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第1話 弾いてはいけない音

全14話

毎朝7時に投稿予定です

母に禁じられた音を、瑠璃は誰にも聴かれない場所で鳴らしていた。


市民音楽ホールの奥、今は使われていない旧練習室。

古い戸棚の奥で、ケースの金具が小さく鳴る。

廊下の足音がするたび、瑠璃は弓を止めた。

誰もいないと確かめてから、再び弦に触れる。


前に見つかった時、母は怒鳴らなかった。

ただ、ケースの蓋を閉める手が震えていた。

それを思い出すたび、弓を持つ手が汗ばむ。

それでも、弓を引いた。


最初の音が、埃っぽい部屋に細く伸びる。

その瞬間だけ、古い床も、曇った窓も、少しだけ色を取り戻す気がした。


弾いているのは『家路』。

音程は少し外れ、弓は震え、長く伸ばすはずの音が途中でかすれる。


下手なのは自分でも分かっている。

それでも瑠璃にとっては、この部屋でだけ鳴らせる大切な音だった。



たどたどしい旋律の途中で、背後の床が軋んだ。


誰かがいる。

瑠璃の背筋が凍った。


母だ、と思った。

弾かれたように振り返ると、そこにいたのは見知らぬ少年だった。


茶色い髪に、榛色の瞳。

日本人ではない、整った顔立ちをしているが、どこか影のある静かな目をしていた。


少年は壁に軽く寄りかかるように立ち、片方の手をポケットに入れたまま、瑠璃をじっと見ていた。


そして短く言った。


「下手だ」


旧練習室が、しんと静まり返る。

瑠璃は息を呑んだ。

少年はゆっくりと腕を組み、視線を瑠璃の顔ではなく、弓を持つ手と弦を押さえた指先に向けた。


「音程は外れてる。弓もぶれている。指が遅い」


声は淡々としていたが、どこか分析しているような響きがあった。

視線は、瑠璃の顔ではなく、弓を持つ手と、弦を押さえた指先を見ていた。


まるで、瑠璃が隠したかったものを、音だけで全部見抜かれているようだった。

耳まで一気に熱くなる。

誰にも聴かれるはずのなかった音を、勝手に聴かれた。


少年はさらに言った。


「でも、音は悪くない」


瑠璃はバイオリンを抱きしめる腕に、ぎゅっと力を込めた。


「……勝手に、聴かないで」

「聴こえた」

「そういうことじゃない」


言いたいことはたくさんあったのに、喉の奥で全部引っかかった。


「演奏は下手だと言った。だめだとは言ってない」


瑠璃は言い返そうとして、ただ喉が鳴るだけだった。

「……同じよ」

それだけ絞り出すのが、やっとだった。


「違う」

短い否定だった。

少年は腕を組んだまま、わずかに首を傾げて瑠璃を見た。

そのまっすぐな目に、瑠璃は思わず言葉を詰まらせた。


「……知らないくせに」

「何を」

「私のこと」

「全部は知らない」

少年は、少しだけ言葉を探すように黙った。

指先で自分の腕を軽く叩きながら、

「でも、音は聴いた」


その返事に、瑠璃が口を開きかけた時、廊下の向こうから声がした。

「橘さん? まだ使ってる?」

ホールの事務室の人の声だった。

瑠璃はびくりと肩を揺らす。


その横で、少年が小さく呟いた。

「橘……瑠璃?」

声が、一瞬だけ途切れた。榛色の瞳が瑠璃を見据えた。

ほんの一瞬、少年の眉がわずかに寄る。

ポケットに入れていた手が、ゆっくりと抜かれる。


「……どうして、下の名前まで知ってるの」少年はすぐに視線を戻し、表情を消した。

腕を再び組んで壁に寄りかかりながら、淡々と答えた。

「聞いたことがある名前だった」

それ以上は何も言わない。


瑠璃はますます混乱した。

この少年は、誰なのだろう。

どうして、自分の名前を知っているのだろう。


けれど、聞き返す勇気は出なかった。

これ以上ここにいたら、もっと知られたくないものまで見透かされる気がした。


瑠璃が震える手でバイオリンをケースに戻し、蓋を閉めようとしたとき、少年の視線が瑠璃の左手に止まった。


弦を何度も押さえたせいで、赤く跡がついた指先。

少年は腕を組んだまま、静かに言った。

「君は、弾きたいんだろう?」

声は低く、問いかけるというより、ただ事実を述べているような響きだった。


瑠璃は息を止めた。

母は「弾いてはいけない」と言う。

誰も、瑠璃の本当の気持ちを言葉にしてくれたことはなかった。


それなのに、この初対面の少年が、一番隠していた本音をまっすぐに突いてきたのだ。


何も言い返せず、瑠璃は旧練習室を飛び出した。少年は壁に寄りかかったまま、彼女が駆け出す背中を見送った。

腕を組んだ姿勢を崩すことなく、ただ静かにその場に立っていた。



家に帰ると、味噌汁の匂いがした。

台所で、母が鍋をかき混ぜている。


いつもの家だった。

瑠璃が嫌いになれない、あたたかい家だった。


「おかえり」

母の声も、いつもと同じだった。

だから余計に、胸が苦しくなる。


「今日は、どこへ行っていたの?」

「……図書館」

少しだけ遅れて答えた。

母は「そう」と言って、それ以上は聞かなかった。


そのまま終わるはずだった。


けれど、母がふと振り返った。

その視線が、瑠璃の左手で止まる。


弦を押さえた指先は、まだ赤かった。

何度も同じ場所を押さえたせいで、皮膚が少しだけ熱を持っている。


母の顔から、すっと色が消えた。


「瑠璃」


ただ名前を呼ばれただけなのに、瑠璃の胸が縮んだ。


怒られると思った。

けれど、違った。


母は怒っていなかった。

怯えていた。


「あれは、もう触らないでと言ったでしょう」


母の視線が、瑠璃の部屋の方へ向く。

そこには、幼いころからずっとしまわれている、小さなバイオリンがある。


瑠璃は何も言えなかった。


怒られる方が、まだよかった。

叱られるなら、謝ることもできた。


けれど母は、まるで瑠璃の指先に、取り返しのつかないものを見つけてしまったような顔をしていた。


母は瑠璃の指先を見つめたまま、ほとんど声にならない声で言った。


「……どうして、あなたまで」


瑠璃には、その意味が分からなかった。


母は瑠璃を見ているはずなのに、瑠璃ではない誰かを見ている目をしていた。



部屋に戻っても、左手の指先にはまだ弦の痛みが残っていた。


――君は、弾きたいんだろう。


あの少年の声が、消えない。


弾きたい。


母が、あんな顔をすると分かっていても。

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