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氷の聖女のテラリウム  作者: 風木水空
3章 交錯
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急ぎで代理で、正しい仕事

執務室の扉を開いた瞬間、すでに空気が張りつめていた。朝の柔らかな光に照らされた机上の書簡の束よりも先に目に入ったのは、深刻な表情を浮かべたアスティの姿だった。


彼女は普段から即断即決の人間だが、この時ばかりは声に切迫感があった。


「悪いけど、リシェリアとあんた。予定、全部空けておいて」


立場上、城内で顔を見かけることは珍しくはない。だが、幹部たる彼女が伝令を介さず自ら執務室へと足を運ぶのは、何かただならぬ事態を告げるときに限られていた。


「崩落があった」


短い言葉。だが、その意味は重い。


大樹の根は、ただの植物ではない。国土そのものを写し取るかのように広がり、王都を中心に縮図を描き出している。ひとたび根の調子が崩れれば、連動した土地もまた傷む。悪ければ不作、地盤沈下、崩落、地震――いずれも国家に直結する災害へと変わる。

この言葉の意味することは、――その一部が、崩れたということだ。


「……わかった。いつでも」


一も二もなく頷くしかなかった。胸の奥に走った緊張はすぐに行動へと転じる。頭の中では瞬時に予定の組み換えをはじめ、同時にリシェリアへの通達をどうするかを組み立てる。


「ありがとう。午後一番で呼ぶ。準備をしてくるから昼は抜いておいて」


言うが早いか、アスティは踵を返した。慌ただしい足音が遠ざかっていく。おそらく各部署へ直接通達しに行ったのだろう。人を介して広めるには重すぎる情報。大樹に関わる異常は、上層部のみが知る秘中の秘である。


――近年、その異常は増すばかりだった。


建国以来、聖女と祭祀庁は祈りによって霊質を大樹へと注ぎ、維持してきた。だが今は、それだけでは間に合わない。中枢の人間であれば、すでに理解している。大樹は枯れ始めている。

だからこそ、強い力を持つ聖女が必要とされた。


ただし、大樹の主根に触れる場所に入ることが許されるのは、厳重な管理のもと、限られた人間だけ。そこには、まだ俺たち『来季』の関係者は含まれない。


だから本来なら、この役目も、まだ当代の聖女が担うべきものだ。だが彼女は今、外遊で国境付近にいる。加えて、その力は飾りに等しいと評されてきた。大樹の現状を知ることのない大貴族から、政治的にねじ込まれた存在――その結果が、この崩落だ。


……だからこそ、リシェリアの存在が必要とされる。


今回の事で後見人の面子は潰れるかもしれないが、その調整は後見人同士、アスティが引き受けるだろう。彼女の立場ならば、どんな場でも切り抜ける。

俺がすべきはただ一つ。リシェリアを導き、儀式の場に立たせること。


対処もただ癒し、祈れば済むものではない。大樹に直に触れる部屋に入るため、限りなく清められた状態で臨まなければならない。水で身を浄め、直前には肉を口にせず、心身を澄ませて大樹へ近づく。もう聞いてしまった以上、終わるまで肉は断たねばならない。リシェリアにも早急に伝え、支度を整えさせなければならない。俺も部屋に戻り、儀式に備える必要があった。


「……朝をもっと食べておけばよかった」


思わず口から零れたぼやきを、側に控えていた俺の侍従が聞き取って小さく笑った。


――これから向き合う事態の重さに比べれば、ささやかな愚痴に過ぎない。だが、胃の底に残る空腹感が、この一日の長さを暗示しているようでならなかった。


控えの前室は静謐で、冷たい石壁が外界のざわめきを遮っていた。厚い扉の向こうでは石室の整えが進んでいるのだろう、時折低い声が混じる。だがここには、わずかな灯りと、俺たち二人の吐息だけがある。


儀式前の食事は簡素そのものだった。小皿に盛られた野の実や根菜を、噛みしめるように慎重に口へ運んで済ませてきた。

大樹は植物ゆえに、生き物の血肉や気配を嫌う――と言われている。肉や卵はもちろん、持ち物にすら獣の匂いを許さない。人の言葉もまた、雑音となって感応を妨げる。などと昔より……そう言われている。真偽はともかく、納得はしやすい規律だ。


そんな言葉を思いながら、リシェリアとただ向かい合い、互いの存在を確認するように入室の許可を静かに待っていた。

沈黙は重くはなかった。むしろ、儀式へと精神を研ぎ澄ませていく過程の一部のように思えた。


まだ始まってもいない。このくらいなら、大丈夫だ。


声を抑えて、リシェリアに話しかけた。

「リシェリア、いきなりの本番になってしまって、すまない」


「大丈夫です。むしろ、こういう事こそが私の本来のお仕事でしょう?……その代わり、少し手順を間違ってもあとで笑わないでくださいね」


彼女は柔らかに笑った。その笑みは恐れや緊張を隠すものではなく、まるでこちらを労うかのように。


「勿論だ。今回は代理なんだから。誰にも何も言わせないさ」


そう返した自分の声が、どこか頼りなく響いた。胸の奥に重なったのは、言葉にできぬ罪悪感。彼女を守り導くべき立場にありながら、今は準備不足を押し付けている。


本来ならば、儀式の段取りを一つひとつ引き継ぎ、充分な時間をかけて臨むべきものだ。手順も、調整も、衣装でさえ整えられるはずだった。

それなのに、彼女のためのものは、まだ一つも揃っていない。

今、彼女の衣は簡素なもの。大樹の繊維で織られた特別な布――本来の祭服はまだ仕立ての途上にあり、間に合わなかった。過去の聖女のお古をあてがうこともできたが、サイズも違い不格好だった。祭器もまた、当代聖女の保管されていた古い予備を借り出してきたに過ぎない。


この務めを誇れるように示してやりたかった。つい先日、夜会の夜に『正しさ』に思い悩んでいた彼女に。自分が背負うべきものに、確かな意味を見出してほしかった。リシェリア自身はそんな執着を持たない性質だと知っていても、なお。


「カイルが付いてくれてますから、不安なんてありませんよ」


――なのに。彼女は、俺を安心させるように微笑んでくれた。


「逆に励まされてしまったね」


目の前で、静かに待つリシェリアの横顔を見ながら、優しさが胸に沁みてくる。扉の向こうに待つ儀式の重さに比べれば、このひとときは儚い。だが、彼女の笑みの温度が確かに俺を支えていた。

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