第1話 弾いてはいけない音
全14話
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母に禁じられた音を、瑠璃は誰にも聴かれない場所で鳴らしていた。
市民音楽ホールの奥、今は使われていない旧練習室。
古い戸棚の奥で、ケースの金具が小さく鳴る。
廊下の足音がするたび、瑠璃は弓を止めた。
誰もいないと確かめてから、再び弦に触れる。
前に見つかった時、母は怒鳴らなかった。
ただ、ケースの蓋を閉める手が震えていた。
それを思い出すたび、弓を持つ手が汗ばむ。
それでも、弓を引いた。
最初の音が、埃っぽい部屋に細く伸びる。
その瞬間だけ、古い床も、曇った窓も、少しだけ色を取り戻す気がした。
弾いているのは『家路』。
音程は少し外れ、弓は震え、長く伸ばすはずの音が途中でかすれる。
下手なのは自分でも分かっている。
それでも瑠璃にとっては、この部屋でだけ鳴らせる大切な音だった。
◇
たどたどしい旋律の途中で、背後の床が軋んだ。
誰かがいる。
瑠璃の背筋が凍った。
母だ、と思った。
弾かれたように振り返ると、そこにいたのは見知らぬ少年だった。
茶色い髪に、榛色の瞳。
日本人ではない、整った顔立ちをしているが、どこか影のある静かな目をしていた。
少年は壁に軽く寄りかかるように立ち、片方の手をポケットに入れたまま、瑠璃をじっと見ていた。
そして短く言った。
「下手だ」
旧練習室が、しんと静まり返る。
瑠璃は息を呑んだ。
少年はゆっくりと腕を組み、視線を瑠璃の顔ではなく、弓を持つ手と弦を押さえた指先に向けた。
「音程は外れてる。弓もぶれている。指が遅い」
声は淡々としていたが、どこか分析しているような響きがあった。
視線は、瑠璃の顔ではなく、弓を持つ手と、弦を押さえた指先を見ていた。
まるで、瑠璃が隠したかったものを、音だけで全部見抜かれているようだった。
耳まで一気に熱くなる。
誰にも聴かれるはずのなかった音を、勝手に聴かれた。
少年はさらに言った。
「でも、音は悪くない」
瑠璃はバイオリンを抱きしめる腕に、ぎゅっと力を込めた。
「……勝手に、聴かないで」
「聴こえた」
「そういうことじゃない」
言いたいことはたくさんあったのに、喉の奥で全部引っかかった。
「演奏は下手だと言った。だめだとは言ってない」
瑠璃は言い返そうとして、ただ喉が鳴るだけだった。
「……同じよ」
それだけ絞り出すのが、やっとだった。
「違う」
短い否定だった。
少年は腕を組んだまま、わずかに首を傾げて瑠璃を見た。
そのまっすぐな目に、瑠璃は思わず言葉を詰まらせた。
「……知らないくせに」
「何を」
「私のこと」
「全部は知らない」
少年は、少しだけ言葉を探すように黙った。
指先で自分の腕を軽く叩きながら、
「でも、音は聴いた」
その返事に、瑠璃が口を開きかけた時、廊下の向こうから声がした。
「橘さん? まだ使ってる?」
ホールの事務室の人の声だった。
瑠璃はびくりと肩を揺らす。
その横で、少年が小さく呟いた。
「橘……瑠璃?」
声が、一瞬だけ途切れた。榛色の瞳が瑠璃を見据えた。
ほんの一瞬、少年の眉がわずかに寄る。
ポケットに入れていた手が、ゆっくりと抜かれる。
「……どうして、下の名前まで知ってるの」少年はすぐに視線を戻し、表情を消した。
腕を再び組んで壁に寄りかかりながら、淡々と答えた。
「聞いたことがある名前だった」
それ以上は何も言わない。
瑠璃はますます混乱した。
この少年は、誰なのだろう。
どうして、自分の名前を知っているのだろう。
けれど、聞き返す勇気は出なかった。
これ以上ここにいたら、もっと知られたくないものまで見透かされる気がした。
瑠璃が震える手でバイオリンをケースに戻し、蓋を閉めようとしたとき、少年の視線が瑠璃の左手に止まった。
弦を何度も押さえたせいで、赤く跡がついた指先。
少年は腕を組んだまま、静かに言った。
「君は、弾きたいんだろう?」
声は低く、問いかけるというより、ただ事実を述べているような響きだった。
瑠璃は息を止めた。
母は「弾いてはいけない」と言う。
誰も、瑠璃の本当の気持ちを言葉にしてくれたことはなかった。
それなのに、この初対面の少年が、一番隠していた本音をまっすぐに突いてきたのだ。
何も言い返せず、瑠璃は旧練習室を飛び出した。少年は壁に寄りかかったまま、彼女が駆け出す背中を見送った。
腕を組んだ姿勢を崩すことなく、ただ静かにその場に立っていた。
◇
家に帰ると、味噌汁の匂いがした。
台所で、母が鍋をかき混ぜている。
いつもの家だった。
瑠璃が嫌いになれない、あたたかい家だった。
「おかえり」
母の声も、いつもと同じだった。
だから余計に、胸が苦しくなる。
「今日は、どこへ行っていたの?」
「……図書館」
少しだけ遅れて答えた。
母は「そう」と言って、それ以上は聞かなかった。
そのまま終わるはずだった。
けれど、母がふと振り返った。
その視線が、瑠璃の左手で止まる。
弦を押さえた指先は、まだ赤かった。
何度も同じ場所を押さえたせいで、皮膚が少しだけ熱を持っている。
母の顔から、すっと色が消えた。
「瑠璃」
ただ名前を呼ばれただけなのに、瑠璃の胸が縮んだ。
怒られると思った。
けれど、違った。
母は怒っていなかった。
怯えていた。
「あれは、もう触らないでと言ったでしょう」
母の視線が、瑠璃の部屋の方へ向く。
そこには、幼いころからずっとしまわれている、小さなバイオリンがある。
瑠璃は何も言えなかった。
怒られる方が、まだよかった。
叱られるなら、謝ることもできた。
けれど母は、まるで瑠璃の指先に、取り返しのつかないものを見つけてしまったような顔をしていた。
母は瑠璃の指先を見つめたまま、ほとんど声にならない声で言った。
「……どうして、あなたまで」
瑠璃には、その意味が分からなかった。
母は瑠璃を見ているはずなのに、瑠璃ではない誰かを見ている目をしていた。
◇
部屋に戻っても、左手の指先にはまだ弦の痛みが残っていた。
――君は、弾きたいんだろう。
あの少年の声が、消えない。
弾きたい。
母が、あんな顔をすると分かっていても。




