雲をつかむ手
『手を触れた相手に悪意があるかどうかわかる』
リシェリアの発した言葉の内容に胸が跳ね上がる。
本当かどうかわからない。聞いたこともない未知の異能だ。……それでも、リシェリアなら、出来てしまいそうな気がする。
心中では恐怖にも似たざわめきが広がったが、怯むわけにはいかなかった。
この下心にも似た恋心で差し伸べた手が、すでに見抜かれているのなら――逃げても無駄だ。手を離すことはしなかった。
「ふふ、大丈夫、冗談みたいなものです。もちろん、何を考えているかなんて、全然わからないです。ただ、強い……澄み切った悪意みたいなものは伝わるというか……ただなんとなく嫌な予感がするんです。近寄りたくないような」
本当に?
その言い方でも冗談なのかわからなかった。今も、俺の出方をみているのか、今からそんな気持ちを読み取ろうとしているのか。
沈黙。
判決を待つ囚人のような気持ちで次の言葉を待った。
「そういう時は、簡単です」
彼女はなにかを思い出すように、目を細めた。
「それ以上は近寄りません。それが出来ない時は、じっとして、過ぎ去るのを待ちます」
「……野生の動物みたいだね」
思わず口にすると、脳裏に白猫が浮かんだ。
雪のような毛並み、青い瞳。彼女に似た気高さと儚さを持った猫。
リシェリアもふわりと笑った。その笑みに救われた気がした。
そして、まったく動かさなかった俺の手を見下ろし、確かめるように指先を見つめた。
「さほどでなくても、何か邪なお考えがある人は……この話をすればまず手を離します」
その言葉に、深く安堵した。
正解を選べた、と胸の奥で息をつく。
だが、リシェリアは続けた。
「善意の方が、難しいです」
青の瞳に影を宿す。
普通の人間は、思惑が混ざり合っている。
けれど純粋すぎる善意は、時に最も厄介だ。
本人が良いと信じることが、必ずしも彼女にとって良いとは限らない。
そのすれ違いが生む反転は、彼女を幾度も苦しめてきたのだろう。
リシェリアは柔らかく苦笑した。
「カイルのこの手は、いろいろ混ざっているから……わかりません。けど、大丈夫そうですね?」
わずかな安堵と冗談めいた調子。
それでも、そこに宿るのは確かな受け入れだった。
「そういう機微や、社会のこと。私の知らないこと、この力のことを……わかりたいから、多分。私はここにいるんです」
静かにそう締めくくった。
……ああ、そうか。
リシェリアは、わからないから受け入れるしかなかったのだ。
拒めば壊してしまう恐怖に怯えて、すべてを抱え込んできた。
――なんて優しいのだろう。
その優しさに縛られていることに、胸が痛んだ。
時に笑い、時には嫌がり、時には怒る――そんな自由を与えたい。
「……俺が、君の実験台になる。一緒に試していこう」
自分でも驚くほどはっきりと口にしていた。
包み込んだリシェリアの手に、自然と力がこもる。
「俺には、どんな反応を返しても構わない。それを受け入れる。だから……俺にも素直な気持ちを教えてほしい。……例えば、本当は今みたいに急に手を握られるのは嫌だとか」
言いながら、自分の行動を振り返ると、途端に顔が熱くなる。
こっ恥ずかしい。理屈を並べて誤魔化しているだけに見えやしないか、と。
リシェリアは俺の視線を真正面から受け止めて、小さく首を振った。
「……別に、嫌じゃないですよ」
その言葉に胸の奥がじんと温まる。
許された――それだけで安堵する。
……これで離さなくて済む。
この雲のように掴みどころのない彼女の感情を捕まえるには、せめて物理的に繋ぎ留めていたい。
「リシェリア。君が知りたいこと、わかりたいことが、わかるようになるまで……俺は最後まで付き合う。これも……指導係の仕事だから」
捲し立てるように言い切ると、リシェリアは驚いたように瞬きをした。
その後、ゆっくりと頷き――
「そんなこと言われたのは初めてかもしれません。よろしくお願いします」
静かな声に、確かな感情の響きが混じっていた。
そして彼女の顔に、ふと理解の色が浮かぶ。
「ふふふ……なんだか今が初めましてみたいですね。……あ、こういうのが、将来の約束というものでしょうか?」
はにかむように微笑むリシェリア。
その無邪気な言葉に、胸の奥を撃ち抜かれたようだった。
俺は耐えていたが、とうとう目を逸らす。
本当にわからないで言っているのなら、タチが悪い。
赤面を隠すように俯きながら、心臓がやけに騒がしいのを必死で抑え込んだ。




