第10話 四重奏への招待
インターホンの音が、家の中で小さく鳴った。
少しの間のあと、重い玄関の扉が開く。
顔を出したのは、父の誠司だった。
誠司は、雨上がりの冷たい空気の中に立つ瑠璃の姿を見ると、怒鳴ることもなく、まずほっとしたように深く息を吐いた。
「……入りなさい」
瑠璃は頷き、靴を脱いで廊下へ上がる。
リビングのドアの向こうには、母の乃理子がいるはずだった。
瑠璃の足が、リビングの入り口で止まった。
ダイニングテーブルの真ん中に置かれた、黒いバイオリンケース。
それが視界の端に入る。
一歩、後ろへ下がりそうになって、それでも瑠璃は踏みとどまった。
乃理子はテーブルのそばに立ち、入ってきた瑠璃を見た。
すぐには何も言えなかった。
二人の間に、昨夜のあの重い沈黙が再び落ちかける。
瑠璃の指先が、制服のスカートの布を小さく、けれど強く握りしめた。
声は震えていた。
それでも、母の目から逃げずに口を開く。
「お母さんに嫌われるのは、怖い」
乃理子がハッとして顔を上げる。
瑠璃は、つかえる息を飲み込みながら、ゆっくりと続けた。
「でも……バイオリンを好きじゃないふりは、もうできない」
乃理子は、何も言えなかった。
瑠璃の指先は、まだスカートの布を握りしめていた。
乃理子は、瑠璃のその目の中に、かつて音楽に魅入られていった姉・香織の面影を重ねた。
けれど同時に、昼間、薄暗い廊下でフリッツに言われた言葉が蘇る。
『どちらも、彼女が決める前に、奪ってしまうことだから』
乃理子の視線が、テーブルの上の黒いケースへ落ちた。
伸ばしかけた手が、ケースの手前で止まる。
指先が、何か目に見えないものを押し戻すように、小さく曲がった。
視線が、ケースと瑠璃の顔の間で一度だけ揺れた。
乃理子は、ケースの蓋を開けることも、瑠璃に渡すこともできなかった。
けれど、取り上げてどこかへ隠してしまうことも、もうできなかった。
乃理子は、やっとの思いで声を絞り出す。
「……今は、答えられない」
「うん」
乃理子は、痛みを堪えるような顔で続ける。
「でも、今日は……もう、怒鳴らない」
それは、決して「弾いてもいい」という許可ではなかった。
けれど、前のように瑠璃の思いを壊すことも、奪うこともしない。
それが、今の乃理子にできる精一杯の一歩だった。
瑠璃は少し迷ってから言う。
「……今日は、由香理叔母さんのところに戻る」
乃理子の口が、少し開いた。
けれど、声は出なかった。
伸ばしかけた手が、途中で止まる。
誠司が、乃理子の肩にそっと手を置き、静かに言う。
「少し、時間を置こう」
瑠璃は、テーブルの上の黒いケースを見た。
ゆっくりと近づき、取っ手に指をかける。
乃理子の視線が、そこへ落ちた。
止められる、と瑠璃は思った。
けれど乃理子は、何も言わなかった。
伸ばしかけた手も、膝の上で止まったままだった。
瑠璃は黒いケースを持ち上げる。
それは少し重かったけれど、前よりもずっと、自分のもののように感じられた。
玄関のドアノブに手をかける。
一度だけ振り返ると、乃理子はまだ、テーブルのあった場所を見つめていた。
瑠璃は外へ出る。
ドアが閉まる音が、リビングに小さく響いた。
* * *
由香理のマンションへ戻った瑠璃は、リビングの入り口で足を止めた。
部屋の隅に、瑠璃のものよりずっと大きな黒いケースが置かれていることに気づいたからだ。
瑠璃の目が少しだけ大きくなる。
ケースを見つめ、一瞬だけ息を止めた。
「叔母さん、それ……?」
キッチンから出てきた由香理は、瑠璃の視線に気づくと、少しだけ目を逸らした。
それから、観念したようにその大きなケースを見た。
「……チェロ」
瑠璃は驚いて由香理の顔を見た。
「叔母さん、弾けるの?」
由香理は軽く肩をすくめた。
「昔、少しね。今も市民楽団で、細々とだけど」
由香理はケースの金属の留め金に指を触れながら、少しだけ声を落とした。
「香織姉さんの隣で、よく聴いてたの」
瑠璃は何も言えなかった。
香織。
母の姉。
写真でしか知らない人。
由香理は少し笑って、チェロケースから手を離した。
「でも、私だって、何も平気だったわけじゃないわ」
そして、どこか遠くを見るような目で、チェロケースに視線を戻す。
「ただ、やめられなかっただけ」
由香理は、それ以上を言わなかった。
チェロケースの留め金に触れた指だけが、少しだけ動いた。
由香理はふっと表情を緩め、軽く言う。
「乃理子姉さん、怖がると頑固になるのよ」
呆れたような声だった。
けれど、その奥に責める響きはなかった。
* * *
「今度、秋の市民音楽会で弦楽四重奏をやる予定だったの」
由香理はチェロケースを軽く叩きながら言った。
瑠璃は黙って聞いている。
「第1バイオリンはシュナイダー君。チェロは私。ヴィオラは市民楽団の知り合い」
「フリッツ君も?」
瑠璃は目を丸くした。
「シュナイダー君は、交流演奏の一環で出てくれることになったのよ」
