もう一人の聖女の担当官
カイルの同僚、アデライナ視点です
アデライナ・フォーゲル。
当代聖女エリシアナ・ヴェルセルの担当官。それが私だ。
いま私の執務室にいるのは、私の聖女ではなく――カイル・ラス・アーレンス。
年下でありながら、すでに上職で、そして次代聖女の担当官という立場を担っている男だ。
湯気を立てる茶碗を手に、淡々と口をつける仕草。
目を伏せたままの横顔は冷静で、まだ若いのに無駄な動きの一つもない。
その態度に、私はどうしても職務の精密さを連想してしまう。
潔癖な直線さを持ち、無駄話を好まず、人々の交流を遠巻きにして、業務や研究に没頭する同僚。
たしかに少し鼻につく言い回しをすることもある。だが――それも若さゆえだと私は見ていた。
有能で、嫌う理由などないけれど、かといって仲良くなるきっかけもない。
だからこそ、これまで聖女業務の引き継ぎ以外に、彼と腰を据えて言葉を交わすことはほとんどなかった。
そんな彼が、今、正面で私に向かっている。
「アデライナ。昨日の話は、もう聞いているだろうか」
報告のためだとわかっている。
昨日の急な騒動――緊急の対応について。
上からの伝達を受けたのは今朝のこと。だから、彼がここにいる理由も自ずと察せられる。
「ええ、朝早く伺いました。この度は…」
自然と声に礼の色をこめた。
あの事態は予見できるものではなかった。だからこそ、迅速な処置を成し遂げたカイルには、感謝こそすれ、非難の余地などない。
文句を言う者がいるとすれば、それはただ己の無力を隠す者だろう。
礼の言葉を結ぶ前に――。
「聞いておりますわ! カイル様。不在でごめんなさい!」
勢いよく割り込む声。
私の聖女、エリシアナ。
暗褐色の髪を肩に揺らし、まるで舞台に立つような笑顔で彼へ向かう。
――この子は、悪い子ではない。
心根は素直で、意地悪など決してしない。
だが、どうにも恋に浮かれがちなところがあり、抑えきれない感情をそのまま口にする。
はしゃいだ声が執務室に響くたび、私は胸の奥でため息を噛み殺す。
可愛らしさも魅力もある。けれど、私の務めは彼女をただ愛でることではない。
この少女を聖女として立たせること。世に恥じぬ姿に磨きあげること。
――私は、日々その難しさに手を焼いている。
エリシアナには、まだ婚約者はいない。
年若い彼女の家は、聖女としての任期を終えたあと、この経歴を最大限に利用し、より良い縁談へと結びつけるつもりでいる。
聖女の選定は大樹によるもの。人の都合や家の格式とは無縁で、ただ力の有無によって決まる。年齢も性別も問わない。もし男性であれば「聖人」と呼ばれるだけのこと。
と、されている。されてはいるが、国の顔として世に示される以上、祭祀庁は「花」となる乙女を並べ、その中から大樹に選ばれるのを待つ。
――人間の都合に過ぎないが、それが慣習となっていた。
古い記録には、男性が聖人となった例も確かに残っている。だが近代においては少女ばかり。
もっとも、私にとってはそんなことは取るに足らない。
大樹に選ばれ、きちんと勤めを果たしてくれるのなら、それで十分だ。
けれど――。
エリシアナ、エリーは違う。
彼女は、その「見た目」や「想い」をとても重んじている。
家の意向で決められた知らない男との婚姻よりも、先に素敵な恋を見つけたい。
それができれば、定められた将来よりも上等な条件になるはずだ、と信じている。
「カイル様。私、カイル様のお手伝いでしたら、いつでも飛んで参りましたのに」
にこやかに、そしてあからさまに、彼女はカイルへと身を傾ける。
可愛らしい年頃の少女が、髪を揺らして秋波を送る姿は、世間の男たちなら簡単に心を奪われるだろう。
だが。
「ああ……それはどうも」
カイルはわずかに目を伏せ、礼を失わぬ程度に受け流す。
その横顔に、忍耐の色が滲むのを私は見逃さなかった。
そして次の瞬間、冷静な視線が私を射抜く。
――黙らせろ。
言葉にはしない。だがはっきりと伝わる眼差し。
私は咄嗟に口を開いた。
「エリシアナ。今、アーレンス様と大事な仕事の話中なの」
本来なら、彼が来る前に彼女をどこかへ行かせておくつもりだった。
