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氷の聖女のテラリウム  作者: 風木水空
3章 交錯
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任務完遂と心象世界

彼女の求めたのはただ一つ。俺が力を繋ぐ役を果たすこと。壊れた祭器の代替ではなく、彼女の力を調律するための補助。

リシェリアはあれほどの異能を持ちながら、繊細な制御や判断はまだ習得していない。だから彼女と一緒に視て、指示を与えてほしい。


迷いはなかった。


リシェリアが長い髪を前に寄せて、首から背中をわずかに晒す。そこはすでに淡く仄かに光っている。

俺は黙って膝を水に沈め、彼女の背に手を添え、首の後ろ――肩甲骨の中心に刻まれた聖痕へと額を寄せた。

より深く、お互いの霊質が繋がるため。リシェリアの聖痕に触れるため。

生肌の温もりが額に触れる。


リシェリアを通して、世界が開かれる。

今度は先ほどよりも鮮烈に、眩しい位の光景だった。だが、今度は圧倒的な畏怖はなかった。

リシェリアという存在が目の前に息づいていて、その温もりが盾となり、支えとなっている。安らぎが恐怖を凌駕する。


光の根が絡み合うその奥を凝視する。


「……うん。いけそうだ」


囁いた声は、自分でも驚くほど穏やかだった。



「お願いします」


リシェリアの声は細く澄んでいたが、その体は小さく震えていた。緊張か、あるいは畏れか。

背後にいるのに、彼女が目を閉じたことすらわかる。


きちんと同調できている。


俺も深く息を吸い込む。胸に満ちた空気を静かに吐き出し、力の世界だけを感じ取る準備を整える。


「……どうぞ」


その囁きを合図に、彼女の中から光が流れ出すのが見えた。水脈に滲み込むような輝きが根へ注がれようとする――だが。


「それじゃ……大きすぎる」


気付けば俺は動いてもいないのに、不可視の霊質でできた腕を彼女に添えていた。こんなことも本来の俺にはできたりしない。きっと彼女の影響だ。理屈もわからないのに、想像しただけで世界が変わっていく。俺は、知覚の中で、リシェリアの背を支えるようにして、その流れを調律していく。


「もっと、圧縮して……しなやかに。浴びせるんじゃなくて……届けるんだ」


絡み合う根の奥に潜む闇以外に、注ぐ必要はない。余分な力はただの負担にしかならない。


「わぁ……。ああ凄い、成程」


リシェリアの無邪気な声に、胸が熱くなる。実際に動かして見れば、水を吸うように彼女をも応えるように上達する。

この偉業を共に果たし、彼女に喜んでもらえる――きっと。


俺が選ばれた意味は、まさにこの瞬間のためにあったんだ。


もうすぐ終わる。そう思った、その時だった。一瞬、集中の極みに視界が揺らぎ、暗転する。


「あ……」


リシェリアの呟きに目を戻すと、闇が――消えかけていたはずの黒い塊が、跳ねた。掴み損ねたそれは、嫌がるように触手のように蠢き、蛆虫や蛭を思わせる醜悪な姿でリシェリアへ飛びかかった。


