氷の融解
リシェリア視点
今日の日課が終わるやいなや、私は頭を下げてカイルの前から辞し、そのまま小走りに回廊を駆けていた。
胸の奥が熱く、鼓動は耳の奥でうるさいほどに響いていた。
「嫌ではない」と言ったのは嘘じゃなかった。
けれど、あの距離感、あの仕草――どうしていいかわからなくて、ただ恥ずかしくて。
その恥ずかしさから逃げたくて、侍女のサフィアの迎えを待つ余裕もなく、つい足早に退室してしまったのだ。
私室に飛び込んで布団を被ってしまいたい。あるいはアスティに全部打ち明けてしまえば、きっと彼女は豪快に笑い飛ばし、何かしら道を示してくれるだろう。
セランにも愚痴ろうか。でも、ううん。心配性だし――何となく良くない気がした。穏やかな日常に軋みを持ち込みたくはなかった。
けど、現実は私を待ってくれない。
昨日からの晴天続きで、庭の水やりを怠れば植物たちが可哀想。重い足を引きずるようにして、私は裏庭に入った。
しんとした空気。まだ誰もいない。ひとりきりになれた安堵が胸に広がる。
道具に手を伸ばす。剪定。肥料の下拵え。虫の予防。薬草の葉を干す。はじめてしまえば、慣れた作業は気分を安定させるのに役に立った。
一つひとつの作業は、小さな世界を整えることに似ている。目の前の手間が、結果を実らせる。大きな循環の一部に触れるような感覚は、不思議と心を落ち着かせてくれる。これも力の修練だと思えば、自然と背筋が伸びる。
「最後に受粉作業をしておこうかな…」
独り言のように呟く。数日前から咲き始めていた花は、今や見事に開き、時を待っていた。
ヴヴヴ。と微かな羽の振動が聞こえた。
ふと視線を上げると、丸々とした蜜蜂が目に入った。
ふふ、かわいい。
勤勉な小さな働き手。彼らがいれば、手を煩わせずとも受粉は済むのに。そう思った次の瞬間――。
「よっと」
耳元で声がして、伸びた手がミツバチをつまみ去った。視界の端から消える。
セランだった。
彼はそのまま、ひょいと蜂を口へ放り込んで――咀嚼し、飲み込んでしまった。
「ええ!なんで食べちゃうの!」
思わず叫ぶ。信じられない。
「ん?蜜がついてて甘くてうまい。おまえも刺されなくて済んだろ」
悪びれた様子もなく答えるセラン。
「今、受粉を手伝ってくれていたのに……。それに。追っかけて巣を見つけられたら後で蜂蜜だって手に入ったかもしれないんだよ」
期待を砕かれて、しょんぼりと肩を落とす。
その私の様子に、セランが破顔した。
「あー!悪い悪い。次は見かけても、しねえから。ほら、作業しな」
そう言うや、彼は私の腰を軽々と持ち上げ、腕に抱え上げた。
花がちょうど目線の高さに来る。作業のための気遣いだとわかっていても、胸が少し騒ぐ。
花に手を伸ばしながら、間近に赤い頭が目に入り、ふと先刻のことが頭をよぎった。カイルの手の熱。触れた唇。あの恥ずかしさ。
せっかく忘れていたのに――。
頬が熱を持ち、変な汗が滲む。思い出すだけで心臓が痛いほど跳ねる。
私のわずかな変化に、セランはすぐ気づいた。
「どうした?嫌なことでもあったか」
ぎくり、と身体が強張る。けれど、ふるふると首を横に振る。
……なんでもない。だから踏み込まないで。お願い。思い出すことが恥ずかしい。
けれどセランは、すん、と鼻を鳴らし、匂いを嗅ぐようにしてから真顔になった。
苛立ちを含んだような、何かに気づいたような険しい眼差しに変わる。
「……おい」
低く冷たい声が耳に届いた。
こっちを見たセランは、一瞬の間だけまるで無表情のまま静止した。
その直後、獣が獲物に飛びかかるような素早さで、私の襟元に顔を差し入れてきた。
「……っ!」
「虫に、刺されてる」
鎖骨の辺りに、いきなり温かな物が触れた。
セランの鼻先だった。
ぞわり、と背筋に走る感覚に、声が喉奥で途切れて零れなかった。
「毒あるかもだし、吸っておく」
「え?」
言われてもそんなところは、自分では見えない。でも、刺された記憶や痛みもない。それならきっと緊急じゃないから医務室に後で行けばいい。
「良いよ、大丈ぶ……」
「いいから」
セランは有無を言わさなかった。
そのまま首筋の血管の位置を捉えて、まるで甘噛みのように、吸い付いた。
「……ひぁっ……っ!」
くすぐったさと痺れるような熱が混ざり合い、全身を貫いた。体が勝手に震え、逃れようと身をよじる。
「んん……!」
でも、セランの腕はがっしりと私を固定したまま離さない。
今の私は彼に抱えられて宙に浮いている。踏ん張れる大地もなく、指先から足先まで確実に掴まれ、逃げ道は完全に塞がれていた。
「ちょっと…!もうっ…っいいって!」
ようやく、十分に満足したのかセランは唇を離した。
そこに残るじんじんとした熱を、私は慌てて手で抑える。呼吸を乱しながら、赤い顔で抗議の目を向けると、セランはなんてこともないように舌を出して笑った。
「ん、こんだけ吸えば平気だろ」
「下ろして!」
混乱で胸がいっぱいになり、作業どころではなくなっていた。
宥めるようにセランの大きな手が私の背を叩きながら降ろす。その余裕ぶった仕草が、どうしてだか癇に障った。
「……見つかっても、知らないよ。こんな風にふざけたらダメって言われてるのに」
「木の影でやったから平気だ。それに毒を抜くのは応急手当てだろ」
その箇所を抑えていた手に意識をする。瘡蓋の感触も、抜かれたはずの血の後もない。セランが勘違いしたんじゃなければ『遊び』でふざけてやったにしか思えなかった。
普段、あれだけ気を付けて場内ではじゃれ合うのを制限していたのに、……今日のセランも違和感がある。
「セランが襟を汚したから、帰る。…かたづけておいてよね」
必死に言葉へ不満を込めた。
頬はますます熱く、きっと真っ赤に染まっている。どうか夕日で隠れて見えていませんように。
私は駆け去った。
目の端に、セランがはいはい、と手を振り、気にも留めない様子が映る。
カイルも、セランも。一体なんなの。
その夜は、形にならない感情が私の中をぐるぐると回った。
蜂の成虫を食べる時は針は抜いたほうがいいそうです。




