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氷の聖女のテラリウム  作者: 風木水空
6章 赤か黒か
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潮目

帰城の馬車は、車輪の軋みと馬蹄の規則正しい響きだけが耳に残る。窓の外は暮れかけの街道で、橙の光が流れていく。


「ごゆっくりなさらなくよかったのですか?久しぶりに気兼ねなくお話しできると……。お姉様は、楽しみにされてましたのに」


隣に座るエリシアナが、遠慮がちに声をかけてきた。


胸の奥がちくりと痛む。リシェがそんなことを言っていたのか。俺の前では見せなかった期待の顔を、彼女に吐露していた。申し訳なさは募る。

それと同時に、苦笑いがこぼれた。アスティの家だって貴族の屋敷であることに変わりはない。あいつはそんな場所でも完全に気を抜けるようになっている。それがどこか愉快で、同時に羨ましくもあった。


俺にとっては、貴族の懐で気を休めるなんてとんでもない。野宿の焚火のほうがよほど安心だ。


それが違いだ。リシェはもう王都という国の中枢に座す貴人になりつつある。俺は田舎から出てきた野良犬のまま。


隣に置いておいていい存在じゃない。だから違和感が興味を引く。きっとカイルだけだったらそんなに言われなかったはずだ。


「いえ……実は、少し体調が優れず。心配かけたくなくて当番と」


そう言って、エリシアナにさえも誤魔化した。


けれど、胸の底では後悔がじくじくと疼いている。

――以前、わざとこの娘の前で。これ見よがしにリシェを抱き寄せて見せたこと。あれが全ての始まりだった。過剰に恋愛を想起させるような仕草を、見せつけるように演じた。カイルやまだ見ぬ男への対抗心……それが、くだらない噂を煽り、赤だの黒だのと愚劣な賭けにまで膨らんでしまった。


馬鹿な兵士仲間が「せっかくお前に賭けてたのに」なんてほざいたときには、拳を叩き込みそうになった。思い返せばマティアスが軽口で「赤を応援してます」なんて言っていたことも、すべて繋がってしまった。


俺がやったのは、ただの誇示だった。リシェは俺のものだと、祭祀庁の奥にまで届くように。だが結果は、リシェの一挙手一投足が見張られ、面白おかしく歪められ、衣装の色まで賭けの種にされる始末。とうとう観衆が求める色になるように服を汚されるまでになった。


もし加速していたら、怪我どころか命に関わったかもしれない。


制御できない群衆の意思に吐き気がした。


――過去の迫害を思い出す。最初はいつだって些細なことだった。それが膨らみ、炎となって焼き尽くす。今回も同じだ。違うのは、引き金を引いたのが俺自身だということ。


「セランさん…たしかに顔色が悪いわ。癒しを差し上げたいのですが症状はどのようなものですか?緩和程度はお力になれますわ」


「いえ、勿体無いです。どうかお気遣いなく」


「……承知いたしました。お姉様には内緒にしておきましょう」


エリシアナがそっと言った。その声音には、問い詰める気配はない。けれど完全に信じているわけでもないのだとわかる。踏み込まずに留める距離の取り方が、かえってこちらの言い訳を透かして見せるようだった。


エリシアナはあの後、庭に足繁く来るようになった。だから彼女も知っている。俺とリシェの関係が、甘いだけの恋ではなく、家族のように気安いものでもあることを。


そして、俺も知ってる。エリシアナもくだらない賭けを加速させるような考えなしの女じゃない。マティアスだって善人だ。ただ、その何気ない言葉や仕草が、風に乗って波を広げただけ。


それでも。

俺は、甘えずに自分を律しなければならない。庭で目を合わせられるだけで、十分幸せなのだから。


任期を終えるまで、誰にも盗られないように祈りながら忍ぶか、リシェの傍にいても不思議ではない立場になる。

――それしかない。


***


それからの日々、庭にいるセランは以前と変わらぬ顔を見せていた。冗談を言い、時に黙々と作業をし、必要があれば短い言葉で呼びかける。だが――ふとした瞬間、窓や回廊から注がれる視線を察すると、必ずセランはリシェリアの前に一歩、二歩と前へ出て立ちふさがった。彼女を隠すように、盾になるように。言葉ではなく、背中と気配で示す。


庭は、自分の目の届く場所だった。匂いも気配も拾える範囲。そこにいる限りは、守れると断じられる場所。


けれど庭を離れれば違った。城内の廊や礼拝堂、食卓や回廊――そうした場所でセランは、意図してリシェリアの目に触れぬように振る舞った。人の視線が交錯する場では、距離そのものが意味を持つ。だから彼は、あえて近づかない。すれ違っても目を合わせず、声もかけない。


そうなれば、リシェリアが微笑みかけるきっかけすら立ち消える。


周囲の目に二人で睦まじくいる姿が映らなくなれば、それがやがて落ち着きをもたらした。親しさは残りつつも、あくまで「聖女が最も親しい知己」という形に収束していった。親愛はあっても、隣で燃え盛る黒い炎の影に隠れた。


一方で、カイルは違った。

彼の態度は変わらなかった。誰の前でも、ただ一人の相手としてリシェリアへ恋をのせた視線を向ける。担当官としての節度を保ちながら、それでも彼女にしか向けない眼差しは明らかだった。リシェリア自身は以前と変わらぬ温度にとどまっていたが、対立する赤い影の気配が薄れたことで、皆の視線は一つに寄っていった。


公務でも常に傍にいて、何もかも釣り合ったように見える二人に、想像する余地は少ない。余白のない関係は、語るには不向きだった。


こうしてリシェリアを頂点にした三角の構図は、偏るかたちで消沈していった。胴元や噂好きが囃し立てるにしても、結末の見えた物語は長くは持たない。結果として、場内の熱狂は目に見えて冷めていった。以前は廊下で囁かれ、酒席で飛び交った憶測も、今ひとつ盛り上がりに欠け、やがて誰も本気で語らぬ戯れ話へと沈んでいった。

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