恋を知らない夜の続き
「アスティって大人だよね」
食後の余熱がまだ部屋に残っている。燭台の火は静かに揺れて、壁に柔らかな影を落としていた。私はいつもの癖で盃を指先で転がしながら、卓に残る余韻を楽しんでいた。料理の香りはもうほとんど消えているのに、酒だけがゆっくりと場を支配している。
食事を終えた後も酒杯を離さない私を見ながらリシェリアがいう
「ん?食事より酒ばっかり飲んでるから?」
軽く返しながらも、彼女の言葉の調子に少しだけ引っかかる。そういう軽口ではないと、声の温度でわかる。
「ふふ、そういう事じゃないよ」
リシェリアも飲酒年齢には達しているし多少は呑んでいる。単純に、そういう話ではないだろう。彼女の視線は、どこか探るようで、それでいて無垢なままだった。
「アスティは、ええっと……結婚? 婚約相手はいるんだっけ?」
遠慮のない問いが投げられる。
私は思わず盃を止めてしまった。
手の中で揺れていた酒が、ぴたりと静まる。
……まさか、リシェリアからそういった話がでるなんて。
この子は、もっと遠くにいるものだと思っていた。恋だの婚姻だの、そういう現実の重さとは少し距離のある場所に。
「私? 今はいないよ。……何で急に?」
軽く肩を竦めて答える。あくまで軽く。そうしないと、この話題は妙に重くなる。リシェリアの真っ直ぐな瞳は、聞きたいことがある顔に見えた。正しく応えるために理由を聞いてあげることにする。
「エリシアナ様、……エリーがね。早く恋を見つけないと、ご両親に結婚させられてしまう、って嘆いていて。そういう年齢なんだって」
彼女の話を聞きながら、私は無意識に盃の縁をなぞっていた。エリシアナの名が出た時、ふと頭に浮かぶのはヴェルセル家の立場と、そこにかかる期待だ。
あの家に生まれた娘が「恋」を語ることの意味を、私は嫌というほど知っている。
「リシェリア様とエリシアナ様は最近、交流なさるようになりまして。文など交換されておられます」
両親は良縁を得たくて、聖女に推したのだろうに。
大貴族が栄えるためには婚姻もまた政治だ。貴族令嬢の娘がそんな意識で……公女としての私は少し呆れるような心地で思った。
だが同時に、あの子が「恋」を夢見ることを否定する気にもなれない。あれは責務の外側にある、たった一つの逃げ道のようなものだ。
「成程。………婚約者ね。いたことはあるわよ。でも、5年くらい前か。叔父様――陛下が王位を継いだ時に、破談になっちゃったのよね。まあ……こういうのは政治だから、そのうち上の誰かがまた決めてくるでしょう」
言葉にしてしまえば簡単だが、その裏にあるものは軽くない。けれど、それをそのまま渡すほど、私は無神経ではない。
本人も周囲も、母が王位を継ぐと思っていた。だから次期王配に相応しい婚約者を与えられていた。だが、叔父が王位を得て、相手は叔父の一族に阿った。それだけのことだが、夢も希望も綺麗な事がひとつもない事柄をリシェリアに仔細に言いたくなかった。
「そうなんだ。エリーは、小説が好きでね、物語みたいな恋をしてみたいんだって言っていた」
リシェリアは負の感情も見せず、素直にうんうんと頷いている。
その無垢さに、少しだけ救われる。
「でもアスティも、エリーも。自由じゃないんだ。……こういう、大きい集まりになると、上の方の人が決めるものなんだね」
その言葉に、私は一瞬だけ視線を落とした。
燭台の火が、酒の表面に揺れて映る。
「まあ、そうね。国なら王が、家なら当主が。責任を持つ代わりに決める権利もある」
それはこの国の構造そのものだ。王権と家門、その秩序の上で人は守られる。
だからこそ、その代償もまた当然のように受け入れられる。
わかりやすい支配構造で、安心の引き換えの対価。苦笑交じりに言えば、リシェリアは私の苦笑をよそに、さらに自分の疑問を重ねてきた。
「ん……?じゃあ、なぜああいう手紙が来るの?」
そう言ってリシェリアは以前、カイルが夜会の後から届き続けているという大量の『社交の誘い』や『求愛の手紙』について説明する。
あれに意味はあるのだろうか――と。
私は少し考え、慎重に答えを選んだ。
「ああ。王族以外はお互いの意志があるなら、交渉のしようもあるの。だから『偉い奴らに見つけられる前に』お近づきになっておきたいっていうはあるんでしょうね」
その場の空気を軽くするように、声の調子を少し柔らげる。
「まあ、私は見たこともない手紙の送り主から結婚相手を探すっていうのは……ぞっとしないけどね」
盃を傾け、わざと軽やかに続ける。
「どうして?」
「時間と手間ばかり取られて、面白いことなんてひとつもないし、情報ばっかり先にわかるのに、その人の本質ってそんなに見えないもの」
