第2話 本物の音
翌日の授業は、ほとんど耳に入らなかった。
ノートを押さえるたび、左手の指先が紙に擦れて、小さく痛んだ。
弦を押さえた跡は、一晩たってもまだ赤く残っている。
痛むたびに、埃っぽい旧練習室の光と、途中でかすれた『家路』の音が戻ってくる。
――君は、弾きたいんだろう。
あの少年の声。そして、そのあとに重なる、母の震えた声。
――……どうして、あなたまで。
あの言葉の意味を、瑠璃はまだ聞けずにいる。
聞いたら、何かが壊れる気がした。
もう、市民音楽ホールへは行かない方がいい。
母にあんな顔をさせたくない。
今度見つかったら、バイオリンそのものを取り上げられるかもしれない。
授業中、何度もそう考えた。
それなのに、放課後のチャイムが鳴ると、瑠璃の足は校門を出て、いつもの道を曲がっていた。
家とは反対の方向へ。気がついたときには、市民音楽ホールの白い建物が、秋の夕方の光の中に見えていた。
◇
ロビーに入ってすぐの掲示板の前で、瑠璃は足を止めた。
新しいポスターが貼られている。
――秋の国際交流演奏会。
――ヴァイオリン独奏 フリッツ・シュナイダー(オーストリア)
その下には、小さな文字で、国内外の若い演奏家による交流プログラム、と書かれていた。
瑠璃は、ポスターの名前を見つめる。
フリッツ・シュナイダー。
あの、大ホールで弾いていた少年の名前だった。
茶色い髪、榛色の瞳。
瑠璃の音を「下手だ」と言ったあの少年だ。
フリッツ・シュナイダー。
瑠璃は、その名前を胸の中で繰り返した。
自分は今、ようやく彼の名前を知った。
けれど彼は昨日から、瑠璃の名前を知っていた。
そのことが、喉の奥に小さな棘のように残った。
瑠璃は掲示板から目を逸らし、旧練習室へ続く廊下へ歩き出した。
あの古い戸棚を開けて、隠してあるバイオリンを取り出す。
昨日の続きを、少しだけ弾く。
それだけのつもりだった。
けれど、大ホールの前まで来たところで、足が止まった。
重い扉の向こうから、バイオリンの音が漏れていた。
瑠璃は吸い寄せられるように、少しだけ開いた扉の隙間から覗き込んだ。
客席に人影はなかった。
広いステージの中央で、フリッツが一人、バイオリンを弾いていた。
大きな音ではない。
それなのに、逃げられない。
鋭く、冷たい音だった。
優しくない。
近づく者を拒むような音。
なのに、一度耳に入ると、そこから離れられない。
客席の暗がりも、天井の高さも、扉に触れた瑠璃の指先も、鼓動さえも、その音に持っていかれる。
息を吸おうとすると、その音まで一緒に吸い込んでしまいそうで、瑠璃は呼吸を忘れた。
曲が不意に途切れた。
舞台の上で、フリッツが弓を止めていた。
榛色の瞳が、まっすぐ扉の方を見ている。
瑠璃はハッとして後ずさりした。
けれど、その前に声が飛んでくる。
「また来たのか」
昨日と同じ、淡々とした声だった。
フリッツはバイオリンを下ろし、舞台の袖の階段を降りてくる。
歩き方は静かなのに、瑠璃には、逃げ道をふさがれていくように感じられた。
通路を歩いてきたフリッツは、扉を押し開け、瑠璃の前に立った。
近くで見ると、榛色の瞳は舞台の照明の名残を映して、少しだけ金色がかっていた。
「昨日の音。誰にも習ってないのだろう」
瑠璃は答えられなかった。
図星だったからではない。
答えたら、何を言われるか分かっていたからだ。
「指も、弓も、音も、ばらばらだった」
瑠璃は唇を噛んだ。
左手の指先が、じくりと痛む。
フリッツの視線が、その左手に落ちた。
「痛めるぞ。そんな押さえ方だと」
瑠璃は思わず左手を隠した。
