喧騒の後、露わにする野心
御披露目のあと、執務室は手紙の山に埋もれていた。
机の上だけでは足りず、脇の棚や椅子にまで積まれている。封蝋の色も紋章も多様で、どれも差出人が自らの地位や趣味を誇示しようとした痕跡に満ちていた。
あの神秘的な聖女の姿をとうとう衆目に晒した。
あっという間に絵姿は街に流れ、劇作家や楽師、宝飾商や仕立て屋が商機を求めて殺到するのも当然だった。貴族たちからは縁談の打診が絶えず、慰問や面談を求める依頼は前にもまして山と積まれた。彼女を飾りに据え、己の家の威光を増そうと目論む浅ましさは隠しもせず、封書の行間から滲み出ていた。
――それ以外にも。市民からも似たような手紙が追加されるようになった。
慰問や難病の治癒を求める内容はまだいい。浅ましくも、生き別れた娘だ、若くして失踪した叔母とそっくりだから娘に違いない、引き取りたいなどという手紙には呆れ果てた。
その中に、ごくわずかだが糾弾も混じっていた。
「魔女だ」「贖え」などと――滑稽なほど単純な言葉で。
俺はそれらを分け、彼女の目に触れぬように隠した。悩んだが廃棄はしなかった。悪意の種を見逃すことは、いずれ彼女に災いを呼ぶ。繋がる根は残しておくべきだ……そう思って。
そして求愛めいた祈りの文が……数を数える気も失せるほど、多い。
予想はしていた。聖女として披露されれば、若い美貌と清らかさに惹かれた者たちに、急に信仰心が高まったようで薄く笑いが出た。目に見えていた。だが、これほどとは。
読めば読むほど、胸の内が濁る。世辞と賛美で塗り固められた言葉の羅列。告解室にリシェリアが並ぶことがあるなら一生列は途絶えなさそうだ。
……もう、そろそろ本腰入れても構わないはず。
名実ともに聖女の座は確かになった。周囲の目を気にして距離を抑えなくてもいい頃合いだ。
むしろ、今から示さねばならない。彼女は俺の庇護のもとにあり、誰も手出しできないと
内側を耕すのは今まで通り、二人きりの時間に進める。心の機微を繋ぐのは誰にも邪魔されない場が一番だ。だが今は、外へ示さないといけない。
大貴族たちが聖女を自分の派閥に取り込むことに本腰を入れられる前に、聖女とその担当官の間に付け入る隙はないと、事実を形で見せねばならない。
だからこそ、皆に見えるように、手を取って繋ぐ。
視線が集まろうと、侍女たちのささやきが背後に流れようと、俺は眉一つ動かさない。
――誰の目にも映るように見せつけてやろう。
と思っていたのに。
公務の大半まだ前任の聖女――エリシアナの領分で、冬前の交代式までは彼女が表に立つ。だから、リシェリアの残りの日程はほとんど教練に使うことができる。
俺は当然、彼女とより深く関わる時間を得られると思っていた。またあの踏み込んだ日課の続きを。
「来季、エリーのお庭の敷地もお任せいただけることになりましたので。引き継ぎなどを行う時間をいただきたいんです」
おずおずと言葉を選んだリシェリアの声音。特に反対の理由がひねりだせず、俺は了承しかなかった。
だが――耳に残ったのは庭のことよりも、彼女が自然に「エリー」と口にしたことだった。いつの間にそこまで親しんでいたのか。俺ですらリシェリアをまだ、愛称で呼ぶことを躊躇っているのに。
……俺もリシェリアを愛称で呼びたい。けれど、セランと同じ呼び方をするのは嫌だというくだらない意地が喉を塞ぐ。俺の名は短くて、彼女はすでに呼びやすいだろうとわかっている。名前を口にしてくれるだけで十分に愛しいのに。――いや、思考が逸れた。
確かに庭は交互に使われる。形式としては片面ずつ割り当てられるが、年季が二年になるリシェリアなら多少重なっても差し支えはない。俺には所詮、道具や肥料、種の扱い程度の引き継ぎに思えた。
