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氷の聖女のテラリウム  作者: 風木水空
4章 開戦
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黒の抗戦

「じゃあ本日もこれで終わりにしよう。じゃ、リシェリア、こちらに」


長椅子の隣を指さすと、リシェリアはわずかに肩を揺らした。


「はい」

小さな返事。

 

……しばらく前から始めたこの日課は、彼女にとってどういう時間になっているんだろう。

嫌という拒絶は今までない。だが、まだ少ししか近づけていない。いつか、リシェリアの心を震わす事が出来るだろうか。

 

昨日の二人の姿を思い出すと気が遠くなるが、それでも追いつくためには進まなきゃ行けない。

俺は呼吸を整え、次の一歩を踏み出した。


「今日は、手を借りていいかな」

 

掌を少し持ち上げると、リシェリアは迷うように瞬きをしてから、ゆっくりと近づき、ためらいがちに手を差し伸べてくる。


その細い指が俺の掌に落ちてきた瞬間、胸の奥に微かな熱が灯った。いつもエスコートで腕に添えられているが、あらためてこの重みを、こんなに真正面から確認することもない。貴重な経験だ。


「うん。これはどう思う?」

 

俺は軽く包み込むだけにとどめ、問いを投げる。

忘れないように、お決まりの定型句をつなげる。

 

「嫌だったらやめるから」


「嫌じゃないですが…」

 

苦笑しながらリシェリアは言葉を濁した。

これもいつものこと。


「嫌じゃないなら、それ以外にどう思う?」


食い下がる。静かな声に意識して熱を混ぜる。なにか、彼女の心の琴線に触れることを祈りながら。


「そうですね。触ってる感触があります」


期待も虚しく、何の味もない感想を返される。


――まだ、それだけ。だがそれでも、進んでいるはず。まだ進める。


「じゃあ、もう少し」


ただ載せていただけの指先を、今度は少し絡めてみた。その小さな変化だけで、リシェリアの肩が微かに震える。


「動きづらいな、とか…?」

伏せた睫毛の影が揺れる。悩んでいるのか、困惑なのか、それとも呆れなのか。


「他には何が浮かんでる?」


問いかけながら、思い出すのは昨日の光景。

焼き付いたまま離れないあの場面。俺も、あの距離に、あの感覚に踏み込みたい。


「ええと。……外して欲しいです」


一瞬、思考が止まる。

それでも表情は崩さずに、さらに問いを重ねた。


「……それはなぜか言語化をしてみよう」


俺の声は冷静を装っていたが、内心は必死だった。

拒絶なのか、それとも――。

リシェリアの答え次第で、すべてが変わる。


「カイルの手、熱くて…その…」


彼女の頬は赤い。本当に暑いのか、それとも羞恥の熱か。その曖昧さにすがりたくなる。期待が胸を叩く。


――もう一歩。


「……」

 

俺は彼女の手を引き寄せ、その手のひらを頬に添えた。ひやりとした感触。だが次の瞬間には、俺自身の体温がそこに宿っていく。


「あ、え?」

 

リシェリアの口から驚きが零れる。

俺はわずかに口角を上げ、平静を装いながら囁いた。


「昨日セランにも、こうしていたね」

 

あまり警戒させないように、何でもないことのように振る舞った。さっきから、心臓は早鐘を打っている。

指先にある細い骨の感触。柔らかな体温。俺は全身全霊で感じるために眼を閉じる。


「そう、ですね」

 

リシェリアはわずかに戸惑った声色を見せたが、すぐに納得したように頷いてた。別れた後の振る舞い見られていたことを受け止めている。


「どう思う?嫌なら逃げないと」

 

俺は眼を開け、真正面から彼女を見つめる。

もしこの手に害意があるなら、もし俺の下心が彼女に透けて見えているなら――そのときは必ず拒絶するはずだ。避けるはずだ。


「嫌ではないです」

 

返ってきたのは、いつもの言葉。いつもは虚しさを感じるその乾いた声音に、今だけは安堵した。


もう一押し。


「…これも?」

 

添えられた彼女の手に頬を擦り付ける。

どんな反応でも知りたかった。視線は逸らさない。彼女の目を見ていたい。


まだこれだけではセランと並ぶだけだ。どうか俺を、男として意識してほしい。あいつに一歩でも上をいきたい。


昨日のたとえようもない敗北感が、執着を生んでいた。


唇を寄せる。

音を立てないように、そっと。

いつもの触れない手の甲への礼とは違う、微かだけど確かな接触。


リシェリアの体温を感じる。

リシェリアの視線がこちらに注がれている。

その肌の味が、唇に淡く広がる。


言葉は使えない。だから目で問う。「どう?」と。


「……。」

 

彼女の表情に、焦りのようなものが浮かぶ。けれど、咎める声はなかった。


――もっと。もっと、近づきたい。


さらにもう一歩。未知でも踏み出さなければ得られない。それは俺の人生で数少なく知った、揺るぎない真理だ。


逆鱗に触れぬよう、そろそろと。

許されたと信じて、唇を再び近づける。


再び触れる。わずかに力を込めて、確かに口付けた。

嫌悪されないように、だが決して見逃さないように、この恋を密かに刻む。


「やっ」


弾かれた。

リシェリアは慌てて手を引き、自分の胸に抱きしめる。まるで俺から隠すように。その仕草が逆に、自分が抱き寄せられたかのように、錯覚する。鼓動が荒ぶった。


「ああ、……うん。ここまで。さあ。教えて。何を感じた?」

 

声色は抑えたつもりだ。だが内心は燃え上がっている。悟られたくない――いや、むしろ知ってほしいのかもしれない。


「あ。え、ええと。嫌じゃない。嫌じゃなかったんです、けど……」

 

彼女は両手で顔を覆った。夕日に照らされて、その頬が赤く染まっているのがわかった。

 

「くすぐったくて、我慢できなくて…」

 

必死に言葉を探している。視線が彷徨う。


「それで?」

 

俺はゆっくり促す。


「カイルがじっと見てて、その、そわそわするというか……心臓がうるさくて」

 

彼女は胸に手を添え、さらに口元にも手を当てる。

 

「……恥ずかしいんです」

 

伏せた睫毛が震え、言葉が消える。


胸の奥に、言葉にならない感動が湧いた。

羞恥、恥じらい――人間らしい心の表現。セランには見せていない情緒だ。

 

この反応を引き出せるのなら、進める。いや、もう進んでいる。違和感なく受け入れられているセランより、俺は男として一歩先んじたはずだ。


「わかった。ありがとう」

 

終わりを告げる。


それでも視線は伏せたままのリシェリアを、今すぐ抱き寄せたい衝動に駆られる。もっと深く、もっと先へと。

 

だが耐える。ゆっくり育てるべきだ。

だって彼女は確かにここにいて、俺の手に触れる位置にいるのだから。

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