黒の抗戦
「じゃあ本日もこれで終わりにしよう。じゃ、リシェリア、こちらに」
長椅子の隣を指さすと、リシェリアはわずかに肩を揺らした。
「はい」
小さな返事。
……しばらく前から始めたこの日課は、彼女にとってどういう時間になっているんだろう。
嫌という拒絶は今までない。だが、まだ少ししか近づけていない。いつか、リシェリアの心を震わす事が出来るだろうか。
昨日の二人の姿を思い出すと気が遠くなるが、それでも追いつくためには進まなきゃ行けない。
俺は呼吸を整え、次の一歩を踏み出した。
「今日は、手を借りていいかな」
掌を少し持ち上げると、リシェリアは迷うように瞬きをしてから、ゆっくりと近づき、ためらいがちに手を差し伸べてくる。
その細い指が俺の掌に落ちてきた瞬間、胸の奥に微かな熱が灯った。いつもエスコートで腕に添えられているが、あらためてこの重みを、こんなに真正面から確認することもない。貴重な経験だ。
「うん。これはどう思う?」
俺は軽く包み込むだけにとどめ、問いを投げる。
忘れないように、お決まりの定型句をつなげる。
「嫌だったらやめるから」
「嫌じゃないですが…」
苦笑しながらリシェリアは言葉を濁した。
これもいつものこと。
「嫌じゃないなら、それ以外にどう思う?」
食い下がる。静かな声に意識して熱を混ぜる。なにか、彼女の心の琴線に触れることを祈りながら。
「そうですね。触ってる感触があります」
期待も虚しく、何の味もない感想を返される。
――まだ、それだけ。だがそれでも、進んでいるはず。まだ進める。
「じゃあ、もう少し」
ただ載せていただけの指先を、今度は少し絡めてみた。その小さな変化だけで、リシェリアの肩が微かに震える。
「動きづらいな、とか…?」
伏せた睫毛の影が揺れる。悩んでいるのか、困惑なのか、それとも呆れなのか。
「他には何が浮かんでる?」
問いかけながら、思い出すのは昨日の光景。
焼き付いたまま離れないあの場面。俺も、あの距離に、あの感覚に踏み込みたい。
「ええと。……外して欲しいです」
一瞬、思考が止まる。
それでも表情は崩さずに、さらに問いを重ねた。
「……それはなぜか言語化をしてみよう」
俺の声は冷静を装っていたが、内心は必死だった。
拒絶なのか、それとも――。
リシェリアの答え次第で、すべてが変わる。
「カイルの手、熱くて…その…」
彼女の頬は赤い。本当に暑いのか、それとも羞恥の熱か。その曖昧さにすがりたくなる。期待が胸を叩く。
――もう一歩。
「……」
俺は彼女の手を引き寄せ、その手のひらを頬に添えた。ひやりとした感触。だが次の瞬間には、俺自身の体温がそこに宿っていく。
「あ、え?」
リシェリアの口から驚きが零れる。
俺はわずかに口角を上げ、平静を装いながら囁いた。
「昨日セランにも、こうしていたね」
あまり警戒させないように、何でもないことのように振る舞った。さっきから、心臓は早鐘を打っている。
指先にある細い骨の感触。柔らかな体温。俺は全身全霊で感じるために眼を閉じる。
「そう、ですね」
リシェリアはわずかに戸惑った声色を見せたが、すぐに納得したように頷いてた。別れた後の振る舞い見られていたことを受け止めている。
「どう思う?嫌なら逃げないと」
俺は眼を開け、真正面から彼女を見つめる。
もしこの手に害意があるなら、もし俺の下心が彼女に透けて見えているなら――そのときは必ず拒絶するはずだ。避けるはずだ。
「嫌ではないです」
返ってきたのは、いつもの言葉。いつもは虚しさを感じるその乾いた声音に、今だけは安堵した。
もう一押し。
「…これも?」
添えられた彼女の手に頬を擦り付ける。
どんな反応でも知りたかった。視線は逸らさない。彼女の目を見ていたい。
まだこれだけではセランと並ぶだけだ。どうか俺を、男として意識してほしい。あいつに一歩でも上をいきたい。
昨日のたとえようもない敗北感が、執着を生んでいた。
唇を寄せる。
音を立てないように、そっと。
いつもの触れない手の甲への礼とは違う、微かだけど確かな接触。
リシェリアの体温を感じる。
リシェリアの視線がこちらに注がれている。
その肌の味が、唇に淡く広がる。
言葉は使えない。だから目で問う。「どう?」と。
「……。」
彼女の表情に、焦りのようなものが浮かぶ。けれど、咎める声はなかった。
――もっと。もっと、近づきたい。
さらにもう一歩。未知でも踏み出さなければ得られない。それは俺の人生で数少なく知った、揺るぎない真理だ。
逆鱗に触れぬよう、そろそろと。
許されたと信じて、唇を再び近づける。
再び触れる。わずかに力を込めて、確かに口付けた。
嫌悪されないように、だが決して見逃さないように、この恋を密かに刻む。
「やっ」
弾かれた。
リシェリアは慌てて手を引き、自分の胸に抱きしめる。まるで俺から隠すように。その仕草が逆に、自分が抱き寄せられたかのように、錯覚する。鼓動が荒ぶった。
「ああ、……うん。ここまで。さあ。教えて。何を感じた?」
声色は抑えたつもりだ。だが内心は燃え上がっている。悟られたくない――いや、むしろ知ってほしいのかもしれない。
「あ。え、ええと。嫌じゃない。嫌じゃなかったんです、けど……」
彼女は両手で顔を覆った。夕日に照らされて、その頬が赤く染まっているのがわかった。
「くすぐったくて、我慢できなくて…」
必死に言葉を探している。視線が彷徨う。
「それで?」
俺はゆっくり促す。
「カイルがじっと見てて、その、そわそわするというか……心臓がうるさくて」
彼女は胸に手を添え、さらに口元にも手を当てる。
「……恥ずかしいんです」
伏せた睫毛が震え、言葉が消える。
胸の奥に、言葉にならない感動が湧いた。
羞恥、恥じらい――人間らしい心の表現。セランには見せていない情緒だ。
この反応を引き出せるのなら、進める。いや、もう進んでいる。違和感なく受け入れられているセランより、俺は男として一歩先んじたはずだ。
「わかった。ありがとう」
終わりを告げる。
それでも視線は伏せたままのリシェリアを、今すぐ抱き寄せたい衝動に駆られる。もっと深く、もっと先へと。
だが耐える。ゆっくり育てるべきだ。
だって彼女は確かにここにいて、俺の手に触れる位置にいるのだから。




