第12話 秋色の四重奏
控え室の空気は、いつもより少し冷たかった。
市民音楽ホールの舞台裏。
秋の音楽会本番。
瑠璃は壁際のパイプ椅子に座り、自分のバイオリンを膝の上に抱えていた。
父が用意してくれた、今の自分の楽器だった。
今日は制服でも、いつもの私服でもない。
由香理が用意してくれた、深い紺色のワンピースを着ている。
袖口は弓を動かしても邪魔にならないよう、すっきりと整えられていた。
膝にかかる布の感触が、ここが本当に舞台の裏なのだと瑠璃に思い出させた。
弓を握る右手の指に、無意識のうちに少し力が入っている。
母が客席に来てくれているかは分からない。
見に来てほしいと思う。
でも、もし来ていたら、またあの怯えたような目で見られるのではないか。
そう思うと、それもまた怖かった。
出番を待つ瑠璃のところへ、足音が近づいてきた。
顔を上げると、フリッツが立っていた。
「緊張してるのか?」
瑠璃は、手元の弓からフリッツへ視線を移し、少しだけ迷ってから答える。
「うん。でも、逃げないよ」
フリッツは大げさに励ましたりはしなかった。
ただ、真っ直ぐに瑠璃の目を見て、短く言う。
「僕の音を聴け」
フリッツは少しだけ視線を舞台の方へ向けた。
「それから、周りの音も」
「ずれたら、合わせる」
「僕が」とは言わなかった。
けれど、その言葉は瑠璃の耳の奥に、前に彼が言った響きのまま、確かに残っていた。
瑠璃は小さく頷いた。
そして立ち上がり、四人で舞台へと向かう。
* * *
乃理子は、客席の後方に座っていた。
隣には、静かに前を見据える誠司がいる。
来るつもりはなかった。
それでも、足はここまで来てしまっていた。
やがて、ステージに四重奏のメンバーが現れる。
第1バイオリンのフリッツ。
第2バイオリンの瑠璃。
ヴィオラ奏者の男性。
チェロの由香理。
拍手の中、四人が定位置につく。
瑠璃がバイオリンを構える。
その瞬間、乃理子の息がふっと浅くなった。
秋の光。
舞台袖の白い明かり。
弦が鳴る前の、張りつめた沈黙。
記憶の奥底に封じ込めていた香織の姿が、ステージ上の瑠璃に重なりそうになる。
乃理子は、膝の上で両手をきつく握りしめた。
見なければいい。
目を逸らせばいい。
そう思うのに、視線はステージの瑠璃から動かすことができなかった。
* * *
フリッツの合図で、曲が始まる。
『家路』の弦楽四重奏アレンジ。
最初に、フリッツの第1バイオリンが鳴る。
練習室で聴いた、正確で、どこか遠い音。
けれど今日は、少し違っていた。
ただ彼だけが遠くにいるのではない。
瑠璃が入る場所を、ほんの少しだけ残しているような音。
由香理のチェロが、低く足元を支える。
ヴィオラの音が、その間を満たす。
そしてフリッツの音が、先へ進むべき道を示す。
瑠璃は、そこへ自分の音を置いた。
完璧ではない。
弓の先は少し緊張でこわばっている。
けれど、もう譜面の黒い音符だけを追ってはいない。
フリッツの音を聴く。
チェロを聴く。
ヴィオラを聴く。
そして、自分の音を、その三つの音の間に静かに置く。
旧練習室で一人、隠れて弾いていた音ではない。
誰かに見つからないように、息を潜めて小さくしていた音でもない。
今の瑠璃が、自分の足で立ち、自分で出している音だった。
* * *
乃理子は、最初、瑠璃の姿を香織と重ねそうになっていた。
バイオリンを構える細い肩。
弓を上げる指。
秋のホールに響き渡る弦の音。
胸の奥が、きゅっと縮む。
けれど、耳に届く音は違っていた。
香織の音ではない。
誰も寄せつけないほど完璧な、鋭く突き抜ける音ではない。
少し揺れている。
かすかに震えている。
それでも、逃げていない音だった。
誰かを置き去りにする音ではなかった。
遠く、手の届かない場所へ連れて行ってしまう音でもなかった。
瑠璃が、自分の足でそこに立とうとしている、まだ揺れながらも、あたたかい音だった。
乃理子は、膝の上で握っていた手にさらに力を込めた。
あの日から胸の奥に残っていた怖さが、すべて消え去ったわけではない。。
それでも、ステージから目を逸らせなかった。
香織ではない。
乃理子は、ようやくそのことに気づいた。
これは、姉の音ではない。
瑠璃の音だった。
膝の上で固く握っていた手の甲に、静かにひとつだけ、温かい涙が落ちた。
* * *
曲の途中、ほんの短い旋律がフリッツから瑠璃へ渡る。
ソロと呼ぶには小さすぎる。
けれど、瑠璃にとっては、舞台の真ん中へ一人で一歩出るような、大切な音だった。
フリッツの音が、そこまで確かな道を作る。
そして、ほんの少しだけ場所を空ける。
瑠璃は小さく息を吸う。
弓は少し震える。
音も、ほんのわずかにかすれる。
それでも、逃げない。
由香理のチェロが下にある。
ヴィオラの音が間を支えている。
フリッツの音が、すぐそばにある。
瑠璃は、自分の音で、その短い旋律を弾き切った。
決して大きな音ではない。
完璧な音でもない。
でも、それは紛れもなく、瑠璃自身の音だった。
* * *
短い旋律が終わる。
フリッツの音が戻ってくる。
今度は先へ行きすぎず、瑠璃の音の少し前を歩くように進んでいた。
置いていかない。
でも、決して甘やかしもしない。
瑠璃はその音を聴きながら、最後まで自分の音を重ねて弾く。
四つの音が溶け合い、やがて静かに消えていく。
曲が終わる。
一瞬、ホールが深い静けさに包まれる。
そのあと、温かい拍手が湧き起こった。
瑠璃はゆっくりと弓を下ろす。
指先から、張り詰めていた力が少しずつ抜けていく。
客席を見る。
スポットライトが眩しく、暗がりの中に母の姿は見つけられない。
けれど、不思議と前ほど怖くはなかった。
隣を見ると、フリッツと目が合った。
拍手の中で、フリッツの唇が短く動く。
……聴けてた。
声は拍手に紛れて聞こえなかったはずなのに、瑠璃には確かにそう聞こえた気がした。
フリッツは、ほんの少しだけ口元を緩める。
その小さな変化だけで、瑠璃は弓を握る手から、さらにふっと力が抜けていくのを感じた。
* * *
鳴り止まない拍手の中、乃理子は客席の後方に座ったままだった。
膝の上で握っていた手は、まだほどけていない。
音楽に対する怖さが、すべて消え去ったわけではない。
瑠璃がバイオリンを弾くこと。
瑠璃が、自分の意思で音楽の方へ歩いていくこと。
それを思うと、まだ胸の奥がチクリと痛む。
それでも、乃理子の目は、もうステージから逸れてはいなかった。
ステージの上にいるのは、香織ではない。
今、目の前で音を奏でている、瑠璃だった。
乃理子は拍手の中で、もう一度だけ、懸命に音を奏でた娘の姿を静かに見つめた。




