第4話 もう一度、弦に触れる
翌日の授業は、ただ通り過ぎていくだけの時間だった。
瑠璃はノートの隅に視線を落としたまま、何度も自分の左手を裏返した。
親指の腹で、人差し指から小指までの先端を、なぞるように確かめる。
弦を押さえた赤い跡は、もうすっかり消えていた。
熱を持っていた皮膚も、元の冷たい指先に戻っている。
母に隠れて、いけないことをしていた証拠が消えたのだ。
本当なら、ほっとしていいはずだった。
けれど、瑠璃の胸の奥は少しも落ち着かなかった。
昨日、自室のベッドの横で、ほんの少しだけ持ち上げた小さなバイオリンケース。
あの瞬間に鼻の奥をかすめた、ひやりとした古い木の匂いだけが、まだ鮮明に残っている。
なのに、自分の体からは音の跡が消えていく。
バイオリンを弾いていた自分が、どこか遠い幻になってしまうようで、それが怖かった。
◇
放課後を告げるチャイムが鳴ると、瑠璃は誰よりも早く荷物をまとめた。
通学路の途中で、家へと続く坂道を通り過ぎ、市民音楽ホールへと向かう。
前を歩く生徒たちを追い越していく瑠璃の足取りは、数日前よりもずっとはっきりしていた。
誰かに見つかる恐怖よりも、あの部屋の戸棚の奥にあるものが、今もそこにあるかどうかを確かめたいという気持ちの方が勝っていた。
ホールの入り口を抜け、薄暗い廊下の奥へと進む。
突き当たりの分厚い扉。
旧練習室の前に立った瑠璃は、一瞬だけ足を止めた。
けれど、迷う前に冷たい金属の取っ手を掴み、下へと押し下げた。
かちり、と重い音がして、扉が内側へと開く。
部屋の中は、あの日と何も変わっていなかった。
壁の古い防音材、誰も使わなくなった譜面台、曇った窓から斜めに差し込む秋の光。
ここだけ時間が止まっているような静けさの中に、防音材と古い木の匂いが満ちていた。
瑠璃は迷わずに部屋の奥へ歩み寄り、古い戸棚の扉を開けた。
木の棚の奥に、あのバイオリンケースが静かに収まっている。
ケースを引き出し、床に置く。
留め具を外す手が、かすかに震えた。
蓋を開けると、数日前と同じバイオリンがそこに横たわっていた。
顎当てに顎を乗せようとしたとき、頭の奥で、あの榛色の瞳をした少年の声が一度だけ蘇った。
――逃げ場所にしているだけなら、やめた方がいい。
瑠璃の手が、ピタリと止まる。
そうだ。私は、お母さんの前で言えない息苦しさを、この部屋に逃がしに来ていただけかもしれない。
下手なままでいいと言い訳をして、ただここで音を鳴らすことに甘えていただけかもしれない。
けれど、と瑠璃は弓を握り直した。
逃げ場所だったとしても、あのとき、この楽器に触れて、音が鳴った瞬間に胸の奥が明るくなったことまで、嘘にはしたくなかった。
上手く弾けなくてもいい。
お母さんに怒られるのが怖くても、私はもう一度、この音の中に立ちたかった。
瑠璃は弓を手に取り、ゆっくりと松脂を塗った。
白い粉が、秋の光の中で小さく舞う。
それから、バイオリンを左肩に乗せ、顎を添えた。
左手の指先を、冷たい弦の上に置く。
もう痛みはない。
それが、かえって心細かった。
(やっぱり、下手だ)
(本物の音に比べたら、ただの雑音だ)
そんな声が胸の中で膨らみかける。
けれど、瑠璃は息を吸い、弓を弦に乗せた。
下手でも、不格好でもいい。
途中で怖くなって、弓を放り出して逃げ出すのだけは、もう嫌だった。
最初の音は、擦れた風のような音だった。
それでも瑠璃は手を止めず、弓を右へと引いた。
埃っぽい部屋の中に、『家路』の旋律が細く、頼りなく伸びていく。
二番目の音に移る瞬間、左手の指がわずかにずれた。
音が、思っていた場所から半歩ずれて歪む。
右手にも余計な力が入った。
弓の毛が弦に引っかかり、ざらついた音が部屋の中に残る。
息が詰まった。
弓を止めそうになる。
大ホールのステージの上で、あの少年が一人で鳴らしていた、あの鋭くて美しい音の記憶が頭をよぎったからだ。
あの本物の音に比べたら、自分の鳴らしているものは、ただの雑音に過ぎないのではないか。
やっぱり、下手だ。
やめた方がいい。
そんな声が胸の中で膨らみかける。
