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氷の聖女のテラリウム  作者: 風木水空
6章 赤か黒か
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調査と紛糾、公女の足掻き

「下世話な話がここまで膨らむとはな。もはや遊びでは済まん」

グラントはそう吐き、わずかに苛立ちを滲ませて頬杖に頭を預けた。


祭祀長室は、昼なお灯りを落とした静けさの中にあった。古い机の上には、蝋燭の炎が細長く揺れ、その明かりに報告書の墨跡がちらつく。


老齢の大祭祀官の声は低く、だが一言ごとに重みをもって響く。

「木に括られていた菓子飾り自体は例年通り、孤児院の子供たちからの手作りの品ということで納品されておりました。受け取りをしたのは下級祭祀官の一人。その時に不審な色彩の飾りはなかったとのことです。黒や赤の飾りや紐。それにジャムを塗りつけたのは……城内だと思われます。黒すぐりと苔桃のジャムが二種類、城の厨房から在庫が減っているとのことです」


書面が机に置かれる音が、異様に大きく響いた気がした。大祭祀官の皺の刻まれた指は、震えてはいない。だがその目には深い疲れがにじんでいる。


「このような下らぬことが大々的に起こることは真に遺憾にございます」


続いた声に、私も小さく息を詰める。下らぬ、と言ってしまえるならどんなに良いか。聖女の白衣に塗りつけられた紅の染みが、中庭の回廊でいかに衆目を引いたことか。無邪気に笑みを浮かべて飾りを見上げていたリシェリアと対照的な種類の視線が思い出されて、気持ちが泡立つ。あの目の中に仕込んだものがいたのだろうか。


「孤児院からの納品物を撤去するのは外聞が悪いので、礼拝堂外の樹木飾りに集約しました」

アデライナが、控えめにだがはっきりと声を出す。

「他のすべての飾りなども再度検めしておりますが、似たようなものがいくつか」


アデライナの言葉に余計な飾り気はなく、ただ真実を拾って伝える。その姿勢が今はありがたい。


机を隔てて座るグラントは、長身をやや前に傾け、沈黙を貫いている。大きな影が壁に落ち、ただ呼吸の気配だけが在った。


私は口を開いた。

「聖女の御身に一切の怪我はない。ただ、染みは落ちないから儀礼服は直ちに新しく手配するように」


その光景を思い返すだけで、胃の底に重い石を抱えるような心地がする。白日のもとで、あの無垢な衣を汚されることの重さを、どれほどの者が本当に理解しているだろう。


アデライナがさらに口を開いた。

「お恥ずかしながら、使用人だけでなく。担当聖女のエリシアナも発端となるような発言がございました。……ただし、彼女自身は波風を立てて騒ぐようなことは決して」

彼女は庇うのではない。信念として断言しているのだ。その目は澄んでいて、嘘を混じらせる余地がなかった。


「使用人や下級祭祀官の中にはそういった話を好んでするものはいるようです。当家の侍女も例外ではありません」

自分の家の瑕をも正直に差し出す、その姿に、私は内心で小さく頷いた。


「下士官や兵士の内にはもっと多い。町の酒場で吹聴しているのはそちらでしょう」

私は、自らの側の過ちをも並べる。ここで責任逃れをしたとしても後にもっと深くえぐられる。


「それぞれ各自、使用人等に下らぬ風評にうつつを抜かさぬよう厳命なさい」


「ぬるい。もし仕込まれていたのが暗器だったなら命が危なかったやもしれぬ」


深いため息が落ちた。グラントだった。


「由々しき事態だ。王国千年の安寧に皆、緩みすぎている」

グラントが重々しく口を開く。

「この一件は浮ついた単なる色恋沙汰などではない。謀ごとを隠すための化粧に過ぎないのかもしれない。安全警護への懸念は、聖女の御身だけにとどまらぬ。降誕祭には内外問わず王侯貴族も多く出入りがあるのだぞ」


その声には苛立ちだけでなく、冷たい現実を突きつける鋭さがあった。十数年、周辺諸国との関係は悪くなかった。だが大樹は密かに弱り始めている。だからこそ、こんな小さな火種さえも、許される余地はなかった。


「いかなる火種も消さねばならない。外に晒しておく理由がどこにある。大切なものは閉まっておくしかないだろう」


グラントに任せれば、おそらく犯人を上げるまで、“リシェリアの為”と言って監視状態の軟禁とするだろう。彼は国のためとなれば、驚くほど慎重で保守的だ。安全の為なら、人間性に犠牲にすることは厭わない。


