聖女として知られる最初の朝
聖女お披露目の当日。祭祀庁の大礼拝堂に隣接する控え室は、厳かな空気に沈んでいた。
窓から差し込む光は高い天井に反射し、淡く白銀を散らしたように壁を照らしている。
重厚な石壁と香の匂い。そこに、大樹の枝葉を示すような白と薄緑の聖紋を纏ったリシェリアが座していた。
普段の彼女を知る者にとって、その姿は別人のようだった。
白布に刺繍された緑の線は生きているかのように大樹の枝を描き、胸元に輝く薄緑の宝石は光を受けるたびに水面のようなきらめきを散らす。腰までゆるやかに流された銀糸の髪、その上に白の花冠。そして瞳を覆う薄いヴェール。幼さを残していた顔立ちが、今はひとつの神像のように昇華していた。
あまりに荘厳で、言葉を掛けることすらためらわれた。
息をのむ侍女たちも、視線を落とす司祭も、皆が神前に跪くような静けさに縛られていた。
俺も同じだった。
日常の彼女を知っているはずの俺の目でさえ、その清楚で透き通る存在感に遠ざけられたような感覚があった。
その沈黙を破れるのは、やはりアスティだった。
儀典用の軍服にかっちりと身を包んでも、一切衣装に着られている素振りがない。いつもと変わらぬ自然体で立っている。
纏う衣装からして、今日は高貴な公女でもなく、近衛として振舞う気らしい。
「出来上がったわねリシェリア、凄く綺麗よ。今日は何も考えず、にこにこと総長に引っ張られてればいいんだからね」
軽やかで飾り気のない声。場の緊張に水を差すようなその言い方に、思わず口が動いた。
「今までを無下にする発言はやめていただけないか」
自分でも堅い言葉だと分かっていながら、抑えられなかった。努力と積み重ねを軽んじるような響きに、どうしても異を唱えずにはいられなかった。
アスティは肩をすくめて笑い、リシェリアは声を抑えて小さく笑った。
その笑みは、ヴェール越しでも分かるほど柔らかく、ようやく場の張りつめた空気がほどける。侍女たちのこわばった頬も緩み、緊張の糸が解けていくのを感じた。
「大丈夫。今日はただの一歩だ。凄く『聖女』らしくて俺も誇らしい」
アスティのおかげで俺もようやく、リシェリアに対して素直に言葉が出た。
「ふふ、先生にそういっていただけて安心です。行ってきますね。」
やがて控え室の扉を叩く音が響いた。
侍従が一礼し、低く告げる。総長の到着である、と。
儀式の先導は最高位の者が務める決まり。
俺は彼女の傍に添うことは許されない。控え室で式次第を再確認し、目付として後方から随伴するだけだ。
セランは市内の警護に回されている。間近に寄り添うことはできずとも、行進の途上で一目は見られるだろう。
このあと、祠堂から輿に乗り、観衆の前に姿を見せながら市街を通り王城へ。
王との謁見、続く披露の晩餐会。王侯貴族の前での紹介と小さな奇跡の披露。すべてが滞りなく終わるまで、長い一日が続く。
隣に立てなくても。リシェリアが困ったことがあればあとで応えられるように。次に活かせるように。見守って俺はその後ろで支え続けるだけだ。
扉の叩く音とともに黄金の髪を持つ男が姿を現した。
アスティとリシェリアが立ち上がり、その場にいたすべての人間がそれぞれ礼の形をとる。
総長、レオグラント・イェルス。
金獅子の名に相応しい華やかな気配をまとい、優雅な所作でリシェリアの前に歩み寄る。その動きに、場の視線が自然と吸い寄せられていく。
「聖女リシェリア殿。お迎えに参じた」
差し出された手を、リシェリアが取る。
「ありがとう存じます。本日はよろしくお願いいたします」
「今日これより、貴女は人々の前でシルヴィナス王国の聖女として扱われる。どうかその名に相応しい振舞いを」
グラントは笑みを崩さぬまま、その甲に口づける。
優雅な仕草のはずなのに、どこか余裕を削いだ緊張が滲んでいた。
「はい。勿論です」
そのやり取りを見ながら、わずかな違和感が胸をかすめる。
だが、それを確かめる間もなく、隊列が動き出した。
「……では、参ろう」
リシェリアも白い衣が揺れ、彼女は自然と列の中心へと収まっていく。
誰もがその流れに従い、彼女を軸に動き出す。
彼女は国の中心へと歩み出すのだ。今はそのような些事を気にしていても仕方がない。
ただ、その後ろ姿を見送る。ようやく、肩にのしかかっていたものが下りるように安堵が広がった。
これさえ無事に終われば――また静かな探究の日々が戻るはずだ。俺と、聖女になっていく彼女と。




