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氷の聖女のテラリウム  作者: 風木水空
7章 白の聖女
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燻ぶる残り火

「待たれよ。貴公が、噂の”聖女の黒”というやつだな?」


呼び止められた瞬間、足が止まるより先に意識が冷えた。

今は任務中だ。私情で動く余地はない。そう切り替えて振り向く。


私がそう呼び止められたのは、休憩に入っていたリシェリアを控室に迎えに、会場をでるところだった。


大礼拝堂前の公会広場は、新年の大樹への一般参賀で行列でにぎわっていた。

人の流れは途切れることなく、祈りとざわめきが混ざり合い、冬の冷気すら押し返すような熱を帯びている。

視線を巡らせれば、民衆の期待と敬意、そしてどこか熱に浮かされたような興奮が、同じ方向――聖女へと向いているのがわかる。


リシェリアは聖女として、日に数度決まった時間に、並ぶ民衆の前に顔を出し、またその奥で行われている祝賀会場へも、集う貴族にも挨拶をする。

毎年恒例の行事であり、聖女としての最初の通過儀礼(デビュタント)のようなものだった。


赤か黒か――あの愚かな流行は、祝賀の喧噪に呑まれ、いつしか消え失せたと思っていた。

少なくとも城内では、誰もそんなものに構っている余裕はなかった。走り回る者たちの視線は常に職務へ向いていたし、噂話など差し挟む余白はなかったはずだ。


それでもなお、こうして声をかけてくる人間がいる。

消えたのではなく、表から見えなくなっていただけ――そう突きつけられたようで、胸の奥に冷たいものが落ちた。


「話を聞かせ……なんだ、女ではないか。紛らわしい恰好をしよって」


言葉の端に露骨な失望が混じる。

振り向いた私の顔と服装を往復する視線は、隠す気もなく値踏みのそれだった。


肩に置かれた手の重みと、距離の近さ。

身分も礼節も曖昧な男。見覚えがない。


……広く開かれた場だ。こういう手合いが紛れ込むこと自体は、珍しくもない。

問題は、その視線の質だ。

興味ではなく、消費するような眼差し。


内心で短く息を吐く。


「恐れ入るが、お手をお引きいただきたい。服務中につき私的な応答はできかねる。ご用件はあちらの係へ通されよ」


声量は抑えたまま、はっきりと拒絶を示す。

触れられていた手を振りほどき、間合いを切ると同時に視線を外し、会話を終わらせる意思を明確にした。


そのまま足を止めず、関係者以外立ち入り禁止の回廊へ滑り込む。

背後で何か言われた気配はあったが、振り返る価値はない。


私はこの日、公女ではなく――近衛としての軍服を纏っていた。

黒を基調とした軍装。体の線を無駄なく包む布地と、動きやすさを優先した仕立て。短く整えた黒髪。


確かに遠目には男と見紛う。

そして何より、私はリシェリアの傍にいる時間が長い。


祭祀官たちは祝賀用に明るい礼装を纏い、日常の黒とは異なる。

カイルに至っては白の礼装だ。


だから、私が『黒』と誤認されたのだ。


「……なんでまだ」

誰に向けるでもない呟きが、唇の内側で潰れる。


セランを城内に配置していなくて良かった。あいつが私と同じように『聖女の赤か?』なんて呼び止められることを想像したくない。

他にも黒髪やセランに似た赤毛の隊員はいるが、


消えたはずのものが、別の形で戻ってくる。

火を消したと思ったら、燻っていた残り火が別の場所で煙を上げているような、不快な感覚。


こちらが無視しても、勝手に膨らむ。

くだらない噂ほど、そういう性質を持つ。


……だが、ここで苛立ちを露わにする意味はない。それこそが燃料になってしまう。


任務に支障を出してはならない。

息を整え、表情を平らに戻した。

控室の前に立ち、扉を叩く。


「失礼するわ。リシェリア、そろそろまた表に出る時間よ」


扉を開けたのはカイルだった。私がいない間に合流していたらしい。


室内は外の喧噪から切り離された静けさに満ちている。

分厚い壁が音を遮り、灯された光は柔らかく、空気はどこか緩んでいた。

さっきまで人の波に押されていた感覚が、ようやくほどける。


「ああ、アスティ。今日は男装か。やっぱりドレスなんかより、そちらの方がよほど似合っている」


いつも通りの調子。

観察と評価を一言で済ませるような言い方に、わずかな揶揄が混ざる。


「カイル。アスティにそんな事言わないでください。」

リシェリアがすぐに口を挟んだ。椅子から立ち上がり、こちらへ一歩寄る。その仕草が、意識していないのに庇うように見える。

「アスティのドレス姿は素敵だからね」


――本当に、善良だ。


過剰でもなく、的外れでもなく、ただ自然に差し出される気遣い。先ほどの下卑た視線の記憶が流されていくように思えて自然に微笑んだ。


「ふふ、ありがとう。でもね、全然気にしていないわ。むしろ動きやすくて気に入ってしてるくらいだから」


軽く肩をすくめて返す。

実際、嘘ではない。装飾に縛られない服は、それだけで思考も軽くなる。


それでも――リシェリアの言葉が、わずかに胸の奥に残る。

温かく、同時に少しだけ痛む感覚。



――髪の色は変えられない。


視界の端に映った、自分の黒髪。

そして思いを馳せる。

セランの鮮やかな赤い髪。そして、リシェリアの光るような白銀。

それは衣装を変えて一時的に包んで隠しても、生まれ持った色自体が変えられることはない。


隠すのではなく、引き受けよう。

曖昧にするのではなく、披露してしまえばいい。

他の奴らと違って聖女と後見人。

親しく隣に寄り添うことに、倫理も利害も派閥もなんの不都合もないのだから。


「さ、行きましょう。リシェリア、御手をどうぞ」


言いながら、自然な動作でリシェリアの手を伸ばす。


「は?いや、アスティ。エスコートは俺の仕事だ」


役を奪われると焦りを顔に浮かべて、カイルも立ち上がった。


「じゃあ、リシェリアに選んでもらおうか」


カイルが私の横で慌てたように手を差し伸べた。

二人で並んで手をだし視線を下げた。

現状、リシェリアからの好意は、カイルより私の方が上だという自信はあった。


……カイルには悪いけど。負けないよ。


案の定、細い指先が羽を休めるように優雅に止まり、それから力を返してきた。


「よろしくお願いしますね、アスティ」


「そんな」


カイルが恨めしそうに見ているのを横目に連れて前を行く。

最近の度を越した振舞を思えば、少し痛快に思った。


歩き出す。

回廊へ戻ると、外の喧噪が再び押し寄せてきた。


敬意と好奇と、そして――まだ消えていない何か。

そんな視線が集まっている気がする。


あえて距離を詰める。そのまま、隣に並ぶ。

肩が触れるほどに近く、逃げ場を与えない位置に立った。


曖昧な噂ではなく、形として見せる。

どうか、この騒ぎがただの泡沫に終わるように。

残り火のように、静かに燃え尽き、何事もなく消え去るものでありますように――。


――聖女の黒は、私だ。


そう示すように、歩を進めた。

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