総長グラント・イェルスの憂鬱
初登場となるグラント視点です。
祭祀庁の祭祀長室――重い扉を背にして足を踏み入れた瞬間、そこは常の執務室とは異なる空気を湛えていた。静けさが底に沈み、燭台の灯が映す織物の影が、じわりと壁を染めていた。わずかに漂う香の匂いすら、胸を圧するように濃かった。
本来ならば、この部屋は私――祭祀庁の長、レオグラント・イェルスに与えられたものである。だが実際のところ、兼務している軍務に身を置く時間の方が圧倒的に長い。ゆえに取り仕切っているのは大祭祀官であり、私が触れるのは報告書に限られていた。
だが、あの日は違った。祭祀庁にとって重大な決議のため、わざわざ腰を運んだのだ。
机上に広げられていたのは、一人の少女の調書。
「これが最終候補になったリシェリア嬢……随分と胡乱な経歴だな」
羊皮紙に刻まれた文字を目で追った。サリーナ、旧トルニカ。出生の記録すらなく、王国民ですらない。
彼女につきまとう異名は「白い魔女」「災禍の預言者」。
同伴しているセランなる若者の暴力沙汰や犯罪歴まで記されていた。虚実入り交じりではあるが、実際に血を流した者がいたのも確かだ。
私は視線を上げて隣にいたアスティ――アストリット・メイスンに水を向けた。
黒檀の髪を無造作に耳へかけ、男装の麗人を思わせる姿で、男性的な高官服を着こなしている。部下であると同時に、私よりも高貴な血を背負う公女。そしてこの場においてリシェリアの後見人として、無視できぬ提案を持ち込んできた張本人だった。
「祭祀庁が推す器として相応しいか? こんなのを救国の聖女に任じてもいいと思っているのか」
問い掛けた私の言葉は冷徹であるべきだった。判断を誤れば国そのものが揺らぐ。軍団長として、安全を担保するのは務めだった。
しかし、アスティは怯まずに返す。
「……言わんとすることはわかるわ。でも殆どのことは子供がしたことで、飢えや貧困による犯罪は国のせいでもあるでしょう」
その目には確信が宿っていた。庇っているだけではない――信頼している。
「まずセランやリシェリアにまつわる傷害事件は、正当防衛も多いし、事件後ほとんど彼女自身が治している。まあ……治せるものは」
だが被害者がそれで許したわけではいから、ここに調書や報告の形で記録が残っている。
「大波や地割れなんて天災を彼女の責にするなんて、そもそもおかしい」
理屈としては正しい。だが民の証言は、なぜか彼女を指差していた。
力は剣に似ている。振るう者が善である保証は、どこにもない。
「それほどというなら、その牙がこちらに向かわないとなぜ言える? 救国に興味もないんだろう?彼らの困難を救わなかった大樹を、燃やさんとなぜ言える」
挑発とも、自らの恐れの吐露とも言える問いだった。
アスティは動じずに告げた。
「彼女たちは、差別されず安心して暮らしたいだけ。助けて欲しいと、私が願っているだけなの。彼ら自身は憎むほどにも、大樹に興味がない」
鋭く、強い言葉が胸に突き刺さる。
「国が、私たちが『助けはいらない』と答えたなら、明日にでも出ていくわ。そんな子たちが、わざわざ燃やすために登城するわけがない」
断言は、揺るぎないものだった。
「もしそんなことが起きれば……もともと枯れる予定だったのが早まっただけ。滅んで当然だわ」
室内の空気はさらに張り詰め、沈黙の刃が鋭く研ぎ澄まされていく。見纏っているだけだった大祭祀官が息を呑みこんだのを気配で感じる。王族とはいえ、あまりにも危険な発言だ。
「責任は私が取る。親王家――母ごとまとめて取り潰せばいいわ。その時取り潰す国が残っていれば、だけどね」
挑発か。いや、覚悟の言葉だった。
「メイスン家がなくなれば、イェルス家としても胸がせいせいするでしょ?」
そう告げた彼女の瞳は真っ直ぐだった。
我が家と違い、メイスン家――特に彼女の母クラウディアは現王の姉であり、革命派。自分にも国を動かす権利があると勘違いした女狐だ。事あるごとに、反目し政治を濁されて不快に思った経験はたしかに幾度もあった。……アスティの提案は私の感情を精確に見抜いている。
息が詰まるほどに睨み合った末、私は視線を外した。譲歩ではない。ただ、この場でこれ以上声を荒げても得るものはない。
「……その旨、書面にしておけ」
言った言葉を低く念押しする。のちの貸として回収すればいい。アスティの都合のいい提案を覆す代案は私の手元にはなかった。
そのとき、大祭祀官の顔が蒼白になった。
「殿下……御当主の御意向ではないでしょう。そんなことを勝手に約定してしまっては」
老いた声の震えが、あの静まり返った部屋に波紋を広げていたのを覚えている。
その後、私はセランを訓練所と士官試験の場で直に見た。
帳面に書かれた経歴だけでは分からぬことも、実地での姿を見れば明らかになる。
内実はただの学なき平民――粗削りで、礼節を欠いた振る舞いも多い。だが、それはアストリットが言ったとおり、国が拾い損ねた難民の子供と呼ぶに相応しかった。
行いは正しくなくとも、好きな女を守ろうとした結果だとすれば、その数々の事件も理解できぬではない。力を振るい、血を流し、己の領分も弁えぬまま暴れた――それは咎であると同時に、未熟さの証でもある。叩き直し、規律を刻みつけ、首に縄をつけて飼い慣らせばまだ御せる。少なくとも、現時点でこちらの命に従わせることはできる男だと判断した。
だが、リシェリアは――。
あの女と二人で対面するなど、初めから避けたかった。いや、避けてきた。私は意図して会わないようにした。
なぜなら、彼女の持つ異能こそ最も警戒すべきものだと感じたからだった。
報告は幾度も上がってきた。証言は老若男女を問わず、あまりにも共通している。
――彼女を前にして、心が変質した。
隣人が急に庇護者となり、信奉者となり、支援者となり、あるいは急激に性愛の対象とする。逆に恐れを抱き、敬ってひれ伏す。
そのいずれもが極端で、周囲との関係を壊し、他者を許さぬほど激化する。その様は、まるで「魅入られた」かのようだと。
そんな相手を虜にする技を、本人の無意識のまま振り撒くような女。
王国の血統を守らねばならない私が、会いたいと思うはずがない。
実際、彼女に付き従うセランの振る舞いさえ、その影響を受けたように見える。
報告書には、下士官ダリオが籠絡され、堕ちた記録もある。あれは彼女の力のせいではないのか――そう思わせるに足る事例だった。
それでも。
選定の場での力の発露を、私は遠巻きに見た。
その後には、大樹の急変を癒した結果を、否応なく見せつけられた。
認めざるを得なかった。
忌まわしいほど怪しく、恐れるべき存在であっても、その力は本物だった。
だからこそ――ようやく。
リシェリアが見習いとして登城してから、半年近くが過ぎた今日。
私はついに、彼女と会う場を整えた。




