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氷の聖女のテラリウム  作者: 風木水空
1章 黒
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敵意の氷解

教育を始める前に、まず釘を刺しておく必要があると思った。


「祭祀とは、儀式を用いて神なる大樹と対話し恩寵を得る——そう教書には書かれている。

だが、要は自然の理を人が収めるための術だ。君の納得はいらない。形式的な祭祀の手順や、王家との礼儀作法、土地の由来など、必要なことを覚えていればいい」


声の調子は事務的にした。わざと冷ややかに突き放すように。

相手は自分が侮っていた少女だ。殊態度を整える気などさらさらなかった。

むしろ、真っ赤になって否定したり、「ひどい」と喚き散らして反論してきたりするのなら、そのときはねじ伏せて泣かせてやろうとさえ考えていた。


ところが——リシェリアはただ素直に頷いた。反発も恐れもなく、事実を受け入れるかのように。

そこに聖女にありがちな過剰な敬虔さは一切なく、拍子抜けしたのはむしろこちらのほうだった。


「アーレンス様は、神様を信じていないんですね?」

彼女が口を開いた。声音は淡々と、批難の色など欠片もない。ただ確認するように。


「信じることと仕えることは別だ。聖女にはありえないことだろうが」

言葉を飾ることもせず、内心をそのまま口にした。


沈黙がひとつ、間を埋めた。

やがてリシェリアの唇が、かすかに弧を描く。

「そうですね……私も同じ意見です」


……微笑んでいる。


初めて、その表情に感情のようなものを見た気がした。

神秘を否定されて、なぜ喜んだのか。俺に媚を売ってる?


理解は追いつかなかった。だが、相手を攻撃する意図とはいえ、祭祀官としては内心に留めておくべき自分の思想を迂闊にも共有してしまったこと、そしてそれが否定されなかったことは俺の心に変化をもたらしてしまった。


——平民の出と聞かされていたが、言葉の端々や所作にはある程度の淑女教育の下地が見える。アスティがそこまで教え込んでいたのだろう。

世間知らずな面は確かにある。だが愚かではない。

若い令嬢特有の煩わしさ——意味のない雑談や、くだらぬ娯楽に夢中になる素振りもない。


リシェリアは、自分の生活を乱さない。そう感じられて、わずかに胸を撫で下ろす。


これなら、まあ教えることも……構わない。そう思い始めた。


*****


以後の教育は淡々と進めた。

座学は規定の時間、規定の課題をこなし、試験で確かめ、履修を積み重ねていく。できていれば次へ進み、できていなければ繰り返す。定刻に始まり、定刻に終える。余計な言葉は差し挟まない。緩むことのない時間を積み上げていった。


リシェリアもまた、問われなければ口を開かない。

静謐。雑音のない空気。好ましい、とさえ思えた。


他人と共に過ごす時間が、ことごとく煩わしさへと傾いてしまう自分にとって、なぜか彼女といるときだけは心地よかった。

それがなぜなのかは説明できない。ただ、澄んだ水面に触れたときのように、余計なざわめきが胸の底から静まり返るのを感じていた。


彼女は課題を一度も音を上げることなくこなした。

礼儀作法の矯正にも淡々と従い、着実に身につけていった。

華やかさはなかったが、努力の痕跡が確かに積み重なり、気づけば自分は否応なく認めていた。彼女には、祭祀官としてそれなりの器があるのだと。


しばらく経った頃には、彼女に敵対する意思などもう霧散していた。


大樹は確かに、彼女を聖女として選んだのだろう。ならばこの任務を受け入れるしかない。そう腹を決めた。


それ以後は、彼女が務めを全うし、やがて良縁を得られるように——まるで後援者のような心持ちで指導にあたるようになった。


周囲からは「聖女に対して厳しすぎる」と揶揄されることもあった。だが、その言葉は耳を素通りする。彼女はそれを不満に思うこともなく、むしろ真剣に受け止め、さらに磨かれていったのだから。


俺の日常はそうやって、大きく変わらなかった。


だが、城内は違った。日を追うごとに「聖女」を好ましく語る者たちが増えていた。


俺の知らぬところで交流していたのか。可憐だと、優しいと、分け隔てなく人を救うと。そんな評判が膨らんでいく。


若い官や使用人の中には、恋慕を抱いているとしか思えぬ様子の者まで現れた。


——いつからだ。なぜだ。

彼女はほとんど自分と過ごしているはずで、他人の目に触れる時間など限られている。

それなのに、まるで自分の手の中から隠していた何かを、他者に掠め取られたような不愉快さも胸をよぎる。


庁内でそれとなく確かめると、どうやらリシェリアには城内に縁者の男がいるらしいと知った。ほんのわずかな移動の折、そいつと親しく会話する姿があったのだという。

それを見た同僚が会話に混ざり、自然と人の輪が広がっていったのかもしれない。そこから評判が芽吹いたのだろう。


「……男を連れ込んで登城したとは随分な聖女だ」

つい、苛立ちを押さえきれず独りごちる。


だがすぐに、自問した。

苛立つのはおかしい。


俺は聖女の聖性など信じていなかったはずだ。

それなのになぜ苛立つ?


——自分にはにこやかに会話することもなく、心を閉ざしているからか。


考えを深めるのをやめる。

課題が進めばいい。それだけでいいはずだった。

チョロいと言われても仕方がありません

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