黒への視察 視線の届かぬ壁の中
「今日一日…?必要か? 執務室にいるだけだ」
庭から執務室にリシェリアを送り届け、予定を告げた途端、カイルは眉を曇らせ、明確に不快を示した。
予想していた反応だった。彼はこういう時、真正面から拒絶する。
「食事で離れたり、図書室や礼拝堂に行くこともあるでしょう…当日より式前後の日程こそ、悪意の種を仕込まれるものなんだから」
なんとか言い繕い、形だけでも理由を添えて、見学を認めさせた。
「リシェリア。私は影だから。今からはエスコートももうしないわ」
そう言い、私の二の腕に甘えるように絡んでいた彼女をやさしく剥がし、カイルの方へと導く。リシェリアは不満げに唇を尖らせたが、カイルもそれを見て、少しだけ拒否の色を解いた。
「そんな…久しぶりにアスティといられるのに…」
しょげて私の背にくっつこうとする彼女。
「リシェリア。寂しいなら、アスティにするみたいに俺にくっついても構わないけど」
カイルが彼女を引き取るように、手を伸ばす。その言葉も、眼差しも、すでに甘く蕩けていた。
……危うい、と私は感じる。
カイルは少し逸脱している。いや、正直に言えば、この男はもはや境界を踏み越えてしまっているのかもしれない。
私が知っているカイルは、こんな男ではなかった。
過去、彼には婚約話がいくつかあったし、恋人の噂も耳にしたことがある。だが常に仕事を最優先にし、心を顧みないことで有名だった。相手の令嬢は結局、彼の冷淡さに愛想を尽かし去っていった。カイルもまた追わず、冷血とまで評されていたはずだ。
……それなのに、今目の前にいる彼はどうだろう。リシェリアに手を伸ばす視線は、痛いほど熱を帯びている。
「まあ、仕方ないから気にせず始めるか…リシェリア。今日はまずは地理からやろう。交代式のすぐ後から遠征だから」
カイルは努めて冷静を装った声で言い、書棚から地図と教材を取り出して机に並べる。
「はい。地域ごとに土地の性質に違いがあるのでしたね」
リシェリアが素直に答える。
「そう。草木の違いが顕著だ」
言葉を重ねるうち、カイルの口調に過去の面影が滲んだ。教官のように、淡々と、しかし的確に。
だが――気配は消えない。
机に教材を広げる傍らで、さりげなく彼女の肩に手を置く仕草。その何気なさを装う動作こそ、最も危うい。
……いや。さりげなく肩を抱くな、と心の中で強く突っ込まずにはいられなかった。
いや、まだ早い。
ここはカイルの執務室、彼の仕事領域だ。密室で、私は単なる同伴者に過ぎない。邪魔をしているのはこちらであって、彼からすれば私の存在を押しのけても平然と振る舞えるのは当然なのかもしれない。
それでも、私の目の前で臆せず強行できる胆力は凄まじい。もはや習慣として、彼にとっては日常に組み込まれているのだろうか。
次の課題は異国の人間に合わせた社交。
外国人向けの挨拶の違いを示す場面だった。
私もかつて学んだことだ、と自然に背筋が伸びる。復習のように思いながら見学していた。
「今のでわかったと思うけど、先ほどの対応だとカルナーンでは違う意味になる。だから目だけでなく相手の手もきちんと確認」
淡々とした声。厳格に指摘する口調は、講義そのものだ。思わず聴講の気分で頷きそうになる。
「はい…」
リシェリアは真剣に学ぼうとして、まっすぐな視線を返す。
「顎は下げない」
カイルの手が迷いなく彼女の顎に触れる。素手で、自然に。さらに背後に回り、肩越しに手を添えて見るべき位置を示す。気づけばまた、肩を抱いていた。
……私は横目で侍従を見た。
彼は無反応。感情の揺れを一切見せず、まるで空気のようにそこにいる。
「アストリット様。お茶のおかわりを?」
無反応ではなかった。状況を把握し、あえて介入するかのような間合いの声掛け。
「ええ…お願い」
私が応じる。
侍従はきちんと理解している。彼が猥雑な噂を吹聴するような人間ではないことは、所作からもわかる。もしこの密室のやり取りが漏れれば、出所は明らかすぎる。白だろう。
「ヘンリク。こちらにも」
「は」
洗練された所作で、すでに準備を整えていた。茶が注がれる。
「リシェリア。昨日分けてもらった甘葉…早速飲んだけどよかったよ。いいね」
茶を渡しながらカイルが声を掛ける。
「今日もこちらにお入れしております」
ヘンリクは阿吽の呼吸で抜かりなく応じる。
「それはよかったです。来季のお庭にもっと植えますね」
リシェリアの顔がふわりと綻ぶ。庭を褒められると、こんなにも嬉しそうに笑うのだ。その無邪気さに、私まで微笑んでしまう。
リシェリアはいっそありのままを受け入れている。カイルの逸脱しかけた甘ささえも、自然なことだと収めるほどに。冷静さと寛容さの、絶妙な均衡。
「まだ続くのか? そして君はここで昼も居座るのか?」
昼餐に一度戻ったリシェリアが席を外した途端、カイルは露骨に呆れ声を漏らした。退室しない私に、迷惑そうな目を向けている。
「ヘンリク。彼女に何か用意できるか。なんでもいい」
侍従に向けた声は、溜息を含んでいた。
「カイル様の御夜食用のものからなら少し……」
ヘンリクの声音には、さすがに困惑が滲んでいる。
「いや、事前に連絡してないのだからいいわ。後で食堂に行く」
私は手を振って遠慮した。
「見られながら一人で食べ難い。……ヘンリク、出してくれ」
有無を言わせぬ口調で命じる。結局、私にも食事が供されることになった。
整えられる膳を前にしても、カイルの視線は私に向けられたままだ。
「それで? 見たいものはもう見れたんじゃないか」
――帰れば? と、その言葉の先にある含意は明らかだった。
「俺がリシェリアに恋して溺れてるかどうか、また確認しに来たんだろう」
一瞬、呼吸が止まる。
図星。核心を突かれた気がして、胸が鋭く揺れた。
「そうね。溺死しそうなのはもうわかった。……演技なの?」
わざと見せつけているのか。もしそうなら、観察の意味は薄れてしまう。
「いや? なにも飾ってない。断片の調査の時と同じで、経過観察なんだろうかと。問題はありそうか?」
彼の声音は静かで、まるで理性を保っているかのようだった。
昼餐を並べる侍従ヘンリクも、淡々と頷いていた。
……けれどまだ断じられない。
本当に危ういのは、人目のある外でどう振る舞うか。
そこでしか、彼らの真の境界線は見えないのだ。




