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氷の聖女のテラリウム  作者: 風木水空
6章 赤か黒か
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戯言の浸透

私はグラントや幹部と共に、短い任務の合間を縫って兵士食堂の卓を囲んでいた。


昼餐を兼ねた打合せ。木の卓上には粗末ながら温かな湯気を立てる皿が並び、鍋の匂いと兵たちのざわめきが入り交じる。話題は次の配置や補給の確認で、硬い声色も食堂のざわめきに溶けていた。


毎年のことではあるが、聖女の交代式から新年までの長い期間、国民は聖なる休暇となるが、王政は一年で最も忙しいともいえた。そしてその準備期間は歳末の騒々しさの風物詩だった。毎年、王侯貴族の要望は常に流動的で、それに応じた調整は王国軍の業務の中でも群を抜いている。


ひと段落し、湯気の向こうで各自が匙を休めた頃だった。ふと、別の卓からくぐもった笑い声がこぼれ、耳に残る言葉が届く。


「……今日の勝者は、赤か黒か」


またか、と胸の奥で呟いた。この言葉も噂も城内のいたるところで耳にするが、物々しい幹部が囲んでいる時の兵士食堂でまで口の端からこぼれるのかと、思わず眉が動いた。


幹部の一人が気軽に言葉を挟む。

「流行っているやつですね」


それを受けて、別の者も笑みを含んで口を添える。

「総長はご存じですか。今もちきりの噂です」


「下らない話題を持ち出すんじゃない」

私は制しようと手を伸ばそうとしたが、

隣にいた別の幹部が、私の肩を抑えて軽い調子で続ける。

「まぁまぁ、副長。いいじゃないですか。聞くくらい」


さらに一人、身を乗り出すようにして水を向けた。

「総長なら、どちらに分があると思われますか」


――空気がわずかに張りつめる。

この場にいる全員が、答えを待つように箸を止め、無言でこちらに注意を向けていた。総長の意見ひとつで、掛け金が揺らぐ。誰もがそのことを分かっている。


グラントが目を細め、説明を求めるように私を訝しげに見た。

さすがに最高幹部まではこのようなくだらない話題は上がらなかったのだろう。

私が知っているのは単純にサフィアや侍女と気安いからだ。

だが周囲の兵たちが耳を尖らせている以上、無視もできない。私は軽く息を吐き、一応場に応じて敬語で口を開いた。


「巷に流れる、聖女の白が染まるのは、赤か黒かという――下世話な噂です」


自嘲を込め、肩をすくめるようにしてもろ手を挙げた。

「……私には、この愚かな噂の是非について、何もお聞きにならないでください。聖女の後見という立場ゆえ、何一つ発するなと、あらゆる兵から懇願されているのです」


わざと大げさに返した。少しでも何か言えば、誰かの懐を潤す種にされかねない。賭けの胴元が裏にいるのは明白だ。


「…実に馬鹿馬鹿しい催しだな」

はぁ、と深いため息をついて、グラントが低く吐き捨てた。カイルの姿を思い出したのかもしれなかった。思考の奥では、何らかの答えを見出しているような目をしていたが、それを声にするつもりは毛頭ないらしい。すぐに興味を失ったかのように、彼は別の話題を取り上げた。


期待を外された空気に、周囲はわずかに落胆の色をにじませる。それでも程なくざわめきは元に戻り、食堂の騒がしさがいつもの調子を取り戻していった。


その最中、彼がふと私の方にだけ言葉を落とす。

「風紀が乱れている。度がすぎるなら、黙らせる手を打つ」


真正面から目を合わせず、しかし確かに私に届くような声で。

これは――「場を改めろ」という合図だ。


私は頷き、匙を置いた。冷めぬうちに口へ運んでいた食事を、急ぎ片づけにかかった。


*******

人払いを済ませ、重々しい扉を閉じてからの執務室は、昼の日差しすら届かぬように沈んでいた。分厚い書類の束と戦図を広げた卓上に、ふたりだけが向かい合う。


「……念のため確認するが、魔性というやつか?」

低く落とされた声に、私は肩をわずかに強張らせる。問いかけの裏には、噂がただの戯言でなく、実際の異常事態と結びつく可能性を案じている気配があった。


「そういった形跡はないわ」

私は即答し、懐から護石を取り出す。掌にのせると、まだ薄緑の光が淡く脈打っていた。

検知用にすぎない粗末な石。宝飾としての価値などなく、ひとたび魔性に触れればすぐに濁色に変わる。それゆえ信頼はできる。


「ご覧のとおりよ」

わずかに角度を変えて、光を反射させるように掲げる。


とはいえ、これは王族の身を護るための大結晶とは比べるべくもない。あちらは精緻な装具に組み込まれ、護り手の命と引き換えにでも発動するよう仕立てられたものだ。だが、その大結晶ですら――グラントの言によれば、装具もろとも溶かされてしまった。


……あれほどのものが溶かされるほどの力。

もし本気を出されていたのなら、事前に心構えをしていた程度で果たして抗えただろうか。


私は、カイルに心の備えをさせていた時のやり取りを思い出す。元来、心を縛る呪詛めいた権能は、意識のどこかに防御の構えを置いておくだけでかかりが悪くなる。

だから、と言い聞かせた。彼も頷いていた。


だが――。

大結晶が無力化されるほどの力を前にしては、その心構えも、薄緑に光るこの護石も、無駄なあがきでしかなかったのかもしれない。


執務室の空気は重いまま、紙の擦れる音ひとつ立たない。グラントの影が長く伸び、彼の瞳が机上の光を捉えたまま沈黙している。私もまた、石を閉じた掌をじっと見下ろしていた。

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