口に出しながら、自分の中の感覚を確かめる。
あれは、相手を知ることではない。選別される側に回るだけの作業だ。
苦い経験を笑い飛ばすように、私は酒の匂いを胸に吸い込んだ。
「そのエリシアナが恋をしたいと思っているなら。落ちているのを探すんじゃなくて、その時間に他の事に夢中になってたほうがいいんじゃないかしら。」
言いながら、ふと視線を外す。
窓の向こうに夜が広がっている。
「恋っていつのまにか、落ちていて。何もかもどうでも良いほどに溺れるって聞くからね。良くは知らないけど。」
酒杯を覗き込む。そこに映る揺れる水面の奥に、まだ知らない何かを見つめるように。
……酒の旨さに溺れることなら知っているのに。
「アスティも恋は知らないの?」
リシェリアが瞬きをしてこちらを見る。
その問いに、私は思わず笑みを浮かべた。
「ふふ、何言ってるの。私だって知らないことばかりよ。……私は、もっと他に色んなことをやりたい事や知りたい事があるの」
軽く言いながらも、その言葉の裏にある自覚ははっきりしている。私は選んできたのだ。優先順位を。
冗談めかして言いながらも、自分でもわかっていた。人生で何を優先するかと問われれば、私は恋ではない。けれど、それでも――落ちるときは落ちるものだと聞いたことがある。
「気にならないわけじゃないけどね。だから。もしリシェリアが先にわかったら、ぜひ教えて」
その言葉は、からかい半分ではあるけれど、完全な嘘でもない。
本当に、男女の恋愛に憧れている訳ではない。だけれど、そこへ身を投じたいという熱意は素晴らしいと思う。
「恋……」
リシェリアはその言葉を反芻するように、小さく呟いた。
その仕草は、あまりにも無防備で、少しだけ胸の奥が柔らかくなる。
何が心を揺らしているのだろう。
リシェリアは、そっと胸に手を添えていた。
「なに、なに? リシェリアもとうとう気になる人が出来た?」
思わず身を乗り出してしまう。さっきまでの冷静さはどこへやら、興味が先に立つ。
「セランは今更か。……カイルはそんな甲斐性あるかしら。それとも騎士の誰か? あとはどんな出会いがあったかな……」
楽しげに囃し立てるように予想を立てて、からかうように笑ってみせる。
「あれ。私は恋をしていいの?」
リシェリアはきょとんとした顔で、真剣に問い返してきた。
その言葉に、胸の奥で何かがひっかかる。
「何でそんなふうに思ったの」
私は彼女に身を寄せ、両腕で抱きしめた。柔らかな体温と、ほんのりとした香りが近くなる。
「私は、今。メイスン家っていう大きい家に所属しているんでしょ?」
その言い方に、私は小さく息を漏らす。
ああ、そういう認識になるのか、と。
「あはは。そっかそっか。心配させちゃったかな。リシェリアはね。メイスン家じゃなくて私の。アストリット・メイスン個人のお客様なの」
言葉を選びながら、柔らかく包むように告げる。
「リシェリアの能力を考えると政略的婚姻を希望する勢力は、たしかにいるだろうけどね」
それは事実だ。彼女の価値を理解している者ほど、手に入れようとする。
「でも――もしリシェリアが愛する人が出来たら、絶対にその人を選んで。誰に何を言われてもリシェリアは自由なの。私が絶対に邪魔させないから」
この愛らしい友人を。誰にも侵害させるつもりはない。
柔らかな抱擁に包まれて、リシェリアの表情は安らいでいく。
「わたし、アスティが大好き」
その言葉が、真っ直ぐに胸に届く。
「可愛いなぁ! 私が男だったら結婚したかったなぁ!」
思わず頭を撫で、頬に軽く口づけを落としてしまった。
温もりを確かめるように。
そして私は、保護者めいた口ぶりで続ける。
「それで、どうなの!? セランは随分見違えたでしょう? 私が教育に力を入れたんだから」
「うん、歩き方とか、前より格好良くなってた。姿勢かな。背も伸びた気がする」
再会したあとの印象を私の成果を誉めるように言う。
その反応に、思わず満足げに頷く。こういう素直な称賛は悪くない。
その後も、話題は尽きない。
「カイルは賢くて綺麗で素敵な人だけど、……誤解しちゃうよね」
「あいつはね、単純に気遣いとか言葉が足りないのよ」
「総長のグラント様は、すごく堂々とされていて格好いいから人気がありそうだね?」
「いや~……あの人は、とっても厄介な男なの。気を付けて」
「ええ?ふふふ」
ほかにも「あの騎士は背が高い」「ある貴族の従僕に美少年がいた」などと、軽口を交わしながら。
静かな夜の中で、言葉が途切れることはなかった。
笑い声が溶けて、酒の香りと混ざり、ゆるやかに時間だけが過ぎていく。
大行事の前夜とは思えぬほど緩やかに、笑いと温もりに満ちた夜が更けていった。




