第7話 砕かれた逃げ場所
重い扉が開き、廊下の明かりを背にして、母・乃理子が立っていた。
瑠璃は、閉まりきっていないケースの前で固まった。
布はうまくかかっていない。
弓もまだ完全にはしまえておらず、その先がケースの縁からはみ出している。
乃理子は怒鳴らなかった。
すぐには何も言わず、ただそこに立ち尽くしていた。
視線だけが、瑠璃の手元から、ケースの中へ落ちる。
はみ出した弓。
ずれた布。
そして、その下にある、瑠璃の体に合う大きさのバイオリン。
それは、瑠璃の部屋にあるあの小さな子供用のバイオリンではない。
今の瑠璃が実際に弾くための、別の楽器だ。
乃理子の顔から、少しずつ血の気が引いていく。
そこにあるはずのないものを見たように、乃理子の目は大きく見開かれている
◇
乃理子の唇がわずかに開いた。
けれど、声はすぐには出ない。
喉が上下するだけで、言葉にならない。
指先が扉の縁を掴む力が強くなり、関節が白くなる。
「……それ、誰が用意したの?」
瑠璃は答えられない。
喉が詰まる。
息を吸っても、声にならない。
「瑠璃」
叱る声ではなかった。
震えていた。
瑠璃は嘘をつこうとした。
拾ったのだと言おうか、学校のものだと言おうか。
けれど、できなかった。
母のその顔の前で、ごまかしは通じない。
「……お父さんが」
乃理子の表情が変わった。
怒りより先に、裏切られたような深い絶望が浮かぶ。
乃理子の手が、扉の縁に触れる。
指先が白くなるほど力が入っているのに、乃理子自身は気づいていないようだった。
息が浅くなり、肩が小さく上下している。
母はその場でバイオリンを取り上げようとはしなかった。
ただ、静かに、けれど有無を言わせない声で言った。
「持って帰りなさい」
乃理子の視線は、まだケースから離れなかった。
「ここには、もう置かないで」
瑠璃は震える手でケースの蓋を閉め、留め具を押し込んだ。
ケースを抱えて、母の後ろを歩く。
◇
帰り道、乃理子は一度も振り返らなかった。
瑠璃も、何も言えなかった。
ホールの出口を出て、銀杏坂を下る間も、二人の間には恐ろしいほどの沈黙が続いた。
旧練習室の戸棚に戻せば、また弾けると思っていた。
いつかまた、あの不器用な少年に見てもらえる日が来るかもしれない。
けれど、もうそこには戻せない。
瑠璃のたったひとつの逃げ場所は、砕かれ始めていた。
◇
夜。
橘家のリビング。
黒いバイオリンケースが、ダイニングテーブルの真ん中に置かれている。
いつもなら夕食の皿が並んでいる時間だ。
けれど、テーブルの上には何もない。
テレビもついていない。
いつもの家のはずなのに、この黒いケースが一つあるだけで、そこは全く知らない場所のように見えた。
瑠璃は椅子に座り、膝の上で両手をきつく握りしめている。
乃理子は立ったまま、テーブルの上のケースをじっと見つめていた。
会話はない。
リビングには、時計の針が進む音だけがやけに大きく響いている。
乃理子の手が、テーブルの端をつかんでいる。
指先が白くなるほど力が入っているのに、本人はそれに気づいていないようだった。
やがて、玄関のドアが開く音がした。
父・誠司が帰宅したのだ。
「ただいま。なんだ、暗いな……」
リビングに入った誠司は、テーブルの上の黒いケースを見て、言葉を切り、足を止めた。
一瞬で、何が起きたのかを悟った顔だった。
乃理子が、青ざめた顔でゆっくりと誠司を振り返った。
「あなた、知っていたの?」
誠司はすぐには答えない。
瑠璃を見る。
それから、乃理子を見る。
逃げられないと分かって、誠司は静かに答えた。
「……知っていた」
乃理子は何も言わない。
その沈黙の間に、リビングの空気が少しずつ冷えていく。
瑠璃は、膝の上でさらに手を強く握った。
乃理子が、震える声で続ける。
「あなたが、これを瑠璃に用意したの?」
誠司は苦しそうに顔を歪め、ゆっくりと頷いた。
「瑠璃が、弾きたがっていたんだ」
乃理子の声が、かすれた。
「だからって……どうして」
誠司は少し間を置く。
言葉を選ぶように、慎重に口を開く。
「少しだけでも、触れられる場所を作っただけだ」
その言葉は、誠司にとっては瑠璃を守るための精一杯の言葉だった。
だが、その言葉を聞いた乃理子の顔が、さらに強張った。
瑠璃には、それが母を余計に傷つけたのだと分かった。
誠司はさらに続ける。
「いつまでも、なかったことにはできない」
誠司は、決して乃理子を強く責めるような言い方はしなかった。
誠司は乃理子を見た。
それから、俯く瑠璃を見た。
どちらにも手を伸ばしかけて、結局、どちらにも触れられないまま、手を下ろした。
