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氷の聖女のテラリウム  作者: 風木水空
3章 交錯
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大樹の石室

地下深くの石室は、まるで地上の時の流れから切り離された異界のようだった。空気は澄みきって冷え、肌に触れるたびに緊張を研ぎ澄ませる。普段は闇に沈むこの空間も、今日は儀式のために据えられた数基の灯籠が柔らかに光を放ち、石壁や水面に揺れる影が幻想めいた模様を描き出していた。


……俺でさえ、この場に足を踏み入れたのは数えるほどしかない。入庁した折、仕えるものへ謁見するという名目での一度きりの見学。後は担当官に任じられてからの引き継ぎで二度、三度。それだけで十分とされるほど、この石室は秘められていた。


あの頃は理解できなかったことが、今ならわかる。天蓋を覆う根の隙間――そのわずかな裂け目から、確かに“夜空”のようなものが見えた。漆黒の中に漂う光。それは月光のように淡く、だが刺すような輝きを放っていた。


「……っ」


声をあげることは許されない。戒めが、言葉を封じる。驚きは息を呑む音となり、胸にとどまった。


目を凝らすと、それはどうやら土中に眠る結晶らしかった。光を反射しているのか、それ自体が淡く発光しているのか判別できない。だが確かに、地下の冷えた世界に空の幻影を差し込む。


先に水の張られた床へと降り立ち、手を差し伸べる。リシェリアの細い指先が俺の掌に重なった。冷たい水に足を踏み入れれば、滑る石肌に体を取られる危険もある。転倒を防ぐため、彼女を支える名目で指を絡めた。


視線だけを交わす。互いに声を出さぬまま、目が触れ合った瞬間、胸が熱くなった。


――これが儀式のためではなく、ただの逢瀬だったなら。


そう思った自分を叱責しながらも、抑えきれない願望が胸を焦がす。冷えた石室の空気の中で、彼女の体温だけが確かな灯火のように感じられた。


リシェリアの足首が澄んだ水に沈む。波紋が重なり合い、ゆっくりと石室の床に広がっていった。その瞬間、彼女の体から淡い燐光が滲み出すように見えた。

――知覚を働かせたわけではない。なのに、俺の眼にそう映った。


彼女がふと俺の手を強く握る。言葉の代わりに、そっと自分自身を指差してから視線を寄越した。


「……?」


思わず首をかしげる。……いや、待て。可愛らしい仕草だと錯覚しかけたが、そうではない。リシェリアの意図は、俺に「彼女を知覚せよ」と告げているのだと悟る。


瞼を閉じる。すぐに彼女の視覚が流れ込んできた。


――ああ。すごい。


石室全体に漂う水分を媒介に、目で見るよりも遥かに鮮明な像が浮かび上がる。暗く視界の利かないはずの室内が、光の輪郭によって精緻に描き出されていく。足元を這う根の一本一本まで、まるで手で撫でたようにわかる。部屋の奥の奥まで、霧を払ったかのように透き通って見えた。


そして、天蓋――。


普段の目では、枯れ枝のように頼りなく絡んでいるだけにしか見えなかったそれが、今は数倍の密度を誇る光の根で満ちていた。枝葉が無数に重なり合い、天空の網のように輝いている。


さすが、霊樹。


冷厳で、崇高で、壮麗で――。胸の奥を鷲掴みにされるような畏れが込み上げる。人の存在の小ささを突き付けられ、この偉大なものの前に平伏したい衝動が、堰を切ったように湧き上がる。だが同時に、抗いたい欲も芽生える。見惚れながらも、目を逸らすことができない。


その時――。


視界がふっと途切れた。


ペタ、と温かな感触。顔を両手で挟まれた。目を開ければ、すぐそこにリシェリアの顔。戒めるような真剣な眼差しが俺を射抜いていた。唇が静かに動く。


(危ないですよ)


……そう告げているのだろう。


彼女は、まるでなんでもないことのように、この異界の景色を見て、触れている。俺のほうが圧倒され、導かれてしまっている。


だが、それでいい。元より俺の職分は彼女を支えることだ。


頭を振り、心を落ち着ける。今すべきは、正しく手順を整え、彼女が淀みなく力を行使できるようにすること。


崩落があったという位置を確かめ、災害の相対場所を割り出す。天蓋は高く、直接手に届くことはない。だからこそ、媒介となる祭器を取り出し、リシェリアへと手渡す。


――ここから先は、彼女の役目だ。俺はその道をひたすらに整えるのみ。


リシェリアがわずかにこちらを振り返り、頷いた。静かな合図――始める時だ。


俺は彼女の視界を遮らぬよう、そっと知覚を開く。だが主根を直視しては危険だ。胸を抉られる畏れを振り払うように、壁際まで下がった。


その様子を確認したリシェリアが、姿勢を正す。深く吸い込み、吐き出す息は澄んで、石室の冷気と混じりあう。やがて彼女は膝を水面へと沈め、片手で水に触れ、もう片手で祭器を掲げた。


知覚に映るのは光の奔流だった。崩落した箇所へ力が収束し、みるみるうちに補修されていく。ほんの数秒――そう感じられる短い時間で、裂け目は塞がり、治療前よりも瑞々しい木肌へと変じていった。根はしっかりと大地に馴染み、息を吹き返したかのようだった。


――流石だ。難なくやり遂げた。


胸の奥に喜びが湧き、伝えようとリシェリアへ振り向く。だが彼女は苦しげに眉を寄せ、なおも『癒し』を続けようとしていた。


なぜだ?


知覚を伸ばし、彼女の視界を追う。そこには――光に覆われた根の奥深くに、ぽっかりと口を開ける黒い穴があった。禍々しい闇。ぞっとするような気配が渦巻いている。


……しまった。


崩落は表層にすぎない。本丸はあそこだ。

それでもリシェリアは気付いている。ならば大丈夫なはず。

――なのに、彼女の表情は苦しそうに歪んでいた。


カーン!


疑念が過った瞬間、甲高い音が石室に響いた。

祭器が砕けていた。出力に耐えきれず、内側から破裂したように瓦解したように。破片が水面を跳ね、衝撃が逆流してリシェリアの体を弾いた。


「リシェリア!」


思わず声が迸る。戒めなど構っていられなかった。彼女を抱き寄せ、水を蹴って転がるように庇った。冷たい水が衣を濡らす。


構うものか。


「怪我は、怪我はしていないか」


起き上がり、肩を支えながら声をかける。もう終わっているならば、ここで無理をする必要はない。


「……はい、庇ってくださったので」


「仕切り直して、新しい祭器が届くまで待とう。所詮は古い予備だ」


そう言った俺に、彼女は首を振った。


「……だめです。今癒さないと。あれは一刻を争います」


声は深刻で、澄んでいながら震えを帯びていた。


「明日には、あの一帯が腐り落ちてしまいます」


息を呑む。


――それは、この国土のどこかが崩れることを意味する。


「でも……どうやって」

祭器はもうない。新しい祭器が届くには時間がかかる。到底間に合わない。


「私が、直に触れます。幸い、場所は近いので、届きそうです。ただ……」


リシェリアの視線が水面をかすめ、やがてこちらに戻る。


「カイル。力を貸してください」


その声音に宿る重みを、俺は全身で受け止めた。

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