頭痛の種
「あなたから見て、私が以前と違うように思うところがあるのなら、忌憚なく言って」
言いながら、私は背筋を正し、胸を張った。揺らぎなく正々堂々としておく必要があった。
「少なくとも、見出してから実家の別邸に住まわせて二年。当家で基礎教育はしてきたのだから」
その二年を思い返す。
あの家に異常な変質を見せるものはなかった――少なくとも、ダリオを除けば。
日々の暮らしを見守り、異能の行使を記録し、侍女や庭師に至るまで観察を怠らなかった。だからこそ、胸を張って言える。
「セランにも聞いたけど、そうそう起きているわけじゃないのよ」
危機的な状況で、体調不良で力を抑えきれなかった時。長いあいだ使わずに溜めこんでしまった時。
偶発的な要因が重なって発動することがある。
「あとは……そもそも本人に、魅入られる資質がある場合」
それはどうしようもない。人が人を惹きつける理由など、理屈で割り切れるものではないのだから。それこそただ狂気的に恋に落ちたと何が違うのか。
私は続けた。
「意識して人に使ったことはないと聞いてる。色々付き合っていくうちに、セランはそういうことが起きた時の感覚をリシェリアに確認させて、使わないようにさせたそうよ」
セランのそういう地道さは信頼できる。実際、その指導以降は、ダリオ以外に影響は現れていない。
……ただ、ダリオに関しては判じがたい。
あの時、自分たちの命の危機に無意識に発動したのか。あるいは波長が合いすぎたせいなのか。
単純に、彼がリシェリアを「好みの少女」だと感じていたからなのか。
もしくは、彼の心に野心や病が巣くっていたのか。
どれも否定しきれず、真実はもう確かめようがない。
「動物で色々試して、なんなら……私と出会う直前には、狩りで獲物を呼ぶのに使わせることは検討していたそうよ」
よく考えれば自分でもおかしくなって、かすかに笑ってしまう。
「……便利ね?」
便利と呼ぶには、あまりに危うい。だが、そうとしか言いようがなかった。
「大体そんな権能があって無差別なら、今頃この城はどうなってるのよ」
私は言葉を畳みかけるようにして吐き出した。
「ただの――どの集団でも起こりえる恋愛沙汰の一幕でしょ。王宮や、あなたのほうがよほど……」
「言うな」
グラントが眉を寄せ、低く遮った。
渋い顔。まるで苦い薬でも噛み潰したかのように。
自分の過去を突かれるのは御免なのだろう。この男が何人もの女を泣かせてきたのを私は知っている。その後始末を手伝わされたことも、一度や二度ではなかった。
ため息が漏れる。
「はあ……だったら」
唇を片手で押さえながら、苦笑を含んで言葉を継ぐ。
「ならば……信じたくはないが。やはりあれはただの恋煩いなのか……」
口に出した途端、脳裏に浮かぶのは黒衣の祭祀官――カイルの姿だった。
仕事においては寸分の乱れも許さなかった堅物が、リシェリアの前ではあからさまに態度を変えるようになってきたのは周知の事実となっていた。その落差は見ているこちらが居心地悪くなるほどで。
グラントはカイルと遠い血縁だ。縁戚の変貌に頭を抱えたくなる気分は共感できた。
……まあ、そうよね。
そう言わざるを得ない。それほどの変わりようなのだから。
怖いのは一点だ――と、グラントは低く言った。
「発動すれば最後、常人は抗えぬということだ」
その声音には、噂を単なる戯言と切り捨てられぬ重みがにじんでいた。
もしもあれが魔性と同質の力だとすれば、相手の意思などたやすく呑み込み、絡め取ってしまう。そう懸念しているのだろう。
私はふっと鼻で笑った。
「馬鹿ね」
彼の真剣な表情にあえて冷ややかに返す。
「恋なら――誰でもが抗えるっていうの?」
その一言を投げた瞬間、執務室の空気がわずかに揺れた。机に置かれた書類の端が、沈黙に耐えかねて鳴るように小さく擦れる。
抗えないもの。
それが恋であるなら、権能など持ち出すまでもない。
私の視線はまっすぐグラントを射抜いていた。
何か痛いところでも突かれたのだろうか。
グラントはわずかに目をそらした。
実務においては保守的で堅実、冷徹な判断を下すことで知られている彼が、私生活では恋多き男。浮名を流すほどの遊び人だと、城内外の誰もが囁く。
だからこそ――恋の恐ろしさを、他ならぬ本人が誰よりも知っているのかもしれなかった。
彼は軽くせき払いをし、声を整える。
「ともかく。公務に支障がないのであればとやかくは言わない。だが……城内だけでなく、市井にまで流れているというではないか。違う意味で、千年祭の聖女に相応しくない」
その懸念は理解できた。噂の広がりは早い。しかも、よりにもよって聖女の名を冠したものならば。
私は肩をすくめ、唇に笑みをのせる。
「美化されて、歌劇の主題にでもなるかもしれないわね」
「茶化すな」
グラントの目が鋭く細められる。
「すべてが終わっているなら、それも構わない。だが、救国出来ぬ時……それはただの愚かな醜聞だ」
その言葉に、私も真剣な顔で頷いた。
「わかってる。……黒いのにはあまり行き過ぎないように警告しておく。赤い方は元よりわきまえてると思うわ」
正直に言って、可哀想に思う。
彼らは決して逸脱してはいない。
あの、暴走したダリオのように理を外れたわけでもない。規律を破っているわけでもなく、風紀を乱しているわけでもない。
人目を憚らず抱き合うでもなく、公務の場で節度を欠いた振る舞いをするわけでもない。
ただ、ほんのひとときの眼差しや仕草に、心を寄せているだけ。人として、年頃として、ごく当たり前の反応にすぎない。
それでも、彼らは注目されてしまう。
聖女という存在を取り巻く目が、どれほど多く、どれほど厳しいかを知っているからこそ、私たちは過剰なほどに警戒する。
注目を集める少女に恋している――その事実だけで、無垢な想いが不必要に色づけられ、囁かれ、噂に変わってしまった。
それなのに、さらに控えろと口にしなければならないのか。ほんの少し触れ合うことさえ咎めなければならないのか。
それは――セランが望んだはずの「リシェリアに普通の生活を」との願いと、相反してはいないだろうか。
普通の娘であれば、少しくらい誰かと笑い合い、寄り添い合うことに、誰も目くじらを立てはしない。
しかし、彼女は特別だ。特別であるがゆえに、普通を望むことすら難しい。
私はそれを、誰よりもそばで知っているはずなのに。
「言って聞くような奴だったか?大祭司官ですら態度を諌めても治したことがない男だぞ。カイルは」
「ともかく。当事者に忠告はしつつ、それとなく城内の動きは注視してみる。噂の出処が掴めれば、そっちで抑えられるでしょ」
言い切った声が、執務室の重苦しい空気をわずかに切り裂いた。
「ふむ、まあ。いいだろう。殿下のお手並みを拝見させてもらおう」
グラント名前で口にした言葉と心の思いが噛み合わず、沈む石のように胸の底で重苦しく澱んでいた。