けれど、瑠璃は弓を引く手を止めなかった。
下手でも、不格好でもいい。
途中で怖くなって、弓を投げて逃げ出すのだけは、もう嫌だった。
かすれて消えかけた音を、もう一度、震える弓で強引につなぐ。
次の音へ。
その次の音へ。
音符を一つひとつ、手探りで手繰り寄せるように、瑠璃は旋律を進めていった。
左手の指先が、弦の硬い金属の感触を思い出す。
何度も弦を押さえるうちに、冷え切っていた瑠璃の指先に、じわじわと血が巡り、熱が戻ってくるのが分かった。
音がひっくり返っても、弓が暴れても、瑠璃は視線を譜面台の影に固定したまま、必死に腕を動かし続けた。
旧練習室の狭い空間に、瑠璃の下手な『家路』が響き続ける。
それは誰に聴かせるためでもない、ただ、瑠璃が自分のために、逃げずに鳴らし切ろうとする音だった。
※※※
大ホールのリハーサルを終えたフリッツは、楽器ケースを肩に掛け、静まり返った管理通路を歩いていた。
通路の奥から微かな音が耳に引っかかった瞬間、彼は足を止めた。
音のする方へ歩いていくと、通路の突き当たりにある旧練習室の分厚い扉の前に出た。
フリッツは扉の取っ手に手をかけようとはしなかった。
廊下の壁に静かに背を預け、腕を組んだまま、目を閉じる。
フリッツの耳には、その演奏の欠点が、恐ろしいほど正確に伝わってきた。
音程が甘い。移弦のたびに、余計な弦へ弓が触れている。
何より、右手が硬すぎるせいで、音が伸びる途中で何度も途切れていた。
音楽としては、到底聴けるレベルのものではなかった。
けれど。
フリッツは、組んだ腕の指先に、わずかに力を込めた。
数日前にこの部屋で聴いた、あの怯えたような音とは、明らかに違っていた。
あのときの音は、他人に聴かれることを恐れ、ただ自分の中の狭い場所に閉じこもるための弱々しい音だった。
だが今の音は、どんなに音程が狂っても、音がかすれても、途中で止まることなく次の音を探して進んでいる。
上手くなったわけではない。
ただ、音が逃げていない。
フリッツは薄く目を開け、閉ざされた扉を見つめたまま、腕を組んだ姿勢を崩さなかった。
今、自分がこの扉を開ければ、あの必死な音は一瞬で止まってしまうだろう。
あの日と同じように、彼女はバイオリンを抱きしめて、怯えた目でこちらを睨むに違いない。
だから、フリッツは手を伸ばさなかった。
脳裏に、ホームステイ先の客室で見た、あの古いセピア色の写真がよぎる。
赤ん坊を抱いた若い日本人女性。
その裏に書かれた、たどたどしい文字。
――先生は、この子の名前を何度も口にした。
写真の中の赤ん坊と、扉の向こうで不器用に弓を動かしている少女が、まだうまく結びつかなかった。
フリッツは小さく息を吐き出し、再び目を閉じた。
扉の向こうの『家路』は、最後のフレーズを迎えていた。
何度も震え、かすれながらも、音は途切れることなく最後の長い音を伸ばし、そして、旧練習室の静寂の中に消えていった。
フリッツは曲が終わったのを確かめると、一度も扉に触れることなく、足音を立てずに通路の奥へと歩き去った。
※※※
夜、十一時を回ったころ。
橘家のリビングは、すっかり暗くなっていた。
瑠璃は喉の渇きを覚えてベッドから起き上がり、静かに部屋のドアを開けた。
薄暗い階段を下り、一階へと向かう。
台所の入り口から、微かな明かりが廊下に漏れていた。
瑠璃がそっと覗き込むと、食卓の椅子に父の誠司が座っていた。
手元に置いた古い書類のようなものを、スタンドライトの光の中で静かに眺めている。
瑠璃の気配に気づき、誠司が顔を上げた。
「起きていたのか、瑠璃」
「うん……ちょっと、お水」
「そうか」
誠司は椅子から立ち上がると、台所の冷蔵庫から冷水の入ったピッチャーを取り出し、ガラスのコップに注いでくれた。
「ほら」と手渡されたコップを、瑠璃は両手で受け取る。
冷たい感触が手のひらに伝わった。
そのとき、誠司の視線が、瑠璃の左手に向けられた。
コップを握る瑠璃の指先。
何度も弦を強く押し付けたせいで、昼間は消えていたはずの赤い跡が、再びくっきりと浮き上がっていた。
