第5話 小指の魔法
放課後の旧練習室は、いつものように埃っぽい匂いと静寂に包まれていた。
瑠璃はバイオリンを構えたまま、じっと自分の右手を見つめていた。
頭の中で、昨日廊下で言われた短い言葉が繰り返される。
『右手の小指。浮いてる。だから、弓が暴れる』
瑠璃はバイオリンを下ろし、弓だけを手に持った。
何もない空気の中で、右手の形を作ってみる。
小指を丸くして弓の根元近くに置こうとすると、親指にぎゅっと力が入る。
親指を緩めると小指が突っ張り、形を保とうとすればするほど手首から肩までこわばっていく。
たった一本の小指なのに、右手全部が分からなくなる。
瑠璃はため息をつき、もう一度肩の力を抜いて弓を持ち直した。
バイオリンを肩に乗せ、顎を当てる。
深呼吸をして、冷たい弦の上に弓を置いた。
右手の小指が浮かないように、そっと丸みを保つ。
『家路』の最初の音。
弓を引いた瞬間、やはり音はかすれた。
けれど。
すーっ、と。
かすれて消えるはずの音が、すぐには切れなかった。
ほんの一秒にも満たない時間だったかもしれない。
それでも瑠璃には、その一音がいつもよりずっと長く聞こえた。
上手くなったわけではない。
きれいに弾けたわけでもない。
でも、昨日まで届かなかった場所に、少しだけ指が触れた気がした。
* * *
大ホールでのリハーサルを終え、フリッツは楽器ケースを肩に掛けていた。
滞在先の館長宅へ戻るはずだった。
それなのに、気がつけば彼の足は、ホールの奥にある旧練習室へ続く廊下に向かっていた。
確かめるだけだ。
フリッツは内心で自分に言い訳をした。
昨日のすれ違いざまの助言。
あんなぶっきらぼうな一言で、あの素人の少女が自分の欠点を理解できたかどうか、確認するだけだ。
分厚い扉の前まで来ると、中から『家路』の旋律が漏れ聞こえてきた。
相変わらず音程は甘い。
弓も乱れ、音は細く揺れている。
けれど、一音だけ、昨日より長く伸びた。
フリッツは扉の少し手前で立ち止まり、目を閉じた。
写真の裏に書かれた「ルリ」という文字。
先生が何度も口にしていたその名前は、フリッツにとって、ただ一方的に聞かされていただけの遠いものだった。
けれど今、扉の向こうで鳴っている不格好な音は、なぜか耳に残る。
右手のブレは、昨日より少しだけましになっている。
小指を意識しようとしているのが音で分かった。
けれど、弓を返す直前の息継ぎがうまくいっていない。
左手の指も、次の音へ移るのがわずかに遅い。
次で崩れる。
フリッツがそう予測した瞬間、扉の向こうで弓が弦に引っかかり、細い音がざらついた。
かろうじてつながっていた旋律が、そこでほどけかける。
このまま聴いていれば、また同じところで崩れる。
右手の力を抜かない限り、彼女の音はこれ以上前には進まない。
フリッツは小さく息を吐き出すと、迷うことなく扉に近づき、軽くノックした。
* * *
突然のノックの音に、瑠璃は弾かれたように弓を止めた。
重い扉が開き、フリッツが入ってくる。
「入るぞ」
「……もう入ってるじゃない」
相変わらずの無愛想な態度に、瑠璃は少しむっとした。
けれどフリッツはそんな瑠璃の感情など気にも留めず、まっすぐに歩み寄り、瑠璃の右手を見下ろした。
「小指だけ直しても、親指が固い」
「親指?」
「握るな。支えろ」
「……どう違うの?」
「全然違う」
フリッツは瑠璃の手に直接触れることはしなかった。
ただ、自分の右手を顔の高さまで持ち上げ、弓を持つ形を作って見せる。少しだけ体を前傾させながら、ゆっくりと動かした。
「親指の関節を少し曲げる。他の指で握り込むんじゃなくて、親指と中指で弓の重さを下から支えるんだ。小指は伸ばすな。丸くして、上から軽く乗せる」
瑠璃は、目の前のお手本を見ながら、自分の右手を動かしてみた。
言われた通りに小指を丸くすると、どうしても親指が固まってしまう。親指の力を抜こうとすると、今度は弓が指の間でぐらぐらと揺れた。
「落ちそう」
「落とすな」
「無理だよ」
「無理じゃない。握りすぎるから落ちそうになる」
フリッツは腕を軽く組んだまま、瑠璃の動きをじっと見ていた。