けれど、侍女が不用意に次の予定を漏らしたせいで、エリーは居座ってしまったのだ。
エリーも、国の花と呼ばれる聖女に相応しく、それなりに可愛らしい。特に、この溌溂とあふれる明るさは魅力的だと思う。
だけれども、エリーもすでに知っている。カイルが担当する次代の聖女――リシェリアが、群を抜いて神秘的で、清廉で、稀なる美しい存在であることを。
それでも、彼女は怯まなかった。
『美しくても、好みというものに合わなければなんの意味もないわ! 相思相愛をお邪魔するならともかく。カイル様とリシェリアさんにそのような気配はないなら私が別に好きになったって構わないじゃない?』
真っ直ぐで、諦めない。
彼女のこうした前向きさを、私は嫌いではない。けれど同時に、胸の奥で祈る。
――どうかカイルが、堪え切れず激昂する前に。この場が収まりますように、と。
「大事な話だからこそ、聖女たる私も同席すべきですわ。ぜひお聞かせくださいませ」
――その姿勢をいつも見せてくれたなら、私の肩もどれほど軽くなるだろう。
エリシアナ。彼女がこうして殊勝に言い張るのは、純粋な職務感覚というより、明らかに目の前の青年に向けてのものだ。
そして、案の定。
エリシアナはそっと、ためらうように、それでも確かな意志を込めてカイルに触れようと指先を伸ばした。
「エリシアナ」
私は声を強めた。
制止せねばならなかった。聖女としての威厳も、同僚としての秩序も、この一線を越えさせるわけにはいかない。
カイルの視線が、その伸びかけた指先に落ちる。
もし触れていたら――彼はどうしただろうか。
よけたか。払ったか。あるいは冷ややかに無視したか。
私の知る彼なら、どれもあり得る。だが、いずれにせよ厳しい結果になっただろう。
私が胸の奥に冷たい懸念を抱いたその時。
カイルは、ふとため息をついたように見えた。
そして一呼吸。
意外なことに、彼は表情を和らげ、僅かに微笑んだ。
それは冷淡さとは正反対の――甘さすら含む顔つき。
「ヴェルセル嬢、お心遣い有難く頂戴します。ですが、もう一夜明けて休養いただきましたので、御身に労わっていただくには及びません」
言葉は礼儀を尽くし、身振りはあくまで距離を取る。
触れられることなく、しかし拒絶でもなく。
両手を軽く添えるように差し出し、そのまま制止する立ち位置を選んだ。
「どうか、お気遣いなさいませんよう。ご自身のお勤めをこそご立派に果たされてください。……私とリシェリアは、あなたの背を見てその後を進むのですから」
その声音に、重みがあった。
目を伏せ、物憂げに吐き出すような響き。
そして淡く息を整えながら言葉を紡ぐ。
「今回は、お二人がご不在の間に見つかりました緊急を要する事態を、幸い払うことが叶いましたが、いついかなる時にまた再発するかもしれないのです。外遊でお疲れの御身はまずお休みいただき、次なる脅威に備えていただければ」
彼は目を上げる。
だが、エリシアナの瞳を正面からは捉えず、首元あたりに視線をずらして。
感情を読ませないための冷静な配慮。
「御力をお借りしたいときにはぜひご相談させていただきます。先達として、どうかその時はお知恵をお貸しください」
美しく。
隙なく。
圧倒的に洗練された、完璧な言葉。
「カイル様……私……」
エリシアナは小刻みに震え、胸を押さえ、感銘に酔ったように呟いた。
――今だ。
「エリシアナ。疲れが出ているのでは?お言葉に甘えてお休みなさい」
私はその隙を逃さず、使用人に目配せする。
彼女を退出させるように。
名残惜しげに振り返り、なお手を振ろうとするエリシアナ。
その仕草を、カイルは一瞥だけで受け流し、無言で軽く礼を返した。
そして、私へ向き直ると、もうすっかり彼自身の顔に戻っている。
研ぎ澄まされた無駄のない表情。
「時間を浪費した。謝辞はいらないのでとりあえず書面を読んでほしい」
冷静に差し出された文書を受け取りながら、私は小さく息を吐いた。
「……ありがとう。少し時間をもらうわね」
ようやく、気苦労の多い“聖女の世話係”という幕間が終わり、
私と彼――二人の大人だけの時間が始まった。




