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第6話 過去から届いた音

翌日の授業中も、瑠璃の頭の隅には昨夜の母の声が残っていた。


『最近、帰りが少し遅いのね』


母は怒らなかった。

問い詰めもしなかった。


けれど、あのとき母の視線が一瞬だけ、瑠璃の左手へと落ちたように見えた。


市民音楽ホールへ行くのは危ない。


母の働く場所で、母が聞きたくないはずの音を鳴らしている。


見つかれば、もう二度とバイオリンには触れさせてもらえないかもしれない。


頭では分かっている。


それでも、昨日の音が忘れられなかった。


弓の持ち方を直しただけで、いつもならすぐに切れていたはずの音が、ほんの少しだけ長く伸びた。


弓を下ろすより先に、もう一度、と思った。


下手な自分の音を、もう一度聞いてみたいと思ってしまった。


あの感覚を、なかったことにはできない。


放課後を告げるチャイムが鳴ると、瑠璃は逃げるように教室を出た。


危ないと分かっていても、足は自然と市民音楽ホールへと向かっていた。


* * *


重い扉を押し開けて旧練習室へ入ると、今日はフリッツが先に来ていた。


彼は部屋の真ん中にあるパイプ椅子に座り、膝の上に古いバイオリンを載せていた。

足元には、見慣れないケースが開いている。


扉の音に、フリッツの手が一瞬だけ止まった。

こちらを見る。

瑠璃だと分かると、すぐに視線をバイオリンへ戻した。


瑠璃は足を止めた。


それは、彼がいつも背負っている黒い頑丈な楽器ケースではなかった。

あちこちの革が擦り切れ、色褪せた古いバイオリンケースだった。


「それ、フリッツ君の?」


思わず尋ねると、フリッツは顔を上げずに短く答えた。


「違う」


彼は手にした布で、バイオリンの表面を静かに拭いた。


「ここで何してるの?」


瑠璃が尋ねると、フリッツは少しだけ眉を寄せた。


「大ホールでは、人が多すぎる」

「え?」

「音を出して状態を見るだけだ。ここなら、誰も来ないと思った」


そう言いながら、フリッツは一瞬だけ瑠璃を見た。


誰も来ない。

その言葉が、少しだけ言い訳のように聞こえた。


「しまったままにしておくと、楽器は悪くなる」


言い訳のようにそれだけ言うと、彼は手にした布でバイオリンの表面を静かに拭き始めた。


フリッツの言葉の通り、そのバイオリンは新しくはない。

縁には小さな傷があり、ニスも少し褪せている。


でも、粗末なものには見えなかった。


丁寧に磨き込まれた木の艶。

古びたケースの内側の赤いベルベット。


長いあいだ、誰かの手で大切に扱われてきたものだけが持つ、特有の静けさがあった。


瑠璃は、なぜかその古い楽器から目を離せなくなった。


フリッツは布を畳むと、その古いバイオリンを顎に当てた。


確かめるように少しだけ構えを直して、弓を弦に乗せる。


瑠璃は、数日前に大ホールで聴いた彼の音を思い出した。


鋭くて、冷たくて、近づく者を拒むような音。

圧倒的な技術で、瑠璃に世界の違いを見せつけた音。


けれど。


今、この埃っぽい部屋で鳴った音は、全く違っていた。


音が鳴った瞬間、瑠璃は息を吸うのを忘れた。


大きな音ではない。

派手な技巧を見せつけるような弾き方でもない。

それなのに、埃っぽい旧練習室の空気が、少しだけ別のものに変わった気がした。


優しい。

けれど、明るいだけではない。

きれいなのに、どこか痛い。


初めて聴くはずなのに、なぜか懐かしい。

知らない誰かが、遠くからずっと呼び続けていたような——そんな音だった。


瑠璃は、足の先から少しずつ力が抜けていくのを感じた。

声を出そうとしても、喉の奥で止まってしまう。


あの日の大ホールでのフリッツの音は、瑠璃に「届かない世界」を見せつけた。


でもこの古い楽器が鳴らす音は、瑠璃の胸の奥へ、まっすぐ届いてくる。


フリッツが弾いているのは、静かで、古い記憶に触れるような短い旋律だった。


やがて曲が終わる。


フリッツがゆっくりと弓を下ろした。


旧練習室に、弦の余韻だけが残る。

フリッツはバイオリンを膝の上に戻し、ケースの縁に両手を置いたまま、しばらく動かなかった。

指先が、わずかにケースの革を押している。


瑠璃は、小さく息を吸い込み、ため息のように呟いた。

「……すごく、きれいな音」

その声は、自分でも驚くほど小さく震えていた。


瑠璃はすぐには顔を上げられなかった。