フリッツは、そこで終わらせなかった。
「でも、弾きたい音だけはあった」
「だから、余計に腹が立つ」
顔を上げる。
フリッツは瑠璃を見ていた。
馬鹿にしている目ではなかった。
ただ、聴いた音のことをそのまま言っている目だった。
それが分かるから、余計に、喉の奥が詰まった。
フリッツの眉が、かすかに寄った。
瑠璃を見ているはずなのに、その目はどこか遠いものを睨んでいるようだった。
「隠れて弾くなら、勝手にすればいい」
瑠璃は息を詰めた。
「でも、逃げ場所にしているだけなら、やめた方がいい」
その言葉は、言い返す隙間もなく胸に沈んだ。
拳を握ることも、目をそらすこともできなかった。
「バイオリンは、そんなに優しくない」
フリッツは、追い打ちをかけなかった。
謝りもせず、慰めもせず、ただ瑠璃から視線を外した。
バイオリンを提げた背中が、通路の奥へ遠ざかっていく。
呼び止める言葉は、どこにもなかった。
瑠璃は動けなかった。
謝られた方が、まだましだった。
慰められた方が、言い返せた。
フリッツの足音が完全に消えても、瑠璃はそこに立ち尽くしていた。
動けない。
足が、まるで床に吸い付いたように重い。
旧練習室へ向かうはずだった足が、半歩も前に出ない。
(行こう)
戸棚を開けて、バイオリンを出して……。
頭ではそう思っているのに、体が反応しない。
指先がじんわりと痛む。
昨日の赤い跡が、まだ熱を持っている。
その痛みを思い出すたび、フリッツの鋭い音が耳の奥で蘇る。
――バイオリンは、そんなに優しくない。
あの言葉が、胸の奥に重く沈んで離れない。
優しくない。
瑠璃には、本物の音が、こんなにも冷たく、遠く、自分を突き放すもののように思えた。昨日、自分が弾いていた『家路』の音が、急に情けなく思えてくる。
音程が外れ、弓が震え、途中でかすれてしまった音。
あれを「弾きたい音だけはあった」と言われて、少しだけ救われたような気になっていた自分が、今はただ恥ずかしかった。
(でも、弾きたい……)
その気持ちは、確かにあった。
母の顔を思い浮かべながら、それでも弦に触れたくて、埃っぽい部屋で細い音を鳴らしたくて、昨日も今日もここに来てしまった。
なのに今は、その「弾きたい」という気持ちすら、本物の音の前ではあまりに軽く、脆く感じてしまう。
家に帰ることもできなかった。
玄関のドアを開けた瞬間、母の顔が浮かんでしまう。
指先を見ただけで血の気が引いた、あの怯えた目。
「どうして、あなたまで」と震える声。
もし今、家に帰って母に会ったら、きっとまた同じ顔をさせてしまう。
それが怖くて、瑠璃は動けなかった。
左手をぎゅっと握りしめる。
痛い。
でもその痛みだけが、今の自分に残っている確かなものだった。
(遊びじゃない)
そう自分に言い聞かせようとした。
けれど、フリッツの音を聴いたあとでは、その言葉がひどく空虚に響いた。
本物の音は、ただ綺麗なだけじゃなかった。拒絶するように、突き刺すように、容赦なく鳴っていた。
そんな音を、自分は出せるのだろうか。
出せたとして、それは本当に「弾きたい音」なのだろうか。
瑠璃はゆっくりと視線を落とした。
自分の左手の指先が、まだ少し赤い。
その赤い跡を見つめながら、瑠璃は初めて、はっきりと思った。
――もう、弾けないかもしれない。
その考えが頭をよぎった瞬間、胸の奥がきつく締め付けられた。
息が詰まる。
目が熱くなる。
けれど、涙は出なかった。
ただ、立ち尽くすことしかできなかった。
旧練習室の戸棚にしまってあるバイオリンが、今はとても遠く感じられた。