父は、瑠璃のために、あの楽器を用意してくれた。
けれど今、その手は瑠璃にも母にも届かない。
そのことだけが、痛いほど分かった。
◇
乃理子の指が、テーブルの端をさらに強くつかんだ。
「だめなの」
「その音は、だめなの」
「乃理子」
しかし、誠司のその声は、乃理子には届いていないようだった。
乃理子は何かを言おうとして、ひゅっと息だけを吸う。
声にはならない。
唇が小さく震えている。
視線は瑠璃ではなく、テーブルの上のケースに向いている。
けれど、その目はケースを見ているようで、どこにも焦点が合っていなかった。
「好きになったら、戻れなくなる」
「弾けば弾くほど、もっと先へ行きたくなる」
「そうして……」
そこで、乃理子の声が途切れる。
長い沈黙のあと……乃理子が、自分に言い聞かせるように、小さく言った。
「お姉ちゃんも、そうだった」
瑠璃は、その言葉をすぐには理解できなかった。
お姉ちゃん。
母に姉がいたことは知っている。
写真で見たこともある。
けれど、母の口からその人のことが語られたのは、瑠璃の記憶にある限り、これが初めてだった。
乃理子の目は、瑠璃の上を通り過ぎて、どこか遠くで止まっているようだった。
母は怒っているのではない。
瑠璃には、そう見えた。
けれど、それが分かっても、痛みは消えなかった。
母が過去の誰かを見ている間、目の前にいる「自分」は、まるで透明になってしまったかのようだった。
◇
瑠璃は、震える声で謝った。
「ごめんなさい」
声は小さい。
けれど、そこで終わらせるわけにはいかなかった。
「でも、弾きたかったの」
乃理子は強く首を振る。
「あなたは分かってないのよ」
瑠璃は、膝の上で握りしめた手に力を込め、震えながら言った。
「分からないよ」
握りしめた指先が、制服のスカートに食い込む。
「だって、お母さんは何も教えてくれないじゃない」
乃理子は何か言おうとする。
でも、言葉にならない。
瑠璃は続ける。
一つ口にすると、次の言葉を止められなかった。
「私、悪いことをしたかったんじゃない」
「お母さんを困らせたかったんじゃない」
そこで一度、喉が詰まった。
「隠したかったわけじゃない」
声が詰まる。
でも、もう止まれない。
「でも、言ったら、きっとだめって言われるから……だから、言えなかった」
母は瑠璃を守ろうとしているのだと、頭のどこかでは分かっている。
でも瑠璃には、ただ自分の好きなものを、頭ごなしに拒まれているようにしか見えない。
乃理子が「違う」と言おうとする。
けれど、瑠璃の方が先に、今までずっと飲み込んできた言葉をぶつけた。
「どうして、バイオリンだけそんなにだめなの?」
一度出た言葉は、もう戻せなかった。
そして、ずっと聞きたくて、ずっと聞けなかった一言が、口をついて出た。
「私がバイオリンを好きだと、お母さんは私を嫌いになるの?」
乃理子は、すぐに否定しなかった。
違う、と言うはずだった。
言わなければいけないはずだった。
瑠璃は、その言葉を待っていた。
けれど、乃理子は青ざめた顔で、唇を震わせるだけで、声が出ない。
時計の針が進む音だけが、やけに大きく聞こえた。
その沈黙が、瑠璃には答えのように見えてしまった。
言い終わったあとで、自分の頬が濡れていることに気づいた。
悲しいのか、悔しいのか、自分でも分からなかった。
瑠璃は立ち上がり、テーブルの上のバイオリンケースへ手を伸ばした。
自分の音を鳴らした楽器。
昨日、あの少年の助言で、少しだけ長く音を伸ばせた楽器。
旧練習室に戻せば、また弾けると思っていた楽器。
指先が、ケースの黒い表面に届きそうになる。
その瞬間、乃理子が反射的にケースを押さえた。
瑠璃の指は、あと少しのところで空を切った。
乃理子の顔にも、はっとした色が浮かんだ。
自分でも、そうするつもりではなかったのかもしれない。
けれど瑠璃には、最後の逃げ場所まで、完全に奪われたように見えた。
楽器も持てない。
母にも届かない。
父も止められない。
瑠璃は後ずさった。
椅子の脚が床をこすり、乾いた音を立てる。
「瑠璃! 待ちなさい!」
誠司の声が背中を追ってくる。
それでも、瑠璃は振り返らなかった。
そのまま玄関へ走る。
靴を履く余裕すらなかった。
ドアを開ける。
外には、冷たい秋の雨が降っていた。
激しい雨ではない。細く、冷たく、肌にまとわりつくような雨。
一歩踏み出した瞬間、靴下に冷たい水が染み込んだ。
傘も持っていない。
バイオリンも持っていない。
それでも、あのリビングにはもう、戻れなかった。




