聖女の交代
「新たな聖女の降誕を迎える時が来た」
低く荘厳な声が堂内に響き、重々しく扉が開かれる。
眼前に広がったのは、白い花だけで飾られた大礼拝堂だった。回廊には無数の燭台が灯り、橙と黄金の光が揺らめき、まるで夜空の星々を閉じ込めたかのように輝いている。大樹を模した大鉢の植木が両脇に並び、その葉は祭壇の奥に透ける実際の大樹の姿と重なって、幻想的な光景をつくり出していた。
演奏隊が奏でる旋律と、聖歌隊の清らかな歌声が天井の高みに響き渡る。荘厳な気配は祈りにも似て、胸に沁みる。
この場に集った者すべての視線はただ一人――リシェリアに注がれていた。
***
降誕祭の参列者の一人は、思わず息を呑んだ。
先日の聖女お披露目では、仕事で行列を見ることができなかった。だからこそ今回はと願い、抽選を勝ち抜いてようやく礼拝堂内の席を得たのだ。
王都の中央、光に満ちた堂内。祈りの声が響く中、聖女が塔の階段を下りて現れた瞬間――空気が変わった。
ざわめきが消える。誰もが息を潜めた。
光が彼女へと集まり、衣の織り目に沿って淡く流れる。空気そのものが色を帯びたかのようだった。
「……光が、人の形をしているみたいだ」
誰かの呟きが落ちる。
銀の髪が一歩ごとに揺れ、白銀の糸のようにきらめく。長い睫毛の奥の瞳は深く澄み、遠い空を映しているようだった。頬に差す紅はかすかで、唇の微笑みは彫像のように整っている。
纏う衣はただの白ではない。角度によって金にも銀にも揺らぎ、施された緑の刺繍は若木のように息づいていた。風がわずかに通るたび、細かな光が呼応する。
絵や彫像よりもなお、現実離れした美だった。
――目が合った気がした。
胸の奥が、不意に強く引かれる。理由もなく、ただ近づきたいと思う。
――ああ、この人が、世界でいちばん好きだと、なぜか確信してしまう。
今すぐ駆け寄って、その手を取って逃げ出したい――そんな衝動が突き上げてくる。
喝采が巻き起こり、我に返った。頬が熱くなる。
人生で、同性にそんな感情を抱くとは思ってもいなかった。
目をこすり、もう一度彼女を見る。相変わらず美しい。
けれど、さっきの熱は少しだけ静まっていた。……雰囲気にのまれてしまったのかもしれない。あまりにも綺麗だったから。
隣の列で、誰かが小声で言った。
「リシェリア様は静かで、エリシアナ様は弾むような愛らしさで……対照的だね」
思わず頷く。
かつての聖女は春の風のような華やかさを持っていた。対して今、目の前にいるのは――白と緑。静かで、清らかで、芽吹きの気配そのもののようだった。
庶民の列では、手を組んで祈る者がいた。
「見ただけで心が洗われるね」
「聖女様きれい……」
子どもが母の袖を引き、目を丸くして呟く。
貴族たちもまた、整った表情のまま視線を外せずにいた。そこには技巧を超えた、抗いがたい“本物”があった。
風が一陣、ヴェールを揺らす。緑の刺繍が淡く光を返す。
それだけで、再び場の息が止まる。
――千年の祈りが、人の形をとったようだ。
そう思ったのは、きっと一人ではなかった。
***
期待、羨望、感嘆。
そのどれもが混じり合って、彼女の歩む道を照らしている。
主宰の長い祝詞が続くあいだ、まだ歩き出す合図はない。
その一瞬の静止の間、俺の腕に触れているリシェリアの手がかすかに震えを示した。
小さな鼓動が伝わってくる。
誰よりも強い心を持つ彼女ですら、この場の重さに息を呑むのだ。
俺は身を屈め、小声で囁いた。
「リシェリア。大丈夫、いつも通りで」
「は、はい」
返ってきた声はかすかに上ずっていた。普段の胆力を思えば珍しいほどの戸惑いと焦りが混じる。
豪奢な儀式服に身を包んだ彼女は、白の衣に翡翠色の装飾を纏い、大樹の巫女そのもののように神秘的だった。燭火を受けて浮かび上がる姿はあまりにも美しく、胸の奥に焼きついて離れない。
この道を寄り添って歩けることが、どれほどの幸福か。
――もしもこれが婚礼の行進だったなら。思わずそんな願いが胸を突き破りそうになる。
「じゃあ……なぜ緊張してるのか言語化して」
彼女を解きほぐしたくて、あえて日課の調子で問いかけた。