皮膚が、微かに熱を持っているのが自分でも分かった。
瑠璃はとっさにコップを引いて、手を隠そうとした。
誠司はそれを見て、責めるような風でもなく、静かに声を落とした。
「また、行ったんだな」
瑠璃は、冷たいコップを握りしめたまま、足元を見つめた。
「……ごめんなさい」
「謝ることじゃないさ」
誠司はそう言って、少しだけ目を伏せた。
その沈黙の短さが、かえって瑠璃の胸に重く響いた。
父は怒っているのではなかった。
ただ、瑠璃がバイオリンに近づくことが、この家に何を起こすのかを知っている顔だった。
誠司の後ろの暗がりに、寝静まっている母の気配が重なるようだった。
「あれは、まだちゃんと音が出るか?」
誠司が、ぽつりと言った。
瑠璃はハッとして顔を上げた。
父の苦そうな、けれどどこか優しい目と視線が交差する。
「……うん。出るよ」
「そうか。まだ返さなくていいとは言われているが、古い楽器だからな。これからの季節は乾燥する。弾き終えたら、ちゃんとケースに戻しておけよ」
誠司はそう言うと、食卓の上の書類をゆっくりと片付け始めた。
「今日は、ここまでにしよう」
「……お母さんには?」
「今夜は、言わない」
誠司は手を止め、瑠璃の目をまっすぐに見つめた。
「だけどな、瑠璃。いつかは、ちゃんとお母さんにも話さないといけない時が来る。お前が隠れて弾き続ける限り、その時間はいつか終わるからな」
誠司はそれ以上何も言わず、瑠璃の頭をぽんと軽く叩いた。
「ほら、飲んだら早く寝なさい。夜更かしは体に響くぞ」
「……うん。おやすみなさい」
瑠璃は水を一気に飲み干し、コップを置いて階段を上った。
自分の部屋に戻り、ベッドに入っても、父の苦い笑みが頭から離れなかった。
あの古いバイオリンは、父がどこかから借りてきてくれたものだった。
だから父は、あの楽器のことを知っている。
それでも、今日まで何も言わなかった。
そのことが少しだけ嬉しくて、同じくらい、怖かった。
◇
翌日の放課後。
瑠璃は市民音楽ホールのロビーを歩いていた。
いつもの廊下へ向かおうと、受付の横を通り過ぎようとしたとき、前方から歩いてくる人影が見えた。
茶色い髪に、榛色の瞳。
フリッツ・シュナイダーだった。
彼はホールの館長らしき男性と、数人の大人たちと何事か話しながら、ロビーを横切ろうとしていた。
瑠璃はとっさに足を緩め、壁際に身を寄せた。
話しかけるつもりなんてなかった。
ただ、すれ違うのを待とうとしただけだった。
フリッツは大人たちの一歩後ろを、背筋を伸ばして歩いていた。
ただ、その横顔には、どこか近寄りがたい硬さがあった。
彼が瑠璃のすぐ横を通り過ぎようとした、その瞬間だった。
フリッツは瑠璃の方を見ようともせず、歩調すら変えないまま、すれ違いざまに極めて低い声で呟いた。
「右手の小指」
瑠璃は、弾かれたように足を止めた。
「え……?」
フリッツは立ち止まらなかった。
背中を向けたまま、冷淡とも思える短い言葉だけを廊下に落としていく。
「浮いてる。だから、弓が暴れる」
瑠璃は息を呑んだ。
心臓が、ドクンと大きく跳ねる。
「……昨日、聴いてたの?」
問いかける声は小さすぎたのか、それとも無視されたのか、フリッツは振り返ることもなく、大人たちの後を追ってロビーの奥へと去っていった。
ガラス扉の向こうへ消えていく彼の背中を、瑠璃はただ立ち尽くして見つめることしかできなかった。
ロビーを行き交う人々の足音が、遠くで響いている。
瑠璃は、自分の右手を見つめた。
何もない空気の中で、バイオリンの弓を握る形を作ってみる。
人差し指、中指、薬指。
言われた通り、自分の右手の小指だけが、行き場をなくしたように頼りなく浮き上がっていた。
薬指の横で、何にも触れずに遊んでいる。
あの日、彼は瑠璃の音をただ「下手だ」と切り捨てた。
けれど、今の言葉は違った。
瑠璃の音楽を拒絶するためのものでも、馬鹿にするためのものでもなかった。
直せば、少しは音が切れなくなる。
フリッツの残していった言葉が、冷たい秋の空気の中で、瑠璃の胸の奥に小さく、けれど確かに残り続けていた。