今の音を、ただ「きれい」という簡単な言葉で呼んでいいのか分からなかった。

きれいなのに、ひどく痛かった。


その言葉に、フリッツがはっと顔を上げた。

ケースの縁に置かれた彼の指は、しばらく動かなかった。


目の前の少女は、この古い楽器の事情を何も知らない。

誰のものだったのかも、先生がなぜこれを大切にしていたのかも。

何も知らないまま、ただ音だけを聴いて、息を止めている。


技術の高さでもない。

楽器の価値でもない。

ただ、鳴った音そのものに心を動かされている。


フリッツの頭の中で、あの古い写真の中の赤ん坊と、目の前で息を止めている瑠璃の姿が、一瞬だけ重なった。


フリッツは、それが気に入らなかった。


こんなに未熟なのに。

音の出し方さえ、まだ知らないくせに。

それなのに彼女は、何も知らないまま、この音だけをまっすぐ受け取っていた。


腹立たしいのに、目を逸らせなかった。


フリッツは短く息を吐き、視線を古いバイオリンに落とした。


「……持ち主は、もういない」


瑠璃は、慎重に尋ねた。


「フリッツ君のじゃないの?」

「違う」

「じゃあ、誰の?」


フリッツは一度、何かを言いかけた。

けれど、すぐに口を閉ざした。


ケースの縁に置かれた彼の指先が、かすかにこわばっているのを、瑠璃は見た。


「先生が、大切にしていた人のものだ」


フリッツは、それ以上は言わなかった。

瑠璃も、それ以上聞けなかった。


ただ、古いバイオリンの音の余韻だけが、まだ部屋の中に残っていた。


瑠璃は黙って古いバイオリンを見つめていた。


フリッツは、ケースの縁から指を離さなかった。


* * *


そのあと、瑠璃も戸棚から自分のバイオリンを取り出した。


昨日教わった右手の小指を意識して、もう一度『家路』を弾く。


まだ下手だ。

音程も甘いし、弓も少し揺れる。


でも、一音だけ長く続くことがある。

昨日よりは、ほんの少しだけ力が抜けているのが自分でも分かった。


瑠璃のたどたどしい音を聴いて、フリッツは短く言った。


「昨日よりは、力が抜けてる」


その言葉に、瑠璃は少しだけ嬉しくなった。


もう少し弾いていたかった。

もう少しだけ、見ていてほしかった。


けれど、フリッツはふと壁の時計を見た。


「明日は来られない」

「え?」

「本番が近い。リハーサルが長くなる」


瑠璃は少し寂しくなった。


けれど、明日も来てほしいとは言えなかった。


約束をしていたわけではない。


フリッツは古いバイオリンを丁寧にケースへ戻した。


古い布をかけ、留め具を確かめるように留める。


それから、自分の黒い楽器ケースを肩に掛け、旧練習室を出て行こうとした。


「出るとき、戸棚はちゃんと閉めろ」

そんな一言だけを残して。


重い扉が閉まり、瑠璃は一人、旧練習室に残された。


* * *


瑠璃は、自分のバイオリンをケースにしまおうとした。


さっきの古いバイオリンの音が、まだ耳に残っている。


優しいのに、どこか痛い音。

誰かが遠くから呼んでいるような音。

あの音の持ち主は、もういない。


瑠璃は、弓をそっとケースに戻した。

自分のバイオリンを布で包もうとする。


その時。


廊下から足音が聞こえた。

コツ、コツ、と。


ホールの職員が遠くを急ぎ足で通り過ぎる音ではない。


一定のゆっくりとしたリズムで、こちらへ、まっすぐ近づいてくる足音。


瑠璃の指が止まった。


昨夜のリビングでの、母の声が蘇る。


『最近、帰りが少し遅いのね』


母の職場は、この市民音楽ホールだ。

母がこの建物の中を歩いて見回りをしていても、何のおかしくもない。


瑠璃は急いでバイオリンをしまおうとした。

けれど、手が震えて布がうまくかからない。


ケースの蓋を閉めようとする。

けれど、留め具がうまく噛み合わない。

かちり、と鳴るはずの音が鳴らない。


廊下の足音は、もうすぐそこまで来ている。


コツ、コツ。


ケースの蓋は、まだ閉まりきっていない。

バイオリンも、完全には隠せていない。


足音が、旧練習室の前で止まった。


静寂。


心臓が、一度だけ大きく跳ねた。


ガチャリ、と。


冷たい金属の取っ手が、ゆっくりと下がる。


その音だけが、やけに大きく聞こえた。


重い扉が開く。


廊下の明かりを背にして、母が立っていた。


瑠璃は、息の仕方を忘れた。

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