ところが彼女は続けて、
「エリーが今からでも庭仕事を覚えてみたいと言ってくれたので。少しお教えしながら過ごしたくて」
……そう言ったのだ。
その瞬間、週に二度。午前と午後の時間を一つずつ、丸ごと失うことになった。
「わ、わかった……」
喉の奥で小さく答えながら、わずかな苦みを覚えた。エリシアナはいつも俺が邪魔されたら嫌なところにいる気がした。ええい、ちょこまかと。
教練の進捗に問題はない。社交の練習も復習で済む。だから時間はやりくりできる。二人の時間はいずれまたいくらでも作れる――そう自分に言い聞かせる。
「ありがとうございます!」
満面の笑みを見せる彼女を前にしては、寂しさを抱えたまま拒むなどできなかった。彼女が本当に嬉しそうに喜ぶのなら、それだけで俺は折れるしかない。
「良かったら庭にもまたおいでください。……来季のお庭にはカイルの好きなものを植えます」
自然を愛し、そこに心から歓びを見出すその姿。大樹が選ぶのも当然だと納得させられる。
「……うん。よろしく」
返した声は思った以上に掠れていた。
彼女が庭に向ける眼差しには、俺の姿は映らない。庭があればいい。自然があればいい。俺が必要とされるのは、ほんの一部にすぎない。
――俺が思うよりずっと、彼女には俺はいらないのだ。その事実に、遅れて気づいた。
「カイルとの時間を使ってしまうので、何かお礼をさせていただければ。私にできることであればなんでも」
その言葉を聞いた瞬間、鼓動が跳ねた。
――耳を疑った。
「……なんでも?」
思わず前のめりに聞き返していた。冗談だろうか、本気なのか。もし本当なら、いったい何を頼むべきだろう。
「え、あ。私に出来ること、ならです……。聖女叙任のためにお支度金をいただきましたので、た……多少なら頑張れます」
俺が近寄ったことで、彼女は少し気圧されたように言葉を修正した。だが、その小さな逡巡さえ愛しくて仕方がなかった。
「……流石に零細貴族とはいえ経営資金も私財もあるし、君より勤めの長い俺がなりたての聖女に集ると思わないで欲しい」
言葉にすると、自分でも少し拗ねた声音になっているとわかった。冗談めいてはいるが、心の奥に小さな寂しさが滲む。
俺がそんな打算で彼女に近づいていると誤解されたら――悲しい。
「ふふふ、久しぶりにお茶目なカイルに会えましたね」
リシェリアが笑った。いつも柔らかな笑顔だが、このときの微笑は格別だった。俺の眉間にそっと指を伸ばし、触れる仕草をする。
「最近、なんだかお顔が強張っていましたよ?」
……見透かされていた。
手紙の山、外からの牽制、俺に向けられる視線。それらに耐えるうち、自然と表情が硬くなっていたらしい。気づかぬふりをしていたが、彼女の目は逃さなかった。
伸びていたその手を、思わず掴んだ。
最近は触れることに慣れてきた。リシェリアもまた、掴まれることに怯えなくなっている。
けれど、それでも――熱い。
まるで今、彼女の心そのものに触れているようで、胸の奥まで焼かれる。
「……なんでもいいって言ったよね。一緒に食事をしてほしい」
俺が欲しいのは、彼女から切り分けられるわずかな時間。それだけでいい。
思い出す――エリシアナとの茶会のとき、心の底で願ったことを。二人きりで食事ができたらと。
「はい。そのくらい、勿論大丈夫です」
リシェリアの顔がふわりと綻んだ。
その瞬間、胸に渦巻いていた重さが一気に溶けていく。
せっかくなら市街だ。行き帰りの時間も楽しめる。
――どの店に行こう。
――何を食べさせてあげよう。
考えるだけで心が浮き立った。
彼女と過ごすひととき、たったそれだけで。
リシェリアとの逢瀬――それはもう、俺にとって報われるすべてだった。




