聞いた乃理子の顔が、さらに強張った。


瑠璃には、それが母を余計に傷つけたのだと分かった。


誠司はさらに続ける。


「いつまでも、なかったことにはできない」


誠司は、決して乃理子を強く責めるような言い方はしなかった。


誠司は乃理子を見た。


それから、俯く瑠璃を見た。

どちらにも手を伸ばしかけて、結局、どちらにも触れられないまま、手を下ろした。


父は、瑠璃のために、あの楽器を用意してくれた。

けれど今、その手は瑠璃にも母にも届かない。

そのことだけが、痛いほど分かった。



乃理子の指が、テーブルの端をさらに強くつかんだ。

「だめなの」

「その音は、だめなの」


「乃理子」


しかし、誠司のその声は、乃理子には届いていないようだった。


乃理子は何かを言おうとして、ひゅっと息だけを吸う。


声にはならない。

唇が小さく震えている。


視線は瑠璃ではなく、テーブルの上のケースに向いている。


けれど、その目はケースを見ているようで、どこにも焦点が合っていなかった。


「好きになったら、戻れなくなる」

「弾けば弾くほど、もっと先へ行きたくなる」

「そうして……」


そこで、乃理子の声が途切れる。


長い沈黙のあと……乃理子が、自分に言い聞かせるように、小さく言った。


「お姉ちゃんも、そうだった」


瑠璃は、その言葉をすぐには理解できなかった。


お姉ちゃん。


母に姉がいたことは知っている。

写真で見たこともある。


けれど、母の口からその人のことが語られたのは、瑠璃の記憶にある限り、これが初めてだった。


乃理子の目は、瑠璃の上を通り過ぎて、どこか遠くで止まっているようだった。


母は怒っているのではない。


瑠璃には、そう見えた。

けれど、それが分かっても、痛みは消えなかった。


母が過去の誰かを見ている間、目の前にいる「自分」は、まるで透明になってしまったかのようだった。



瑠璃は、震える声で謝った。


「ごめんなさい」

声は小さい。


けれど、そこで終わらせるわけにはいかなかった。


「でも、弾きたかったの」


乃理子は強く首を振る。

「あなたは分かってないのよ」


瑠璃は、膝の上で握りしめた手に力を込め、震えながら言った。


「分からないよ」

握りしめた指先が、制服のスカートに食い込む。

「だって、お母さんは何も教えてくれないじゃない」


乃理子は何か言おうとする。

でも、言葉にならない。


瑠璃は続ける。

一つ口にすると、次の言葉を止められなかった。


「私、悪いことをしたかったんじゃない」

「お母さんを困らせたかったんじゃない」

そこで一度、喉が詰まった。

「隠したかったわけじゃない」


声が詰まる。

でも、もう止まれない。


「でも、言ったら、きっとだめって言われるから……だから、言えなかった」


母は瑠璃を守ろうとしているのだと、頭のどこかでは分かっている。


でも瑠璃には、ただ自分の好きなものを、頭ごなしに拒まれているようにしか見えない。


乃理子が「違う」と言おうとする。


けれど、瑠璃の方が先に、今までずっと飲み込んできた言葉をぶつけた。


「どうして、バイオリンだけそんなにだめなの?」


一度出た言葉は、もう戻せなかった。


そして、ずっと聞きたくて、ずっと聞けなかった一言が、口をついて出た。


「私がバイオリンを好きだと、お母さんは私を嫌いになるの?」


乃理子は、すぐに否定しなかった。


違う、と言うはずだった。

言わなければいけないはずだった。

瑠璃は、その言葉を待っていた。


けれど、乃理子は青ざめた顔で、唇を震わせるだけで、声が出ない。


時計の針が進む音だけが、やけに大きく聞こえた。


その沈黙が、瑠璃には答えのように見えてしまった。


言い終わったあとで、自分の頬が濡れていることに気づいた。

悲しいのか、悔しいのか、自分でも分からなかった。


瑠璃は立ち上がり、テーブルの上のバイオリンケースへ手を伸ばした。


自分の音を鳴らした楽器。

昨日、あの少年の助言で、少しだけ長く音を伸ばせた楽器。

旧練習室に戻せば、また弾けると思っていた楽器。


指先が、ケースの黒い表面に届きそうになる。


その瞬間、乃理子が反射的にケースを押さえた。

瑠璃の指は、あと少しのところで空を切った。


乃理子の顔にも、はっとした色が浮かんだ。


自分でも、そうするつもりではなかったのかもしれない。


けれど瑠璃には、最後の逃げ場所まで、完全に奪われたように見えた。


楽器も持てない。

母にも届かない。

父も止められない。


瑠璃は後ずさった。

椅子の脚が床をこすり、乾いた音を立てる。


「瑠璃! 待ちなさい!」


誠司の声が背中を追ってくる。

それでも、瑠璃は振り返らなかった。


そのまま玄関へ走る。

靴を履く余裕すらなかった。

ドアを開ける。


外には、冷たい秋の雨が降っていた。

激しい雨ではない。細く、冷たく、肌にまとわりつくような雨。


一歩踏み出した瞬間、靴下に冷たい水が染み込んだ。


傘も持っていない。

バイオリンも持っていない。


それでも、あのリビングにはもう、戻れなかった。

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