文句を言いながらも、彼女が必死に形を作り直そうとしているのが分かったからだ。
「もう一度」
「また?」
「できてない」
「……はい」
瑠璃は小さくため息をつき、バイオリンを構え直した。
フリッツの指導は厳しかった。
決して褒めないし、言葉も足りない。
けれど、彼の言っていることは驚くほど的確だった。
「肩の力を抜け」
「弓を弦に押し付けるな」
短い指示の通りに何度かやり直すうちに、瑠璃の右手から少しだけ余計な力が抜けた。
親指でぎゅっと握りしめるのではなく、落ちないようにそっと支える。
そのまま、弦の上に弓を滑らせた。
かすれると思った音が、すぐには切れなかった。
弓の毛が弦の上で少しだけ踏みとどまり、細い音が旧練習室の空気に伸びていく。
さっきより、ほんの少しだけ長い。
瑠璃は驚きのあまり、思わず弓を止めそうになった。
「止めるな」
「え?」
「今の音。続けろ」
フリッツの短く鋭い声に背中を押され、瑠璃は慌てて次の音へ進んだ。
音程はまだ甘い。
弓も少し揺れる。
けれど、『家路』の最初のフレーズが、たどたどしくも確かにひとつの旋律としてつながった。
最初のフレーズが終わる。
いつもなら、ここで息が切れて弓を下ろしてしまう。
けれど瑠璃は、構えを解かなかった。
もう一度。
今度は、さっきの音をもう少しだけ長く伸ばしてみたい。
下手な自分の音が、怖かったはずなのに。
弓を下ろすより先に、もう一度、と思った。
瑠璃は小さく息を吸い直し、もう一度、弓を弦の上に置いた。
しばらく無言のまま瑠璃が弾き続けるのを聴いていたフリッツは、ふと左手首の時計を見た。
「今日はここまで」
「え、もう?」
「やりすぎると指を痛める」
冷たい声の中に、ほんの少しだけ気遣いが見えたような気がした。
しかし、フリッツはすぐにいつもの調子に戻る。
「まだ下手だ。昨日よりは、少しまし」
瑠璃にとっては、それでも十分だった。
相変わらず下手だと言われた。
それでも、「昨日よりは」と続いた。
その短い言葉が、胸の奥をじんわりと温かくした。
フリッツが背を向け、扉へ向かって歩き出す。
瑠璃は思わず、その背中に声をかけていた。
「あの……明日も、リハーサルあるの?」
フリッツは、扉に手をかけたまま一瞬だけ立ち止まった。
振り返ることはなかった。
「夕方まで」
それだけ言って、彼は旧練習室を出て行った。
明日もここに来れば、また会えるかもしれない。
明日も、少しだけ教えてもらえるかもしれない。
それは約束とは呼べないほど不器用な言葉のやり取りだった。
けれど瑠璃には、確かに明日の約束のように聞こえた。
* * *
瑠璃は、心地よい疲れを抱えて帰宅した。
左手の指先は少しじんじんと痛み、右腕もだるい。
それなのに、足取りはいつもより少し軽かった。
胸の奥では、長く伸びた『家路』の一音が、まだ小さく震えている。
「ただいま」
玄関を開け、リビングへ続くドアを開けた瞬間。
ふっと、空気が変わるのを感じた。
ダイニングテーブルの上。
そこには、市民音楽ホールの『秋の国際交流演奏会』のパンフレットが置かれていた。
真っ白な紙の上に印刷された、フリッツ・シュナイダーという名前。
その黒い文字だけが、嫌に鮮明に瑠璃の目に飛び込んできた。
台所では、母の乃理子が夕食の支度をしていた。
トントンと包丁がまな板を叩く音が、規則的に響いている。
「最近、帰りが少し遅いのね」
包丁の音が止まり、乃理子がそこで初めて振り返った。
怒っている顔ではなかった。
いつもの、少し疲れたような穏やかな母の顔だった。
だから余計に、瑠璃は返事に詰まった。
「……図書館に寄ってた」
乃理子は、少しだけ沈黙した。
その視線が、瑠璃の顔から、ほんの一瞬だけ手元へ落ちたように見えた。
「そう」
それだけだった。
問い詰められたわけでも、怒鳴られたわけでもない。
再び台所に向き直った母の背中は、いつもよりずっと遠く見えた。
けれど瑠璃には、あの短い沈黙が、ただの沈黙には思えなかった。
胸の奥では、まだ『家路』の旋律が小さく震えている。
瑠璃は、テーブルの上のパンフレットに印字されたフリッツの名前と、振り返らない母の背中を、交互に見つめることしかできなかった。




