第11話 重なる音
譜面台の上に置かれた楽譜が、いつもより遠く見えた。
市民音楽ホールの広い練習室。
一人で旧練習室に隠れて弾いていたときとは、何もかもが違っていた。
すぐ左隣には、第1バイオリンを構えるフリッツがいる。
右隣には、市民楽団のヴィオラ奏者。
そして後ろには、チェロを抱えた由香理が座っている。
自分の音だけを出していればいい場所ではなかった。
四つの音が、ひとつの曲を作る。
そのプレッシャーに、瑠璃は弓を持つ右手にぎゅっと力を入れてしまった。
フリッツは、瑠璃の固くなった肩を横目で見ると、淡々と言った。
「譜面だけ見るな」
「遅れたら、追いかけるな」
「聴け」
由香理が、後ろから少し柔らかい声で補足する。
「迷子になったら、チェロの音も聴いて」
「下に道があるから」
瑠璃はこくりと頷いた。
けれど、緊張で冷えた指先は、まだこわばったままだった。
* * *
フリッツの合図で、演奏が始まる。
曲は『家路』の弦楽四重奏アレンジ。
フリッツの第1バイオリンが先に鳴る。
その音は正確で、真っ直ぐで、迷いがない。
瑠璃は、それに遅れないように自分の音を重ねようとした。
しかし、横からヴィオラの内声が重なり、後ろからチェロの深い音が床を伝ってくる。
その間に自分の音を置く場所が、急に分からなくなった。
自分以外の三つの音が、一度に押し寄せてくる。
瑠璃は、どの音を聴けばいいのか分からなくなった。
譜面の黒い音符が、急に遠くなる。
自分が出している音が合っているのか、遅れているのかすら分からない。
弓を動かす指先だけが、置いていかれたように震える。
半拍、ずれる。
焦って弓を返すうちに、瑠璃の音がどんどん小さくなっていく。
「違う」
フリッツの短く鋭い声で、演奏が止まった。
瑠璃はびくりと肩を強張らせ、慌てて弓を下ろす。
「ごめん」
フリッツは譜面から目を上げた。
「謝らなくていい」
「聴け」
瑠璃は頷いた。
頭では分かっている。けれど、言われた通りに周りを聴こうとすればするほど、自分の音がどこにあるのか見失ってしまうのだ。
もう一度、最初から始まる。
瑠璃はまた、ほんの少しだけ弓を返すのが遅れた。
しまった、と思った。
その瞬間。
フリッツの音が、ほんのわずかに待った。
置いていかれなかった。
けれど、それは瑠璃のミスを優しく包み込んでくれるような音ではない。
「ここだ」と、次に進むべき場所だけを、音で明確に指し示している。
瑠璃は、昨日ホールの裏で言われた言葉を思い出した。
『ずれたら、合わせる』
『……僕が』
フリッツは、本当に合わせてくれている。
でも、それは瑠璃が何もしなくていいという意味ではない。
彼が待ってくれているのだから、瑠璃も彼の音を聴き返し、自分の音を乗せなければならない。
瑠璃は、譜面から少しだけ目を離した。
由香理のチェロが、低い音でしっかりと底を支えている。
その上にヴィオラの柔らかい音があり、フリッツの音が、暗闇の中の細い道のように先へ伸びている。
瑠璃は、震える弓を弦に乗せ、そこへ自分の音をそっと置いた。
ほんの一小節だけだった。
音量も小さく、弓もまだ少し震えている。
けれど、その音は押し出されずに、他の三つの音と重なった。
消えなかった。
自分の音が、誰かの音の中にある。
フリッツは演奏を止めなかった。
由香理も何も言わない。
そのまま、曲の一区切りまで進んだ。
演奏が止まり、瑠璃は大きく息を吐いた。
肩の力が抜け、どっと疲労が押し寄せる。
一人で隠れて弾いていたときとは、全く違う疲れ方だった。
けれど、それは決して嫌な疲れではなかった。
* * *
練習後、片付けをしながら瑠璃はフリッツに声をかけた。
「フリッツ君の音って、すごく正確だね」
フリッツは楽器ケースを閉めながら、当然のように答える。
「正確でなければ、合奏にならない」
