第2話 レイ
第2話 レイという名前
次に意識が浮かび上がったとき、黒瀬零はまず、自分の体が思うように動かないことに気づいた。
まぶたを開こうとしても、視界はぼやけた光の塊のようにしか見えず、手を動かそうとしても、思ったよりずっと小さな何かが、空を掴むようにゆっくりと動くだけで、力も入らなければ指先の感覚もひどく曖昧だった。
それでも、耳だけは妙にはっきりと音を拾っていて、近くで誰かが話している声が、くぐもった水の中のような感覚で聞こえてくる。
「あなた、見てください……この子、目を開けました」
「本当だ……まだ生まれたばかりなのに、ずいぶんしっかりした目をしているな」
男の声と、女の声。
どちらも優しく、どこかほっとしたような、安心したような響きを含んでいた。
その声を聞いた瞬間、零はなんとなく状況を理解してしまった。
——ああ、これ、たぶん。
転生ってやつか。
驚きは、思ったほどなかった。
死んだはずなのに意識があって、意味の分からないシステム音声を聞いて、存在属性がバグだと言われて、光に飲まれて、そして今、どう考えても赤ん坊の体に入っている。
ここまで来れば、むしろ納得するしかなかった。
ゆっくりと視界がはっきりしてきて、ぼやけていた光が、だんだんと天井の木目や、揺れるカーテンのようなものに見えてくる。
石やコンクリートではなく、木でできた天井。
白い蛍光灯ではなく、オレンジ色の柔らかい光。
病院ではない、見たことのない部屋。
そこでようやく、零は自分が本当に別の世界に来たのだと実感した。
「ねえ、名前……どうする?」
女の人の声が、すぐ近くで聞こえる。
「そうだな……この子は、なんだか不思議な目をしている。生まれたばかりなのに、まるで全部分かっているみたいな顔をしてる」
「ふふ、やっぱりあなたもそう思う? 私も、この子、普通の子じゃない気がするの」
普通の子じゃない、という言葉に、零は内心で苦笑した。
まあ、普通ではないだろう。
前世の記憶があって、転生のときにバグ扱いされた赤ん坊なんて、どう考えても普通ではない。
「レイ、というのはどうだろう」
男が静かに言った。
「レイ?」
「ああ。短くて呼びやすいし、響きも悪くない。それに――」
そこで男は少しだけ言葉を切り、どこか照れたように笑った気配がした。
「なんとなくだが、この子にはその名前が似合う気がする」
「……いい名前ね。レイ。うん、この子はレイにしましょう」
その言葉を聞いた瞬間、不思議と胸の奥が少しだけ温かくなった気がした。
黒瀬零という名前は、前の人生の名前だ。
医者として生きて、病院で倒れて、そこで終わった人生の名前。
でも、今呼ばれた「レイ」という名前は、これから始まる新しい人生の名前なのだと、そんな当たり前のことを、なぜかやけに強く感じた。
「レイ、今日からあなたの名前はレイよ」
女――おそらく母親が、優しくそう言いながら零、いやレイの頬を指でそっと撫でる。
その手は驚くほど温かく、柔らかく、そして少しだけ震えていた。
「無事に生まれてきてくれてありがとう」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥に、前世では感じたことのないような、妙な感情が広がった。
医者として、何度も「生まれてきてくれてありがとう」と言う家族を見てきた。
何度も、泣きながら子供を抱く母親を見てきた。
その光景を、ずっと外側から見ていた。
けれど今、自分がその言葉を向けられる側になっている。
それがなんだか少しだけくすぐったくて、同時に、少しだけ嬉しかった。
——まあ、悪くないな。
どうせ一度終わった命だ。
もう一度生きられるのなら、今度は少し違う生き方をしてみるのもいいかもしれない。
そんなことをぼんやりと考えていた、そのときだった。
突然、視界の端に、見覚えのある半透明のウィンドウが浮かび上がった。
それは前世でゲームをするときに何度も見たような、ステータス画面にそっくりのウィンドウだった。
そしてそこに表示されていた文字を見て、レイは思わず固まることになる。
――名前:レイ
――職業:ERROR
――レベル:-1
――HP:0 / 0
――MP:0 / 0
――状態:存在エラー
そして画面の一番下に、小さく点滅する文字が表示されていた。
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