――触れさせてはならない。何が起こるかわからない。だが直感だけは確かに告げていた。


「リシェリア!」


現実の彼女を抱き寄せる。細い体を庇うように、自分が前へ。


「カイル、だめ!」


彼女が制止する声。

予備調査の日と同じだな。でもあの時と違って、リシェリアは俺の名前を呼んでくれている。それを最後に聞けるなら悪くない。そう思った瞬間――。

リシェリアの目が大きく見開かれた。いつもの澄んだ青ではなく、曇天のような青白い色に濁り、顔色はなく。


翳された手の先で、音が消えた。凍り付いたかのように世界が止まる。


石室を満たしていた水が、一滴ずつ粒子となって浮かび上がる。重力だけが消えたかのように、無数の水玉が宙を漂った。冷気が走り、闇の蛆虫すら凍りつく。


そして――刹那。


爆ぜた。


破裂音すら呑み込む衝撃。浮かんでいた水は一気に降り注ぎ、通り雨のように辺りを濡らす。灯籠はすべて吹き消され、石室は闇に沈んだ。


知覚を広げる。残滓もない。闇は跡形もなく消え去っていた。


「すごい。……終わった……みたいだな。リシェリア。もう大丈夫だと……リシェリア?」


呼びかけに返事はなかった。


彼女は項垂れ、糸の切れた人形のように力を失っていた。疲弊――それしか考えられない。今日だけで、あまりに多くの想定外を強いられた。


慌てて駆け寄り、その体を抱き寄せる。まだ知覚を開いたまま思わず現実の彼女に触れてしまった。


現実と虚実の視界が重なり、混ざり、ぶれる。


知覚の中に、あり得ないものが浮かんだ。


――リシェリア。


腕の中で眠る彼女が確かにここにいるのに、その向こうの世界にも、もう一人。


あ……まずい。


胸の奥が冷たくなる。彼女が言っていた言葉が鮮やかに甦った。


『眠っていたり、酔っていたら見える可能性はあります』


今のリシェリアは、意識が遠い。力を使い果たし、眠りにも似た深淵に沈んでいるのだろう。もしその心中へ、俺が踏み込んでしまったのなら――これは見てはならない領域だ。


理性は逸らせと告げている。けれど、目が離せなかった。

腕の中にいたはずのリシェリアや石室の中の光景が遠のいていく。そして、見てはいけないものが、立体感をもって鮮明になっていく。


そこにいたのは、幼い背丈のリシェリアの後ろ姿。今より小さな肩。髪もずっと短く、まだ幼さを残していた。


周囲は人の気がない海辺のようだった。白い砂浜。潮の匂いを思わせる風が吹き抜け、遠くで波が静かに崩れる音がする。鳥の群れが羽ばたき去っていく。

知覚が見せる、記憶の光景だと理解しながらも、あまりに鮮烈で現実のように思えた。


遠い水平線を向いていたリシェリアが振り向き、こちらを見た気がした。


「……っ」


次の瞬間には、目の前に立っていた。透き通るような青い瞳が俺を覗き込んでいる。眉を寄せて、訝し気に。俺を怪しい大人だとでも思うように。


おかしい。


人の心をのぞくのは、倫理的に許されておらず、研究もされていない。確かなことはわからない。それでも理論的には、……見えるものは本人の主観の記憶や光景のはず。本人が存在するのも変だが、少なくともこちらを認識するはず、ない。何か彼女に言おうとしたが、言葉は出なかった。それもそのはずだった。視野はあるのに俺の体はない。音を発する器官がなかった。


こんなの神の視点じゃないか。......じゃあ、この子は何を見てるんだ。


「……!」


幼い少女は思案を終えたのか、何かを理解したかのように頷いた。見えていないはずの俺の額を、軽く小突く。

その途端、引力が後ろに働き、景色が遠のいていく。

そして彼女の後方、水平線の向こうから大きなものが押し寄せてきた。荒波のように、世界そのものが覆い尽くされる。視界が凍りつき、白と黒の狭間に押し潰される。

流される刹那。視界が薄れていく中で、少女は小さく、けれどはっきりと微笑んで、――さよならを告げるように手を振った。


追い出された。……気がついたとき、俺は現実に戻っていた。


ほんの数瞬――それ以上の時間は経っていなかったはずだ。だが額を伝う汗なのか、石室の湿気なのか、自分でも判別できないほどに全身がびしょ濡れになっていた。

腕の中のリシェリアは、なぜか安心したような顔で安らかにと寝息を立てていた。呼吸は穏やかで、胸が上下している。頬を軽く摘んでも起きる気配はない。


狐につままれたような心地だった。


――今のは一体、何だったのか。


考えれば考えるほど底なしに迷う。だから俺は、ひとまず「見なかった」ことにする。記憶を封じて、心の奥に沈めるしかなかった。


石室はすでに静まり返っていた。全ては終わったのだ。祭器も闇も、光も。

入り口の方角から、淡い明かりが差し込んでいる。


俺は、リシェリアと重い体を引きずって、ようやくそこへ這い出ていった。

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