そこだけは、私と彼は永遠に相容れない。


私は胸の奥で、二人の若者を思った。純粋に想いを寄せるセランの真っ直ぐさも、真摯に支えようとするカイルの誠実さも――そのどちらにも、こんな醜い疑念や策謀に巻き込ませてしまったことを、心の中で詫びずにはいられなかった。


「交代式さえ終われば。……今だけよ。交代式が終わればリシェリアに正式に聖女の執務室が与えられる。そうすれば、礼拝堂や庭への移動も直通。今のように表に歩き回る機会も格段に減る。口さがない視線もや手出しのできる隙も無くせる……。それを、もう少しだけ待ってほしい」


この時期を乗り切れば、人目に触れなくなる。新しい情報さえ止まれば、この熱狂も霧散していくはずだ。


「待ってなんとする?」

グラントが端的に問い返す。

「火元を探している間に、また燃やされてはかなわんだろうが」


「それは……」


自分の口から出た言葉に、胸の奥がずしりと重くなった。待ってほしいのは何故だろう。カイルとセランに諦めてもらいたいのか。それともリシェリアから自由を奪わないために、そう願っているのか。


私が守ろうとしているのは彼女の尊厳か、それとも制度としての聖女の威信か。

――わからない。


だが退くことはできなかった。粘ってでも交代式までの安全は確保するしかない。あの白い衣を、これ以上辱めさせるわけにはいかない。


「まず。下らぬ話が沸き続けるのは、それが金を生んでるからよ。火を消す方法はひとつじゃない。火元がすぐに見つからないのなら、燃料の供給を断ちましょう」

言葉を繋ぎながら思考を固める。

「……賭けの現場や胴元を縛り上げましょう。噂が回らなくなれば、仕掛ける意味も失われる。証拠を調べて実行犯を突き止めるより、よほど早い」


数瞬、視線が行き交う。私は覚悟を問うようなグラントの圧に耐えた。


やがて視線が外された。


「士官部内にも祭祀庁内にも厳戒令をだす。それに一切の賭博や遊興行為を禁じる旨を。疑いのあるものは“暴く”ことも辞さないと書いておけ」

グラントの声は低く、揺るぎなかった。

「……後見人としてのお前の顔を立てるのは今回までだ、アストリット」


背筋に冷たいものが走る。罪人の尋問に用いられる、嘘や記憶を暴く術。精神に干渉するその方法は、禁忌の影を帯びている。


私は目を伏せ、小さく息を吐いた。

――ここまでしなければならないのか。


それでも否とは言えなかった。


「わかった。ありがとう」


その後の日々、処理に追われ続けた。「黒か赤か」という軽々しい遊興は、ただの噂や戯れでは済まされない。厳禁の通達を出し、祭祀庁でも王国軍でも、誰一人として知らぬ顔ができないようにした。


カイルは担当聖女の支援を優先するという名目で、事後処理や詳細な調査からは外した。彼が彼女を支えることは、他の誰にも代えがたい役割だから。だが同時に、関係性を歪めさせぬためでもあった。

 

――どこまでを知っているのかは、わからない。私の口からは伝えなかった。


交代式の衣装についても一悶着があった。

差し入れる色を「黒」に、と最初に提案した者がいたが、この事件の直後に、聖女の衣装を黒にするなどとんでもない。受け入れられるはずがない。黒はあまりに重く、今は穢れの象徴にさえ見えてしまう。

そして、赤なんてもっとだ。いまは血の色を思わせた鮮烈なあの記憶に、誰もが忌避感しか抱けなかった。


結局、決まったのは――リシェリアには緑。

そして、エリシアナには青。

彼女たちそれぞれの瞳の色を交換する装いでもあった。

互いを映し合うように纏う色は、まるで交わり、融け合うようで――ただの衣装の選択以上の意味を帯びた。

交代する二人が、単なる前と後ではなく、一体感をもって「聖なる系譜」として並び立つ姿。そうしてこそ、人々は確かに安心し、納得するだろうと。


私の目にも、それは柔らかくも厳かな意匠として映った。儀式の意味を裏打ちするために、こうして形を整えることはいったんの落ち着きを得たのだ。

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