「え、えっと。飾られていて見慣れないから。あと……これだけの人がいて……注目されていること。失敗したら。私だけじゃなくて、皆さんの御用意を無為にしてしまいます。……それを想像して、不安だから」
思考を整理しはじめた彼女の言葉は次第に確かさを帯び、震えは静まっていく。
俺は頷き、落ち着いた音程で続けた。
「いつも失敗なんてしていない。――よし、じゃあ“いつも”と同じことを考えよう」
俺の声に彼女は耳を澄ます。
「目を閉じれば、飾りも人もない。ここはいつもと同じ広さの部屋だ。祭壇までの歩数も変わらない。いつも通りの担当官が、隣にいる」
「……そうですね。はい。いつもと同じ」
その言葉に合わせるように、手の震えはもう完全に収まっていた。
俺はそっとその手に自分の手を重ね、わずかに想いを込める。
その瞬間、リシェリアは安心したように微笑んだ。
ああ――俺の聖女が、今この国の聖女になる。
「祝詞が終わる。……行こう、聖女リシェリア」
歩み出す瞬間、荘厳な空気がさらに張り詰める。
この時ばかりは、国王陛下でさえ大樹に傅いている。
陛下は大樹の聖なる枝葉で編まれた花冠を抱き、最前列で頭を垂れて待っていた。
すでにエリシアナが祭壇中央に立ち、目を伏せている。青を基調とした正装に身を包み、その頭には去年与えられた乾いた枝葉の冠があった。
最前列に至ったところで、俺は役目を終える。
リシェリアの腕を離し、この場のすべての人々に対してひざまずく。
彼女は一人、祭壇の中央へと進む。
そこに待つのは、前任の聖女と国王陛下。
エリシアナが定められた言葉を口にしながら、冠を大樹の祭壇に返す。
「巡る季節、次なる萌芽のため、今一度、祝福をお還し致します。この涙が恵みの雨となり、どうか大地に沁み渡り根を癒しますよう」
続いて、国王陛下が新たな花冠を高く掲げ、堂内に響き渡る声で宣言した。
「この素晴らしき日に貴女の降誕を祝す。どうか陽光のように大樹に恵みを齎したまえ」
その言葉に応えるように、リシェリアは静かに頭を垂れ、新たな冠を受け入れた。
「謹んでこの冠を頂戴し、大樹と王国のために、聖女の務めを果たして参ります」
リシェリアの声は、澄んだ鈴のように堂内へと響いた。
その瞬間、彼女の姿に覆いかぶさっていた緊張が、静かに溶けていくのを感じた。
受領の言葉に続いて、エリシアナが一歩進み出て、柔らかな笑みと共に手を差し伸べる。
その仕草には、この重責を共に背負った者だけが知る共感と労わりが込められていた。
リシェリアはその手を受け取り、振り返って参列者へと向き直る。
「大樹と国王陛下の眼差しを受け、今この冠を戴きました。この冠と共に、大樹の恵みを世へと還し、芽吹きと癒しを絶やさぬよう務めます。どうか共にお導きください」
声ははっきりと、迷いなく。
その言葉が祭壇から堂内の隅々まで広がってゆくと、止められていた楽の音が一斉に吹き上がり、聖歌がふたたび高らかに歌い上げられる。
長く閉ざされていた扉が解き放たれたように、人々は目を開け、喝采の拍手を惜しみなく捧げた。
儀をやり終えたエリシアナは、ふっと肩の力を抜き、素の笑顔を見せてリシェリアの横に寄り添った。
耳許で何か短く囁くと、二人は並んで人々に手を振る。
王は玉座から立ち上がり、白衣をまとった王妃を近くに引き寄せる。
その姿はまるで大樹の威光そのものを誇示するかのようで、列席の者たちは頭を垂れ、あるいは感嘆の吐息を洩らした。
リシェリアも、人々の熱気に戸惑いを見せながら、控えめに手を振っていた。
けれど次の瞬間、俺の方に視線を向け、小さな得意げな笑みを浮かべる。
その姿に胸が締め付けられ、思わず俺も小さく手を振り返した。
参列席の端、アスティが安堵の表情で拍手をしているのも目に入った。
あれほど心を砕いて支えてくれた彼女にとっても、この成功は重荷を下ろす瞬間だったのだろう。
その光景を見届けながら、胸の奥に熱が満ちる。
こうして、長く張り詰めた時が解けていく。
――終わった。……無事に。
そして今、この日から始まる。聖女リシェリアの新しい時代が。