瑠璃は返事をしようとして、うまく声が出なかった。
第1バイオリン。
その言葉だけで、昨日聴いた『家路』の音が耳の奥に戻ってくる。
由香理は、そんな瑠璃の顔を見て、少しだけ楽しそうに目を細めた。
「でも、第2バイオリンの子が、都合で出られなくなったの」
由香理は少し困ったように笑った。
「だから、あと一人だけ足りないのよ」
瑠璃の背中が、少しだけ固くなった。
由香理の顔を見たまま、返事が遅れる。
「瑠璃ちゃん、やってみる?」
瑠璃は、言葉より先に小さく首を振っていた。
「無理だよ。私、まだ全然弾けない」
それだけでは足りない気がして、瑠璃は慌てて言葉を重ねる。
「正式な合奏なんてやったことないし。今まで、ずっと一人で弾いてただけだから……」
自分で言って、胸の奥が少し縮んだ。
旧練習室で、誰にも聞かれないように弾いていた音。
あれは、誰かと合わせるための音ではなかった。
由香理は、急かすでもなく、呆れるでもなく、ただ小さく頷いた。
「うん。だから、いきなり上手に弾けなんて言わないわ」
瑠璃が顔を上げる。
「第2バイオリンはね、主役みたいに目立つ場所じゃない。でも、誰よりも周りを聴かなきゃいけない」
由香理は、チェロケースに触れていた指をそっと離した。
「自分の音だけ出していればいい場所じゃないのよ」
由香理は、瑠璃の膝の上で動いている指先に目を落とした。
「瑠璃ちゃんは、音を聴こうとするでしょう」
由香理は少し笑って言った。
「シュナイダー君が言ってたわ」
瑠璃が、はっと顔を上げる。
「フリッツ君が?」
由香理は頷く。
「下手だけど、音から逃げてはいないって」
そして、少しだけ茶化すように続ける。
「あの子、褒めるの下手ね」
瑠璃の喉が、小さく動いた。
けれど、声は出ない。
耳の奥に、昨日イヤホン越しに聴いたあの丁寧な『家路』の音が戻ってくる。
由香理は、瑠璃の頬にうっすら色が差したのを見て、それ以上は何も言わなかった。
ただ、少しだけ楽しそうに笑っていた。
* * *
翌日の放課後、瑠璃は市民音楽ホールへ向かった。
由香理の言葉が、授業中もずっと耳の奥に残っていた。
四重奏。
第2バイオリン。
そして、フリッツが自分のことを推薦したという話。
どうしても、本人に聞かずにはいられなかった。
瑠璃はホールの裏手、自販機の近くでフリッツを見つけた。
あの日、温かいミルクティーの缶を渡された場所に近い。
その記憶が重なり、瑠璃は少しだけ躊躇したが、意を決して足を進めた。
「どうして、私なの?」
自販機の明かりを受けて、フリッツが少しだけ眉を動かした。
「何が」
瑠璃は言葉を探す。
「四重奏のこと。由香理叔母さんに言ったんでしょ? 私、下手なのに」
フリッツは即答した。
「そうだな」
分かってはいたけれど、瑠璃は少し肩を落とした。
けれど、フリッツは続ける。
「でも、聴いてる」
瑠璃が顔を上げる。
「……え?」
フリッツは視線を逸らさなかった。
「自分の音だけじゃなくて、周りの音を聴こうとしてる」
少し間を置く。
「君は、僕の音をちゃんと聴いてた」
瑠璃の頬が、少しだけ熱くなった。
見られていたのだと思うと、うまく息が吸えない。
視線がフリッツから逸れ、自販機の白っぽい光を見つめる。
何か言わなければと思うのに、言葉が出てこなかった。
瑠璃は不安を口にする。
「でも、私、きっとずれる」
「だろうな」
瑠璃がさらに肩を落とす。
「だから、聴け」
フリッツは淡々と続ける。
「第1は僕が弾く。君は、僕の音を聴け」
少し間を置いて、フリッツは付け足す。
「僕も、聴く」
瑠璃が顔を上げる。
「フリッツ君も?」
フリッツは少し目を逸らす。
「合奏だから」
瑠璃はまだ不安そうに聞く。
「それでも、ずれたら?」
フリッツは短く答える。
「合わせる」
瑠璃は思わず聞き返す。
「誰が?」
フリッツはすぐには答えない。
自販機の光が、フリッツの横顔を白く照らしている。
少しして、低く言う。
「……僕が」
言ってから、フリッツは少しだけ目を逸らす。
「合奏だから」
そして、照れ隠しのように、少しぶっきらぼうに続けた。
「だから、勝手に逃げるな」
瑠璃は自分の左手の指先を見た。
今までは、一人で隠れて弾いていた。
練習室の中で、誰にも聞かれないように。
母に見つからないように。
でも今度は、誰かの音を聴く。
誰かの音に合わせる。
自分の音も、誰かに聴かれる。
怖い。
けれど、少しだけ楽しみでもある。
瑠璃の首が、一度だけ小さく動く。
「……やってみる」
フリッツは大げさに喜ばなかった。
「そう」
少し間を置いて、言う。
「明日から」
「明日から!?」
フリッツは平然と言った。
「下手だから」
瑠璃は言い返そうとして、うまく言葉を見つけられなかった。
代わりに、息だけが小さくこぼれる。
けれど、その指先はもう、隠れるためではなく、誰かの音を探すように小さく動いていた。