瑠璃は少し言葉に迷った。
でも、さっき合奏の最中に気になっていたことを、そのまま口にする。
「でも……少しだけ、遠い気がする」
フリッツの手が止まり、眉がわずかに動いた。
「遠い?」
瑠璃は慌てて首を振る。
「悪い意味じゃなくて」
「きれいなんだけど……誰かと一緒にいるのに、一人で遠くに立ってるみたいで」
フリッツは黙った。
そして、短く返す。
「下手な君に言われたくない」
けれど、いつものようにすぐ別の言葉は返ってこなかった。
フリッツの横顔が、いつもより少しだけ固く見えた。
彼は無言で楽譜を閉じ、瑠璃の方を見なかった。
瑠璃は彼を傷つけたかったわけではなかった。
けれど、今の言葉が、フリッツのどこか深いところに触れてしまったことだけは、黙った横顔で分かった。
* * *
その日の夜。
由香理のマンション。
瑠璃は、由香理に借りた楽譜を本棚へ戻している途中で、ふと奥に並んだ古い音楽雑誌に気づいた。
背表紙は日に焼けていて、紙の端が少し波打っている。
何気なく手に取った一冊で、瑠璃の指が止まった。
『花岡香織』
見慣れた名字。
ページを開くと、そこには写真立てで見た伯母より、少し大人びた少女が写っていた。
見出しの文字が目に飛び込んでくる。
『若きヴァイオリニスト、花岡香織』
『秋の国際コンクールへ』
紙面の中の香織は、笑っていなかった。
真っ直ぐ前を見ているのに、どこか遠くを見ているような、透明な目をしている。
瑠璃はゆっくりとページをめくった。
記事の隅に、小さな文字を見つける。
――オーストリアの名教師、ヨーゼフ・シュナイダー氏のもとで研鑽を積む予定。
シュナイダー。
瑠璃の指が、その名前の上でピタリと止まった。
* * *
瑠璃は、ふと思い出して、自分の鞄から『秋の国際交流演奏会』のパンフレットを取り出した。
それを開き、出演者紹介の欄を探す。
フリッツの名前があった。
フリッツ・シュナイダー
オーストリア出身。
故ヨーゼフ・シュナイダー氏の最後の門下生。
最後の門下生。
瑠璃はその一行から、しばらく目を離せなかった。
花岡香織。
ヨーゼフ・シュナイダー。
フリッツ・シュナイダー。
三つの名前が、紙の上で静かに並んでいる。
けれど、それが何を意味するのか、瑠璃にはまだ分からなかった。
* * *
「……それ、見つけちゃった?」
不意に声がして、瑠璃は弾かれたように顔を上げた。
お茶の入ったマグカップを手に、由香理がリビングの入り口で足を止めていた。
その表情が、一瞬だけ曇った。
瑠璃は古い雑誌とパンフレットを両手に持ったまま、由香理を見る。
「叔母さん」
「ヨーゼフ・シュナイダーって……フリッツ君と関係ある人?」
由香理はすぐには答えなかった。
瑠璃の持つ古い雑誌を見て、それから新しいパンフレットを見る。
少し間を置いて、静かに言った。
「関係は、あるわ」
瑠璃は小さく息をのんだ。
「香織さんとも?」
由香理は目を伏せた。
「香織姉さんのことは、いつか乃理子姉さんから聞いた方がいいと思う」
「シュナイダー君のことは、本人から」
由香理は、古い雑誌の表紙に視線を落とす。
「私が勝手にほどいていい話じゃないの」
瑠璃は雑誌を握る手に力を入れた。
「本人」が、フリッツを指していることは分かる。
けれど、なぜフリッツが伯母の話に繋がるのかは、まだ分からない。
* * *
瑠璃は、膝の上に古い雑誌と新しいパンフレットを並べて見た。
古い紙の中の香織。
新しい紙の中のフリッツ。
その間にある、ヨーゼフ・シュナイダーという名前。
まだ、一本の線にはならない。
けれど、どれも同じ音の方へ向かっている気がした。
窓の外で、秋の風が小さく鳴った。
瑠璃はもう一度、パンフレットの中のフリッツの名前を見つめた。
その名前が、さっき聴いた遠い音と、静かに重なった。




