第3話 写真の中の少女
あれから数日が過ぎた。
放課後の市民音楽ホールは、いつも通りに静かだった。
秋の日は短く、西側の窓から差し込む光はすでに薄暗いオレンジ色に変わり、廊下の床に細長い影を落としている。
瑠璃は、誰の気配もない奥の廊下を歩いていた。
突き当たりの分厚い扉。
今はもうほとんど使われていない旧練習室。
そっと手を伸ばし、冷たい金属の取っ手に指をかける。
この扉を開ければ、いつもの古い匂いがする。
そこは、誰にも見つからない瑠璃だけの空間だった。
部屋の奥の戸棚には、隠してあるバイオリンがある。
ケースを開けて、弦に触れる。
途中で止まったままの音を、少しだけ鳴らす。
それだけのつもりで、ここまで来た。
けれど、取っ手を握った右手に、力が入らない。
回そうとすると、頭の奥で、低い声が響いた。
――逃げ場所にしているだけなら、やめた方がいい。
大ホールの重い扉の向こう側で聴いた、あの逃げられない音。
そして、榛色の瞳をした少年が突きつけてきた、淡々とした言葉。
瑠璃は、取っ手を握ったまま俯いた。
自分は本当に、バイオリンを弾きたいだけなのだろうか。
それとも、あの少年に見透かされた通り、ただ母の前で言えないことを、この薄暗い旧練習室に逃がしていただけなのだろうか。
分からない。
あの音を聴いたあとでは、自分の『家路』が、ひどく頼りないものに思えた。
瑠璃は、ゆっくりと取っ手から手を離した。
開けられなかった。
◇
来た道を引き返し、ロビーへ向かう。
事務室の近くまで来たとき、少しだけ開いたドアの隙間から、コーヒーの匂いと一緒に職員たちの話し声が漏れてきた。
「シュナイダー君、昨日のリハーサル聴いた?」
「聴いた聴いた。あの年で、あれだけ弾くんだものね。本当に驚いたわ」
「館長さんも、ずいぶん気を遣ってるみたいよ。オーストリアからのお客さまだし、何よりあの実力でしょう」
瑠璃は、廊下の壁の陰で足を止めた。
シュナイダー君。
フリッツ・シュナイダー。
彼の名前が、大人たちの口から当たり前のように、感嘆の響きを伴って語られている。
瑠璃は壁に背中を預け、自分の足元を見た。
彼は、光の当たる大ホールのステージの真ん中に立つ人だ。
ホールの大人たちが感心し、館長の家に客として招かれるような、遠い国から来た特別な演奏者。
一方の自分は、誰にも見つからないように隠れ、旧練習室の戸棚一つ開けることすらできずに立ち尽くしている。
彼と自分とでは、立っている場所が違いすぎる。
それなのに、喉の奥に引っかかった小さな棘のような疑問が、またちくりと痛んだ。
どうして、あんな遠い人が、私の名前を知っていたのだろう。
あの旧練習室で、彼は確かに言った。
「橘……瑠璃?」
まるで、前からその名前を知っていたみたいに。
その理由を、瑠璃はまだ知らない。
* * *
日が落ちかけた夕暮れ時。
館長宅の二階にあてがわれた客室は、とても静かだった。
フリッツはベッドの縁に腰を下ろし、目の前の床に置かれた古いバイオリンケースを見下ろしていた。
彼は無言のまま、ゆっくりと膝を折って床にしゃがみ込み、留め具を外した。
カチャリと乾いた音が部屋に落ちる。
蓋が開くと、中には使い込まれた古びたバイオリンと、一枚の古い写真が静かに横たわっていた。
フリッツはバイオリンには触れず、写真だけを指先でつまみ上げた。
セピア色に褪せた写真の中には、若い日本人女性が赤ん坊を抱き、隣に背の高い外国人の男が立っていた。
彼は写真を裏返し、黒いインクで書かれた『ルリ』という二文字を、親指でゆっくりとなぞった。
指先が止まる。
わずかに眉間が寄る。
先生は、この子の名前を何度も口にした。
フリッツは、そのたびに返事をしなかった。
視線を上げ、古びたバイオリンケースの中をもう一度見つめる。
脳裏に、埃っぽい旧練習室で震える弓を引いていた黒髪の少女の姿が重なる。
どうして、あんな風に弾く子なのか。指先が、写真の端をわずかに強く握った。
彼は無言のまま写真を元の場所に戻し、ケースの蓋を下ろした。
留め具を押し込む小さな音が、夕暮れの部屋に落ちた。
* * *
夜。
瑠璃は、自室のベッドの縁に座っていた。
窓の外はすっかり暗く、部屋の中には机の上のスタンドライトだけが点いている。
瑠璃の視線は、部屋の隅に向けられていた。
そこには、幼いころからずっと置かれている、小さなバイオリンケースがある。
子供用の小さな楽器。
物心ついた時からそこにあったのに、一度もまともに弾いた記憶がない。
母が「あれには触らないで」と、固い声で言い続けてきたからだ。
瑠璃はベッドから降り、床にひざまずいて、小さなケースの前に座った。
指先が留め具にかかる。
冷たい金属の感触。
力を込めようとした瞬間、母の顔が不意に浮かんだ。
血の気が引いた、あの目。
「どうして、あなたまで」と震える声。
留め具にかけていた指が、びくりと震える。
開けたら、またあの顔をさせてしまう。
怖かった。
それでも、確かめずにはいられなかった。
瑠璃は、蓋を少しだけ持ち上げた。
古い木の匂いが、ふわりと上がってくる。
中には、ずっと昔からそこにあった小さなバイオリンが、静かに眠っていた。
瑠璃は、それ以上開けられなかった。
蓋をそっと閉じ、床に座り込んだまま、自分の左手を裏返して見つめる。
数日前まで赤く残っていた弦の跡は、もうほとんど消えかけていた。
硬くなっていた皮膚が、少しずつ元の柔らかさに戻りつつある。
痛みは、もうほとんどない。
なのに、胸の奥だけが、妙にざわついていた。
開けてしまった。
ほんの少しだけ、蓋を開けてしまった。
そのことが、痛みが消えていくことよりも、確かで、重くて、怖かった。




