翻弄される保護者たち
カイルの同僚、アデライナ視点の続きです
私は報告資料を読み進め、言葉を失った。
紙の上に整然と並ぶ文字と数字は、ただの記録のはずなのに、そこからにじむ危機の気配はあまりに生々しい。
……確かに、エリシアナは力が少ない。
けれど、それを自覚して、彼女なりに真摯に勤めを果たしてきた。回数を重ねることで補おうとしてきた。
不在のときや力の及ばぬときには、癒しの術を扱える祭祀官たち――かつて聖女を務めた者ですら――が交代で務めてきた。
それでも見逃されていた異変。外側からではわからなかった病巣。
資料を前にして、私は背筋が冷たくなる。
大樹が『死にかけている』という噂。
あれは戯言ではなく、内部から生じていた事態だったのかもしれない。
「本当に、本当に。大樹は危ないのね……」
思わず声に出すと、カイルは落ち着いた声で応じた。
「……ああは言ったが、おそらく君たちの任期中には補修は必要ないだろう。ましてや崩落は考えられないと思う。安心してくれていい」
彼の視線はどこか遠くを見上げるように動いた。記憶をたぐるような仕草。
その横顔は、私の知る冷徹な同僚ではなく、なにかを背負い込む青年のものに見えた。
「後で降りて実際に見てきてくれ。……でも、根本的な治癒ができたわけじゃない。何度も調査が必要だろう。その辺は頼みたい」
「わかってます。今回以降は、治癒に力を割かずに済みますから。その分を尽くします」
頷きながら、私はやるべきことの道筋を脳裏に描いていく。
ようやく具体的に、私にできる役割が見え始めていた。
その時、不意にカイルが息を詰まらせるようにして言った。
「あ……すまない。予備の祭器は壊してしまった」
一瞬、何を言われたのかわからなかった。
「うちの聖女は、力は強いが……制御が未熟で。本当に、素人なんだ。劣化していたのかもしれないが、リシェリアが力を通していたら途中で破裂した」
「えっ」
変な声が出てしまい、慌てて咳払いで誤魔化す。
「途中でですか? ……それで、その後どうやって大樹に治癒を……?」
祭器は、聖女の力を増幅し、収斂させ、制御しやすくするためのもの。
それが壊れるなど、ほとんど聞いたことがない。
エリシアナなら、これがなければ癒しは極端に難しくなる。予備を失ったのも痛手だが、それよりも――。
どんな出力をしているのか。
「…………」
カイルは口を閉ざした。
沈黙。
そして、小さく「しまった」という色を浮かべる。
「ここだけの話で黙っていてほしい」
私は頷いた。
希代の聖女と囁かれる少女にまつわる秘密――そう直感した。
ごくり、と喉が鳴る。
「聖女を知覚して、……同調することで、俺が介入して操作した」
「人を……知……」
精神へ――それは禁忌だ。
思わず言葉が漏れかけたところへ、彼の声がかぶさる。
「頼む。何も言わないでほしい」
眉間に皺を寄せ、必死の懇願。
「本人に、そのようにしろと言われて……」
苦渋を滲ませる顔。そうせざるを得なかったという言外に訴えている。
私たちは立場こそ違えど、同じ“聖女の世話係”。
抱える問題児の性質は違えど、苦労は似通っているのかもしれない。
私は手を上げて肯定の意を示す。
「……わかりました。ちなみに、どうやったかだけ教えていただけます? 他人の力に干渉する……学術的に興味がありますね。参考にしたいのです」
たとえば、逆にエリシアナに少しでも力を分けられるなら、どれほど助かるだろう。
そんな思惑を込めて問うと――。
初めて、カイルが表情を変えた。
いつもの鉄面皮がわずかに揺らぎ、思い出すように視線を逸らし……ほんのり目元が赤らんだ。
「あ……ああ。聖痕に直に額を……いや、視界をかぶせるように……」
「リシェリア様の聖痕って……」
背中、だったはず。
言葉が途切れた。
――つまり、美しい少女の生肌に顔を寄せたということ。
その事実を自ら告げさせられ、彼が見せたのは年相応の青年の照れだった。
「……それも深くは聞かないで欲しい……」
耳まで赤くして視線を逸らす姿に、私はふと笑みをこぼしそうになる。
そうだ。
忘れていたが、この人もまだ若い。
普段の無表情の下には、恋に戸惑う顔を確かに持っている。
夫もかつて、こんな表情を見せた時期があった。
それを思い出し、懐かしさに胸が緩む。
「そういえば、十代前の聖女……ユーディナ様はご存知でしたでしょうか」
助けてもらった礼と、ほんのわずかに芽生えた親近感から、少しだけ秘密を分けてあげたくなった。
「いや……名前だけは」
途端に、カイルの顔がいつものものに戻る。
雑談か、とわずらわしそうな気配をにじませながらも、話がそれたことに安堵したように湯気立つ茶をすすった。
「彼女も商家の出で……つまり平民でしたね。けれど御力が強くて、今でも鮮明に覚えています。……任期を終えたのち、当時の担当官に見初められて輿入れなさったんですよ」
ピタリ。
手が止まった。
その様子を目にして、私は思わずふふ、と小さく笑みを漏らした。
今日は彼に驚かされてばかりだったから、少しは返せただろうか。
カイルは止めたまま、動こうとしない。
――続きを聞きたいのだ。
「今は、あのコンラート様の細君です。先日、第二子に女の子がお生まれになったとかで……また聖女にしたい、なんておっしゃってましたわ」
コンラートは私の先輩祭祀官だ。もちろんカイルも知っているはず。快活で明朗で少し粗雑なところはあるが、善良な人だ。
「知らなかった……。……今度お会いした際にはお祝いを述べることにします」
声の調子がわずかに乱れる。
あらぬ方向へと視線を泳がせ、普段なら使わぬ敬語が混じった。
心が一瞬にして遠くへ飛んでいったのが見て取れる。
――本当に、恋しているのね。
「育児が落ち着いたら祭祀庁にお戻りいただきたいと思っていましたが……まだ遠そうですね」
話題を締めくくるように、わざと軽く流す。
けれど、内心では小さく笑んでいた。
恋愛からは遠ざかった身ながら、人の恋路はやはり楽しい。
仕事はいつも深刻で重苦しい。だからこそ、こうした一幕は心の息抜きになる。
――もしかして、エリシアナ。
あなたにチャンスは、最初からなかったのかもしれないわね。
私は心の奥で、彼女にほんの少し同情を覚えた。
エリシアナの恋模様にも、やれやれと手を焼きつつ――それでもどこかで応援してしまう自分がいるのだ。




