色づき始める水面下
エリシアナは、カイルやセランにとっては少しばかり喧しい相手だったが誰かを意図して動かすような人物ではなかった。
ただ、思ったことをそのまま口にし、面白いと感じたものに素直に心を動かす――それだけのことを、ためらいなく人前で行う。
無垢な愛嬌に満ちた少女らしさで、困りごとに直面すれば、自然と周囲の誰かが手を差し伸べてくれる――それは、与えられて育つのではなく、彼女自身の資質で。力が弱くても大樹に選ばれた理由のひとつに違いなかった。
その無邪気さは、時に周囲の人間の解釈を大きく広げた。
祭祀庁の廊下の片隅で、休憩所で、あるいは誰かの執務室で。いつしか、「次代聖女リシェリアと、それに一途な想いを寄せる兵士セラン」という話が、まるで出来上がった物語のように囁かれていた。
悪意も作為もない。
ただ彼女の言葉が、人から人へと渡るうちに、少しずつ形を整えられていっただけだ。
だから、最初の周囲の認識はほとんど固まりそうだった。
セランとリシェリアの関係は、すでに半ば既成のもので不可侵だと。
――本来ならば。
だが、現実はそう単純ではなかった。
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大図書室の奥、ひんやりと静まり返った書庫。
アデライナ様のお使いで本を探しに来た私は、棚の陰で思わず息を呑んだ。
リシェリア様と、カイル様だ。
同じ机に並び、調べ物をなさっている。
ただそれだけの光景のはずなのに、どこかが違う。
カイル様――普段は近寄りがたいほど冷たく、硬い雰囲気を纏うあの方が、時折リシェリア様へ顔を向ける。その視線の優しさと甘やかさが、あまりにも柔らかかった。
えっ……?
心臓が跳ねて、手にしていた本を落としそうになり、慌てて抱え直す。
鼓動がうるさくて見つかってしまうのではないかとさえ思った。
私は息を潜め、棚の影に身を寄せた。
「今日はここで、しようか。いい考えがあるんだ」
カイル様が、リシェリア様の椅子の背に手をかけられた。
自然な仕草――けれど、ほんのわずかに距離が近い。
!?何を?!
叫びたくなる衝動を必死に押し殺す。唇を噛み、胸の奥で内心の声を握りつぶす。リシェリア様の表情は横からではよく見えない。銀の髪がお顔を隠し、声だけがかろうじて私の耳に届いた。
「ここは私語は禁止でしょう?……いけませんよ」
やわらかな声。
拒んでいるはずなのに、けれど、どこか緩やかさを含んでいる。
「誰もいないから大丈夫だ。……悪いことをしている感じがする?」
低く落とした声に、軽い笑みが混じる。
カイル様の顔は、悪戯を仕掛ける少年で。あの人がこんな風に笑うなんて――信じられない。こんな方だっただろうか。
私は混乱する。
「規律を破ることは良くない事です」
そう返すリシェリア様の声は素気ない。だけど声音には戸惑いが混ざっている。
「規律は集団の秩序を守るためのもの。でも、今は二人だけだ。度を越さなければ問題ない。……なら、それほど過敏にならなくてもいい」
その言葉と同時に浮かんだ笑みは、普段の冷たい仮面とはまるで違っていた。雪の中に隠されていた次の季節が、ふと零れたような――そんな表情。
……ああ、これは。
胸の奥で、何かがはっきりと形を持つ。
「カイル……そういうのは、あまり」
呆れるような、苦笑いのような。曖昧な。
「そう、その顔。その感情は『罪悪感』……いや『背徳感』だね。悪いと思いながら、その先を期待してしまう気持ち。わかるかい?」
カイル様が身を乗り出し、耳元に近づく。
「……。……」
囁きは聞こえなくなった。
けれどその瞬間、リシェリア様の肩が小さく跳ねた。耳がうっすらと染まり、本を盾にするように掲げる。
息が詰まる。
やっぱり。これは――。
頭の中で言葉が確信に変わる。
本の中で何度も読んだ展開が、そのまま目の前で起きている。
――ガチャ。
そのとき、図書室の扉が開く音がした。
司書たちの声が遠くに混じる。
「そろそろ執務室に戻ろうか」
カイル様はすぐに立ち上がり、いつもの冷たい声でそう言った。
けれど、その瞳に残る色は消えていない。
私は、それを見てしまった。
――ああ、これは。
セラン様とリシェリア様の物語よりも、もっと密やかで、胸を焦がす想いの質感。
胸が高鳴る。
これは、すぐに戻って、他の侍女たちに伝えなきゃ。
私は抱えていた本を握りしめたまま、そっとその場を離れた。
***
その日を境に、城内の噂は変わり始めた。
これまで流れて語られていたのは、リシェリアとセランの物語。
だがそこに、もうひとつの名が加わる。
カイル・ラス・アーレンス。
厳しすぎる祭祀官が密かに隠していた秘めたる心。
聖女と担当官の恋。
静かに、けれど確かに。噂の多くは、彼らに関心を寄せる侍女、そんな侍女の気を引こうとする想いを抱いた兵士や祭祀官たちが、見聞きした断片を横流しすることで繋がれた。そこに少しばかり脚色を添えて、侍女たちが楽しめる恋物語へと仕立てられていく。
二つの物語は並び立ち、やがて同じ重さで語られるようになっていった。
幸いなことに、その流行は一つの大きな役割を果たしていた。
セランとカイル、二人の間の物語が一大話題となることで、外から新たな恋敵が割り込んでくる隙を防いでいたのだから。
カイルがしようとしているのは、数話前に始めた、日課の「感情の言語化」です。




